伊14とは、大日本帝國海軍が建造した伊13型/巡潜甲型改二2番艦である。水上攻撃機晴嵐2機を搭載・運用できる潜水空母。戦争末期の1945年3月14日に竣工し、終戦まで生き残った。
概要
連合艦隊司令長官の山本五十六大将は、戦前よりアメリカ東岸都市を攻撃する構想を抱いていた。開戦後の1942年1月、軍令部は艦政本部に対し、「航空魚雷1個もしくは800kg爆弾1個を搭載できる攻撃機を積んで、4万海里を航海できる潜水艦は無いか」と諮問。これを受けて艦政本部は意見を煮詰めた結果、5月には基本性能が完成。翌月には設計が完了し、改マル五計画にて18隻の建造が決定した。これが伊400型(潜特型)として後に結実するのだが、戦況の悪化によって5隻に減らされてしまう。減った13隻分の穴埋めをするため、帝國海軍は建造予定の巡潜甲型改一から2隻を潜特型に準じた改装を施し、攻撃機2機の運用能力を持たせる事にした。言わば、伊14は簡易版伊400型であった。
元々は巡潜甲型改一と同規格で建造される予定だったが、水上攻撃機2機を搭載するため格納筒、艦橋、司令塔の形状が変更されている。排水量増大による乾舷の減少を抑えるべく船体にバルジを装着。船体が大型化したものの主機の変更が無かったため、出力が低下した。要目は全長113.7m、全幅11.7m、排水量2620トン、出力5200馬力、水上速力16.7ノット/水中速力5.5ノット、安全潜航深度100m、乗員104名。兵装は艦首九五式魚雷発射管6門、魚雷12本、40口径11年式14cm単装砲1門、九六式25mm三連装機銃2基、九六式25mm単装機銃1基。
伊400型をスケールダウンしたタイプだが、それでも巡潜乙型より排水量が500トンほど多い。
艦歴
1943年5月18日、川崎重工神戸造船所にて甲型一等潜水艦5091号艦の仮称で起工。1944年3月14日に進水する。潜水艦の特性として乗組員同士の結束が固く、完成前からマラソン競技が行われていた。兵も士官も和気藹々で、まさに家族同然の仲であった。1945年に入ると神戸市も無差別爆撃の対象になったが、幸い工事に悪影響は出なかった。1945年3月14日に竣工。艦長に清水鶴造中佐が着任し、横須賀鎮守府に編入。伊400、伊401、伊13とともに第6艦隊第1潜水戦隊を編制した。
伊14が完成した時には既に連合艦隊は壊滅して燃料すら心もとない状況であった。まともに作戦行動できるのはディーゼル駆動する潜水艦くらいであり、第1潜水戦隊は唯一の通常攻撃部隊と言えた。竣工当日の3月14日に神戸造船所を出港し、翌15日に僚艦がいる呉へ到着した。3月19日朝、240機以上の敵艦上機が呉軍港に襲来(呉軍港空襲)。在泊艦艇が応戦する中、伊14は潜航して難を逃れた。その後、戦隊司令有泉龍之助大佐の提案によりシュノーケルを装備する工事を受けた。
内地の備蓄燃料はほぼ底を尽き、呉にすら2000トンの重油しか残っていなかった。伊400型1隻だけで2000トンを消費するため、これでは全く足りなかった。5月27日午前8時、伊14は伊13と一緒に呉を出港し、作戦行動に必要な燃料を得るため鎮海へ向かう。しかし道中の瀬戸内海や関門海峡はB-29から投下された機雷で厳重に封鎖されており、非常に危険な海域と化していた。同日19時、海峡の入り口である門司で仮泊。夜明けを待ってから出発し、日本海を突破。5月28日に鎮海到着。燃料を満載して翌日出発する。既に瀬戸内海西部はB-29から投下された磁気機雷で危険な状態となっており、新たな訓練地に指定された七尾湾に進む。6月1日、道中で濃霧に見舞われたため一旦富山湾に退避。そして6月3日に七尾湾へ到着した。
