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伊12とは、大日本帝國海軍が建造・運用した巡潜甲一1番艦もしくは9潜水艦4番艦である。1944年5月25日工。撃でリバティ船ジョン・A・ジョンソンを撃沈した。1945年1月15日の連絡を最後に中部太平洋方面で消息不明になる。

概要

伊12は、巡潜甲潜水艦の1隻である。同し。

大日本帝國海軍は、旗艦用潜水艦として巡潜3を拡大発展させた巡潜甲を建造していた。ところが、この巡潜甲は大変凝った造りになっているため生産性が低く、アメリカとの戦争が始まれば喪失を埋め合わせるための補充が必要になる。そこで帝國海軍1941年のマル追計画で建造を予定していた巡潜甲の1隻を戦時急造に適した簡略タイプに変更。とはいえ戦争が間近に迫っている状態で長に設計を変える余裕はく、変更点と言えば、高級品の艦本式2号甲10ディーゼルを量産性に優れた22号104サイクル単動式過給器付きディーゼルに換装したくらいであった。機関の変更により出が1万2400から4700に、水上も23.5ノットから17.7ノットにまで低下してしまった。電動機も特八に変更されて水中が下がった。その代わり機関が軽くなった分だけ機関室前部に燃料タンクを設置。これにより航続距離は2万2000里に増大した。他にも生産性に難がある内殻のDS鋼をにのみ使用し、残りは厚さを10増量させたMS鋼に変更している。

巡潜甲との差異は機関の簡略化くらいのため、戦隊旗艦任務用の室、参謀室、作戦室、強な通信機などはそのまま残されている。このため伊12は巡潜甲の準同艦扱いされて4番艦としている資料がある。また巡潜甲の中では一戦時中に起工した。マル追計画では伊12、伊13伊14の3隻が建造される予定だったが、1943年後期に潜特の建造数が削減された補填として伊13伊14は巡潜甲改二へ設計変更され、予定通り一で工したのは伊12だけだった。

排水量2390トン、全長113.7m、全幅9.55m、最大速17.7ノット(水上)/6.2ノット(水中)、航続距離4万744km(16ノット)ディーゼル燃料搭載量928トン、安全潜航深度100m、乗員98名(旗艦時は112名)。武装は九五式艦首魚雷発射管6門、九五式魚雷18本、40口径11年式14cm単装1門、九六式25mm連装機2基、一号射出機四零式水上機1機。ソナー装備として九三式水中探信儀と九三式水中聴音機を持つ。ただ水上機の搭載はかったとされる。

艦歴

開戦直前の1941年11月頃に策定されたマル追計画において、第620号艦の仮称で建造が決定。建造予算として2116万5000円が下りた。

1942年11月5日川崎重工神戸所で起工。1943年7月5日に伊12と命名され、8月3日進水式を迎えた後、1944年2月4日装員事務所を設置して事務を開始。そして5月25日工を果たした。初代艦長に工藤兼男中佐が着任するとともに訓練部隊の第11潜戦隊へ編入される。工藤艦長と通信士の川原田良一兵曹長は同じ岩手県宮古市山口の出身であった。

1944年5月25日13時10分、第11潜戦隊よりへ回航して飛行機関係の諸試を行うよう示され、当日中神戸を出港。6月1日より伊予にて諸試を行う。6月3日13時に本を出発して単独訓練を行い、低圧ポンプの修理航空試を遂させた。6月11日14時へ入港。15日までで電池の修理を実施する。了後、伊予へ回航して長浜東錨地にて第11潜戦隊と合流、旗艦長導を受けながら別府拠点伊予で慣熟訓練に従事。7月2日、「あ」号作戦に参加した潜水艦36隻のうち半数以上の20隻が撃沈された事を受け、帝國海軍太平洋方面での潜水艦作戦を一時中止。全ての潜水艦に電探と逆探装置の搭載、防探塗料や艦の必要部に夜光塗料の塗布、防振ゴムの設置、敵のレーダー波を乱反射させる斜行の装備といった被害防止対策を施した。

