伊54とは、大東亜戦争中に大日本帝國海軍が建造・運用した伊54型/巡潜乙型改二潜水艦1番艦である。1944年3月31日竣工。レイテ沖海戦中の10月28日、レイテ東方で対潜攻撃を受けて沈没。
概要
巡潜乙型改二とは、簡略化された前級・巡潜乙型改一をベースに、更に簡略化を推し進めて量産性をより高めた、巡潜型の戦時急造タイプである。
基本的な設計は巡潜乙型から大して変わっていないが、主機をディーゼル・モーターともに小型かつ量産性に優れた艦本式22号10型に換装、空いたスペースに燃料を搭載して航続距離を増大させ、魚雷発射管室後方の兵員室を改造して魚雷搭載本数を19本に増加させている。生産性の悪いDS鋼は司令塔のみに使用、船体内殻は軟鋼材のMS材に変えた上で板厚を厚くして安全潜航深度の弱化を防いだ。改一との相違点として、航空機格納筒の上に22号電探を装備、方向探知機のガードを廃止、艦橋の扉位置やハッチの位置を変更、機関変更に伴う排気口の変更等が挙げられる。
これら簡略化のおかげで今まで2年以上を要していた建造期間が1年8ヶ月程度にまで短縮。しかし艦本式22号10型に換装した弊害で改一より出力が低下し、水上速力が23.5ノットから17.7ノットに大幅減少、出力も1万1000馬力から4700馬力に減じるなど、大幅な性能低下を甘受しなければならなかった。
ただし、燃費の改善に加えて機関重量が軽減された恩恵で航続距離が1万4000海里から2万1000海里に増大しており、乙型には不可能な長期間の作戦が可能となっている。魚雷搭載本数が2本増えて攻撃力も向上。また竣工時より22号対水上電探を装備していた。計画では21隻建造されるはずだったが、実際に就役したのは伊54、伊56、伊58の3隻のみに留まる。
1944年3月31日に就役した伊54は、同盟国ドイツの技術を参考に完成した仮称三式探信儀の実験協力を、慣熟訓練の傍ら内地にて実施し、大本営海軍部に貴重なデータを提供した。初陣では窮地に陥ったサイパン守備隊を援護するべく榴弾砲3門と弾薬を満載した運砲筒の輸送に臨む。しかし到着前にサイパンが陥落したためテニアンに目的地を変更するも、荒波によって運砲筒を喪失してしまって輸送失敗。やむなく横須賀に帰投している。最期はレイテ沖海戦終結後の10月28日、レイテ東方にて、米機動部隊の防御網を掻い潜ろうとしていたところを護衛駆逐艦に探知され、対潜攻撃を受けて撃沈された。回天作戦に参加し戦記もある伊56や、重巡インディアナポリスを撃沈して終戦まで生き残った伊58とは対照的に、伊54には目立った武勲や著名な戦記が無いせいか影が薄い傾向にある。
要目は排水量2140トン、全長108.7m、全幅9.3m、最大速力17.7ノット(水上)/6.5ノット(水中)、ディーゼル燃料搭載量895トン、乗員94名、安全潜航深度100m。兵装は艦首の九五式魚雷発射管6門、九五式魚雷19本、11年式14cm砲1門、九六式25mm連装機銃1基、呉式一号射出機四型、零式小型水上偵察機1機。電測装置として22号水上電探、九三式探信儀、九三式聴音機を持つ。
戦歴
潜水艦の大量建造を企図したマル追計画において、丙型一等潜水艦第627号艦の仮称で建造が決定。1942年7月1日に横須賀海軍工廠で起工、1943年5月4日に進水を果たし、1944年1月10日に艤装員事務所を設置、そして3月31日に無事竣工した。初代艦長には、伊156や伊181の艦長を歴任したベテラン大橋勝夫中佐が着任。竣工後は横須賀鎮守府所属となり訓練部隊の第6艦隊第11潜水戦隊に編入される。
1944年4月8日から10日にかけて東京湾で単独訓練に従事。しかし何らかの故障が生じたらしく、4月13日16時30分、第11潜水戦隊より「修理完了次第、横須賀発内海西部の安下庄錨地に於いて当隊と合流すべし」との電文を受領している。4月18日に横須賀を出港、同日中に伊予灘へ到着した。翌19日に発令された官房艦機密第1822号に従い、仮称三式探信儀二型訓令実験に協力するべく、伊54は4月21日より長らく呉に停泊。実験には伊53も協力した。仮称三式探信儀とはドイツ海軍で使用されていたS装置を参考に開発した聴音探信儀で、1943年末にようやく国産化に成功したものだった。二型とあるので伊54が実験したのは哨戒艇用のものと思われる。
5月6日、久々に呉を出港して伊予灘で訓練、5月21日から27日まで呉での整備・休養を挟んだ後、再び伊予灘で、血の滲むような月月火水木金金の猛特訓に身を投じる。5月24日午前6時40分、緊急実験のため大本営海軍部参謀から第11潜水戦隊に潜水艦1隻の貸与を受けたいとの申し出があり、特に参謀側は三式探信儀を装備していたためか伊54の貸与を希望した。