七尾湾では血の滲むような訓練が繰り広げられた。6月6日からはパナマ運河の閘門攻撃を見越した夜間雷撃を開始。不断の努力によって晴嵐の組み立ては7分以内に収まり、45分以内に4隻全ての潜水艦が晴嵐の発進準備を完了させられる事を証明した。しかし日本海の制海権すら危うくなっており、たびたび出現する米潜水艦に悩まされた。6月12日、敵艦隊による日本本土爆撃や沖縄戦の推移から大本営はパナマ攻撃を断念し、代わりにアメリカ軍の前進拠点となっているウルシー環礁を攻撃する事を決定。6月19日に晴嵐の飛行訓練を完了したため、翌20日に晴嵐を降ろして七尾湾を出発し、6月22日に舞鶴へ帰投。推進軸の修理を受ける。
6月25日13時25分、連合艦隊は嵐作戦と光作戦を発令。まず伊13と伊14が孤立中のトラック諸島に偵察機彩雲を届ける光作戦を行い、その彩雲を以ってウルシー環礁を偵察。得られた情報をもとに伊400と伊401が晴嵐による攻撃を仕掛けるというのが嵐作戦であった。7月2日、伊13と舞鶴を出港して出撃拠点の大湊に向かった。7月4日に大湊へ入港、現地で彩雲2機を積載する。生還を期さない作戦のため乗組員には最後の上陸が認められた。予定では伊14が先に出発するはずだったが、出港直前にオイル輸送バルブを締めっぱなしにしたため、軸系過熱事故が発生。長期の作戦行動に耐えられなくなり急遽修理が必要になった。7月9日、工員たちは「修理に10日必要」と判断するが突貫工事により予定を前倒し。その間にも大湊への空襲があり、都度潜航してやり過ごした。
7月17日15時、大湊を出撃。東寄りに大きく迂回する航路を選択した。ちょうど東北から北海道にかけて敵機動部隊が空襲を仕掛けており、この迂回が功を奏して敵に見つかる事は無かった。しかしメルボルンに所在する連合軍の通信傍受部隊は伊14の出港を把握。行き先がトラックである事、7月19日午前3時に尻屋崎から165海里の地点を針路110度で通る事を掴んでいた。正確に航路を読まれていたにも関わらず伊14は巧みに監視網をくぐり抜けた。
7月30日夕刻、マリアナ諸島東方にて見張り員が左前方45度に黒い物体を発見した。どうやら相手は空母と駆逐艦のようだ。逃走を図るべく伊14は敵艦に艦尾を向けて右へ回頭する。しかし右方向より敵機が出現し、急速潜航。水深85mまで沈降しつつ隔壁を閉鎖して爆雷防御を行う。推進器を切り、海中に身を潜める。聴音によると敵艦は次第に遠ざかっているようだった。奇跡的に発見されなかったらしく、伊14は九死に一生を得た。だが悪夢はこれで終わりではなかった。左右前後、全方向からスクリュー音が探知され、たちまち敵艦に包囲されてしまった。敵は気づいていない様子だったが、伊14の頭上を無数の敵艦が通過していく。見つかれば命は無い。日付が変わった翌31日午前0時、とうとうバッテリーや圧搾空気が無くなり、窮地に立たされる。やむなく装備していたシュノーケルを使用し、充電と換気を実施。潜望鏡で周囲を監視していると、後方から駆逐艦が接近。急いで深く沈降。これを3回繰り返し、23時30分頃に浮上。厳重な対空監視を行いながら海域を北上し、辛くも虎口を脱した。潜航から44時間が経過していた。