8月12日より係留運転を開始。8月18日と19日に試験潜航を行ったところ、深々度潜航試験自体は良好な結果を残したものの、両交通筒とも取付部からの漏が発覚して急遽修理を受けている。8月20日に安下錨地に移動して訓練に従事。8月27日、伊12、46、伊367の3隻は長浜東錨地にて装甲巡洋艦八雲(作戦輸送に駆り出されたの代艦)と合流し、協同訓練を実施。8月30日、伊12の左舷推進器から異音が生じるようになり、9月4日午前8時には魚雷を発射した際に発射管後が破損してしまったため、同日15時へ回航して修理9月8日に出渠した。そして9月19日に伊12、46、伊47は第1潜部隊へ転属。いよいよ実戦投入の時がやってきた。

太平洋をたゆたう幽霊潜水艦

9月30日19時53分、伊12は連合艦隊より「10月上旬に出撃し、約2ヶの期間を以って本土西ハワイ方面の敵交通破壊戦に従事せしむべし」との命を受ける(連合艦隊作第314号)。同方面における通商破壊は実に開戦劈頭以来であった。

10月4日、第6艦隊直轄艦に定されると同時にを出港。同日17時8分に第6艦隊からめて西での通商破壊に臨むよう命が下った。関門海峡を通って日本海へ進出し、機回避及び不良のため10月7日函館へ寄港して一晩を明かした後、10月8日に出撃。アメリカ西ハワイ・タヒチ・マーシャル諸島に繋がる敵海上交通路破壊のため東部太平洋まで長駆する。

10月24日深夜、乗組員41名とアメリカ海軍武装警備兵28名、便乗者の陸軍保安官を乗せたリバティ船ジョン・A・ジョンソン(7176トン)がゴールデンゲートブリッジの下を通過してカリフォルニア州サンフランシスコを出港。甲にはホノルルに輸送する軍用トラック、6900トンの食糧、150トン爆発物が尾から首にかけてギッシリと積載されていた。本オレゴン所にて僅か27日間の突貫工事で就役し、今回が処女であった。10月28日ジョン・A・ジョンソンは荒により救命いかだ外紛失してしまったため線封鎖を破って12分間の報告を行ったが、これは大きな規定違反であった。敵に線傍受されるのを防ぐ必要性からアメリカ軍ではいかだ程度の亡失であれば報告をしてはならないと決まりがあったのだ。そしてこのミスは最悪の形となってジョン・A・ジョンソンに襲い掛かる事となる。偶然バッテリー充電で浮上していた伊12はジョン・A・ジョンソンが放った通信を傍受、位置を正確に把握して迎撃に向かった。

10月29日21時5分、オアフ北東1900kmの地点で、16.2ノットで航行するジョン・A・ジョンソンに向けて2本の魚雷を発射。明かりに照らされた跡をざとく発見した見り員が「魚雷が右舷に!」と絶叫して左舷側へを切るが時既に遅し。このうち1本は尾後方46mを通過して3.7km疾走した後に爆発、もう1本は船橋前方の右舷側に命中した。たちまち闇の中で爆発が開き、甲上の係留台から軍用トラックおもちゃのように左右へ吹き飛ばされ、ジョン・A・ジョンソンが折損して大破。続いて第3倉が浸して内電を喪失、救命ボート1隻も破壊された。員4名と武装警備兵5名が戦死、警備兵1名が行方不明になった。乗組員は予備の送信機を使って何とか救難信号を送信。ところが線機もしくはアンテナの故障で信号はにも届かなかった。被から僅か3分後、船橋前方に裂が入り始め、10分後に体がっ二つに両断、20分後には船橋そのものが崩壊。生存者70名は尾部分に集まり、2隻の救命ボートに分乗して上へ脱出。体を放棄する。

撃から30分後に伊12が浮上し、波間を漂う救命ボート掛けて高速突進を開始。体当たりされる前に生存者がへ飛び込んだため救命ボートをかすめただけで終わった。しかし甲上に整列した10~15名の乗組員が万歳と叫びながら25mm対や自動小銃生存者に発ボートが伊12の中央部に流れて来ると工藤艦長は艦を急旋回させてスクリューで切り裂こうとし、巻き込まれた5名が死亡。45分間に渡って救命ボートの近くを動き回り、あるいは残ったもう1隻の救命ボートへの体当たりを試み、ボート上の17名に向けて25mm機で撃ちかける。生存者は怯えながらボートの陰に隠れたり、潜ってやり過ごす事しか出来なかった。次に距離1800mから二つに裂かれたジョン・A・ジョンソンへ14cm弾8発を発射。このうち4発が命中して前部と後部に火災が発生した。その後、伊12は2時域に留まっていたが以降生存者への攻撃は行わなかった。撃による死者は資料によって差があるものの最低でも6名が死亡、9名が行方不明になったと推定されている。有力説は計10名死亡らしい。またジョン・A・ジョンソンっ二つに割れていた事から伊12は2隻撃沈と誤認していた。

翌30日午前1時過ぎ、サンフランシスコホノルル行きのパンアメリカワールドエアウェイズのボーイング314クリッパー飛行艇が燃え盛るジョン・A・ジョンソンと救命ボート、そして伊12を撃。旅客機の乗務員と乗客は5分後にジョン・A・ジョンソンの前部が213mの炎を上げて沈没する様子を見届けた。クリッパー飛行艇巡視船アーガスにこの事を通報。だがアーガス通報を受ける前から170km離れた場所で先ほどの爆発音を聞いていて既に現場へ急行しているところだった。新手が現れる前に伊12は潜航して域より離脱。午前8時に救難機が生存者を発見、14時にはアーガスが現場に到着して生存者60名を救助してサンフランシスコへ向かう。ジョン・A・ジョンソン生存者は「伊12は非常に大きな潜水艦であり、喫線より上はまたは濃い灰色、喫線の下は明るい灰色塗装され、艦尾の周りには6インチい横線が走っていた」と言した。

生存者への撃は国際法違反の残虐行為として戦後連合艦隊長官の豊田副武大将東京裁判で起訴されたが、当事者が全員死亡していたため無罪となっている。工藤艦長が何故このような行為に走ったのかは不明。ただ同盟ドイツから「物質損失より補充が難しい人的被害を狙って欲しい」と要請があり、第6艦隊もしくは上層部に殺傷を命じられていた可性がある。また、海軍内には「連合潜水艦日本人乗組員を虐殺した」という情報が遅くとも1944年初頭に入っていたようで、伊37艦長の中川中佐と同じように報復が的だった線もありえる。

リバティ船撃沈を受け、アメリカ軍は護衛空母コレヒドールを基幹としたハンターキラーグループ派遣して伊12の捜索を開始。11月2日と4日にTBMアベンジャー撃機が「未確認潜水艦を攻撃した」と報告している。

パミール号との遭遇

11月12日午後12時20分、ハワイ北東にてニュージーランド帆船パミール号の前方に伊12が浮上。工藤艦長は停を命じるとともに甲をパミール号に向けて威嚇、しばらく双眼鏡で注視する。パミール号は1905年に建造された老朽なのに対し伊12は新鋭の戦闘潜水艦。たちまちパミール内は大混乱に陥った。しかし、伊12は「本艦はの美しさを葬るにびず、安全なる航を祈る」と発信号を放ち、中へと潜航していった。この事はパミール号の乗組員によって戦後り継がれ、1962年に雑誌へ掲載された事で日本でも知れ渡るようになった。工藤艦長の故郷である宮古市の住民有志が「艦長たちの崇高な人間を後世に伝えたい」と浄財を募り、1992年10月8日神社内に伊12号潜碑を建立している。今となっては偽を確かめる術はいが、もしかしたら、ジョン・A・ジョンソン生存者を撃した事に対する自責の念から来た行動なのかもしれない。

ただしこの出来事には反論も多い。パミール号が11月12日潜水艦(名称不明)と遭遇した事、伊12とパミール号が同じハワイ北東にいた事は確定している。ところが伊12だと裏付ける拠がく、また付近には潜水艦スポットがいたため、シップス・オブザ・ワールド誌は「パミールが撃した潜水艦はスポットである可性が非常に高い」と評している。また伊47元艦長の折田善次氏は1984年9月中央公論社から出版された『言・太平洋戦争』において「帆船パミールと伊12の美しき出会い」という文章を寄稿しているが、後に「自分の認識が間違っていたに違いない」と認めた。