8月3日の日没後(現地時間午前3時頃)、トラックの北東150海里にて聴音手が前方からのスクリュー音を探知。間もなく東の水平線に小さな船影を認めた。敵は排水量500トン程度の小型駆潜艇で、どうやら既に向こうは伊14を発見している様子だった。彼我の距離は5000~6000m。すぐさまに両舷停止して急速潜航し、撹乱のため水中速力を遅めて北へ南へ針路を変えまくる。潜航直後、敵駆潜艇は水上のあちこちを走査。やがて水中探信…ソナー音が響き始めた。キーン、キーンという甲高い音が山彦のように何度も鳴る。回数を重ねるごとに正確になっていき、最高で5回ものソナー音が鳴り響いた。発見されたら一巻の終わり。乗組員たちの生への願いが神に届いたのか、ソナー音の回数が次第に少なくなっていき、音も遠ざかっていった。どうやら最後まで伊14を捕捉出来なかったらしい。
8月4日17時30分、目的地のトラックに入港して彩雲2機を揚陸。先発したはずの伊13の姿は無かった。トラックでは1日に1~2回、B-29が爆撃してきたため、午前8時から15時までは潜航沈座して退避。乗組員は半舷上陸して次の作戦に備えていた。彩雲輸送後は日本本土に戻る予定であったが、8月6日にシンガポールへの回航を命じられる。そして現地で8月15日の終戦を迎える事になった。玉音放送はトラック基地にも届いたが、平文だったためアメリカ軍の謀略だろうと考えられた。
戦後
第6艦隊司令部は第1潜水戦隊に香港経由で帰国するよう命じたが、清水艦長は香港に寄港したあとシンガポールに向かって戦争を継続しようと考えた。しかしそこまで燃料が持たない問題に直面して断念。
8月18日に本土を目指してトラックを出発。「潜水艦は潜望鏡を高く上げよ、黒色三角旗を掲げよ、潜航してはならない。魚雷や弾薬など攻撃兵器の一切は海中へ投棄せよ」と矢継ぎ早に電文が届き、伊14は黒色三角旗を掲げた。8月27日午前10時20分、水平線にマストが7~8本伸びているのが確認された。米第38任務部隊であった。上空にはグラマン1機が低空で旋回し、様子を窺っている。やがて前方の米艦隊から2隻の駆逐艦が分派され、盛んに発光信号が送られてきた。機密文書の破棄が済んでいなかった伊14は逃げるように移動し、処分の時間を稼ぐ。機密文書や暗号書を規定どおりに破棄した後、駆逐艦マレーとタジールに拿捕された。降伏の意思を示すと、米兵によってすぐに星条旗が掲げられた。艦内には十数名の米兵が乗り込み、険悪な雰囲気が流れる。米艦隊からは人質40名を差し出すよう命じられ、同日夜に移乗した。8月29日午前9時55分、相模湾に到着。湾内には100隻以上のアメリカ艦船が停泊していた。人質40名は返還され、先に入港していた伊400の隣に投錨する。8月31日14時45分、潜水母艦プロテウスに先導されて出港。伊400ともども横須賀に回航された。9月15日、除籍。
11月1日、潜水艦救助船グリーンレットに先導されて横須賀を出港。伊400、伊401とともに佐世保へ回航する。本来ならローズエンド作戦で潜水艦は処分されるはずだったが、潜水空母という特異な艦種に興味を持ったアメリカ軍によってハワイへ持ち帰られる事に。12月11日、佐世保を出港。出港から数日間は台風に見舞われ、伊14は転覆しかけるも何とか助かる。グアムとエニウェトクを経由しつつ、ハワイに向かう。12月31日、日本人乗組員が艦内で歌を歌って大晦日を祝った。1946年1月6日、真珠湾に到着。アメリカ海軍軍楽隊が演奏で出迎えてくれた。
1946年5月28日、真珠湾沖で米潜ブガーラの雷撃によって撃沈処分された。
関連項目
- 0
- 0pt
https://dic.nicovideo.jp/t/a/%E4%BC%8A14