いずれにせよ偽は闇の中である。

最期

1944年11月13日午後12時32分、ロサンゼルス西南西1900kmにおいて、ホノルルサンフランシスコ行きの船舶6隻を護衛していた機敷設艦アーデント団前方に潜む潜水艦を探知。午後12時41分より2回のヘッジホッグ攻撃を加えたが回避されて不成功に終わる。13時8分に掃海艇ロックフォードが再度ヘッジホッグ攻撃を行ったところ、15後に3回の爆発音を、4分後に多数の水中爆発音を聴音。そこへ追い討ちと言わんばかりにアーデントが2回のヘッジホッグを、ロックフォード爆雷13個を投下。すると中で更なる爆発が起きて潜水艦の反応が消失面にディーゼル膜と気泡、チーク材の日本語文字が刻まれた楽器ケースの破片、ニスを塗った木片などが浮かび上がってきた。

この時撃沈した潜水艦は伊12である可性が高いとアメリカ軍は判断した。しかし日本側に撃沈を裏付ける拠がい事、むしろ11月13日以降も伊12が活動しているように見え、アメリカ側の記録も何故か38が伊12と同じ日付と場所で撃沈されていたり、11月13日より後に伊12の撃沈報告が散見されるなど情報の錯綜が見られるため、11月13日撃沈説を疑問視する意見がある。

12月19日、第6艦隊部は伊12に帰投を命するが応答無し。翌20日から12月31日にかけての通信を傍受した大和田線通信所は、中部太平洋連合軍の輸送とタンカー沈没したと報告、第6艦隊は両の撃沈は伊12による戦果と判断する。

1945年1月2日20時30分に潜水艦攻撃があり、1月4日13時56分に潜望を発見したとホノルル放送が発表。大和田線通信所を通じて放送を知った第6艦隊は依然として伊12がハワイ作戦を行っていると結論付ける。当時ハワイ作戦行動を取っていたのは伊12だけなので、アメリカ軍が「敵潜水艦を発見した」と言えば(誤認を除いて)ほぼ確実に伊12をしている訳である。それから間もない1月5日午前4時35分に「マーシャル諸島北方で浮上中の潜水艦を索敵により発見した」という敵の報告を傍受した事で、伊12が帰投中だと判断した(ただしこれは誤報だったらしい)。1月15日、伊12より会敵報告があったのを最後に消息不明となる。

何時まで経っても帰投しなかったため、1月31日中部太平洋で喪失したとし、乗組員114全員の戦死を認定8月10日除籍。潜水艦特性上、正確な戦日と位置は判明していない。

死してなお敵を幻惑する幽霊潜水艦

一方のアメリカ軍は伊12のに悩まされ続けていた。喪失判定が出た後も伊12の移動と撃が相次いで報告されており、1945年3月サンフランシスコファラローン駆逐艦ウィラーキースに撃沈された、または1945年5月30日フィリピン西北西で護衛空母アンツィオが伊12を撃沈したとする報告書が上げられるなど、情報が錯綜し続けている。ただしアンツィオに関しては伊361の誤認と思われる(この日に当該域で撃沈された潜水艦伊361しかないため)。

ウィラーキースの乗組員だったビルアンダーソンは撃沈時の様子をこうる。1945年3月某日、カタリナでの任務を終えて帰投中のウィラーキースは、ピラーポイント西北西32里で潜航中の潜水艦が出す推進音をソナーで探知。艦を急旋回させて音の直上から12発の爆雷を投下しつつ離脱する。5分後に爆雷を投下した場所へ戻ってくると色の膜が面に漂っていて、どうやら潜水艦を撃沈したようだった。その日の遅く、乗組員350名が甲に集められて上官から「(今日の事について)々はにも教えてはならない」と口止めを要された。駆逐艦が敵の攻撃を阻止した事を何故海軍が隠さなければならないのか、とアンダーソンは不審に思ったという。

戦後10月2日ハーフムーンベイで行われた記者会見においてアンダーソンは「日本潜水艦を発見したと思う。々の装備からは潜水艦に見えた」とった。アンダーソンは自身が撃沈したと思われる伊12の残骸を発見しようと躍起になっているが、今のところ発見のニュースは入ってきていない。

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