6月1日に呉へと回航。6月6日13時に呉を出港して本浦に仮泊、ここで実験に協力し、翌7日午前7時に出発して呉へと戻った。その後は呉工廠で低圧排水ポンプの修理に従事。6月19日に試運転を行い、6月21日に修理を完了した。燃料・糧食・軍需品の満載、魚雷規定数の搭載及び確認検査、出撃前の諸工事を実施し、6月22日から27日の5日間、伊予灘で戦闘訓練を行って戦備を完全に整える。6月29日18時30分、第11潜水戦隊は一人前の戦士となった伊54に「30日以降は第7潜水戦隊の指示を受け行動すべし」と下令。出撃の時は間近に迫っていた。
新たな配属先である第7潜水戦隊は伊54、伊55、呂48にサイパン方面での敵艦隊邀撃を命令。その後は再三目的地について変更が加えられ、最初はテニアンで孤立した飛行機搭乗員の救助だったが、グアムへの運砲筒輸送に変わり、最終的にサイパンへの運砲筒輸送となった。現在、サイパンには大規模なアメリカ軍が上陸して守備隊を激戦を繰り広げており、救援に向かった小沢機動部隊は米機動部隊との決戦に敗れて沖縄に退却(マリアナ沖海戦)、苦戦を強いられる守備隊を援護出来るのは、もはや潜水艦だけに限られていたのである。
7月1日に呉を出港した伊54は、短期間の航海を経て、翌2日に横須賀へ入港。榴弾砲3門とその弾薬を積んだ運砲筒を与えられる。しかし、この時点で既に、13隻の潜水艦がマリアナ方面で失われた事が判明し、今や同方面は死地も同然であった。
7月6日午前10時、運砲筒を曳航しながら横須賀を出撃。ところが道中の7月9日、サイパン失陥に伴い、サイパンから南へ5.5kmの近隣に位置するテニアン島へ行くよう命令が下り、伊54と伊55の2隻は命令通りテニアンを目指す。ところが7月13日夜、伊55は運悪く敵哨戒機に発見されてしまい、急行した敵艦から爆雷攻撃を受けて撃沈。既に米艦隊がテニアンに対する艦砲射撃を始めていたのだ。一方の伊54は敵襲こそ免れたものの荒波で肝心な運砲筒を喪失して輸送失敗。やむなく帰路に就いて、7月24日に横須賀へと帰投した。同じくテニアンへ向かっていた呂48もまたサイパン北方で消息を絶っている。
第1航空艦隊司令部と飛行機搭乗員回収のため、伊54同様テニアンに向かった伊26、伊45、伊55のうち、伊26のみが輸送に成功。伊26の日下敏夫艦長曰く「上層部の無茶苦茶なところ」と非難している事から如何に難易度が高かったかが窺える。第7潜水戦隊は、指揮下の呂号潜水艦部隊が半壊した影響で大規模な再編制が行われ、潜丁型のみで編成される事となったため、伊54は第15潜水隊へと転属。
「あ」号作戦に参加した潜水艦36隻のうち半数以上の20隻が撃沈された事を受け、帝國海軍は7月27日の伊45帰投を機に一旦太平洋方面の潜水艦作戦を中止。全ての潜水艦に電探と逆探装置の搭載、防探塗料の塗布、防振ゴムの設置、レーダー波を乱反射させる斜行板の設置、呂500の解析結果から艦の必要部に夜光塗料の塗布などの対策が施された。8月23日、山口県北部の油谷湾にて他の大型潜水艦と集合訓練を実施するも、先述の被害対策は電探を除いて大して効果が無いと判明してしまう。
8月31日に二代目艦長として中山伝七少佐が着任。9月中は回天母艦への改装工事等に追われたからか、ペリリュー島とモロタイ島へ上陸したアメリカ軍に対する攻撃に割り当てられた第34潜水隊4隻と伊177を除いて、各艦とも特に作戦行動を行っていない。
レイテ沖海戦
10月初旬、米機動部隊はマリアナ諸島とコッソル水道から出撃し、10月9日に米戦艦群が南鳥島を砲撃、翌10日に米機動部隊が南西諸島を大規模空襲(十・十空襲)が行われ、敵艦隊主力の来襲と判断した連合艦隊は「玄作戦以外の潜水艦は出撃準備を急げ」と下令。それから時を置かずに10月12日、今度は台湾を空襲し、これを現地の基地航空隊が迎撃した事で台湾沖航空戦が生起。敵空母10隻以上撃沈というとんでもない報告が上がって来た。好機と見た連合艦隊は同日16時30分、伊54、伊26、伊37、伊45、伊53、伊56に出撃命令を下し、痛撃を受けて台湾東方へと敗走する敵艦隊の追撃を試みる。10月14日21時1分、伊54、伊26、伊45、伊53、伊56の5隻で甲潜水部隊を編成。
10月15日、伊56とともに呉を出撃。沖縄南東約240海里に設定された散開線に向けて移動を始めた。しかし散開線に到着する前の10月17日朝、アメリカ軍の大部隊がレイテ湾口スルアン島へ上陸、これを迎撃するべく連合艦隊は捷一号作戦を発動する。たまたま台湾東方に向かう途上だったので甲潜水部隊は迅速にフィリピン方面への移動が可能だった。間もなく軍令部から陸軍機が発見した敵機動部隊についての電話連絡が入り、甲潜水部隊に攻撃の命が与えられた。
10月19日、レイテ湾に攻略船団が、レイテ南東海域に後詰めと思われる大規模船団が、レイテ東方海上に敵機動部隊二群、ルソン東方に一~二群が行動中と判明。当初甲潜水部隊は陸軍機が見つけた敵機動部隊攻撃に向かっていたが、翌20日に連合艦隊が全潜水艦をレイテ湾東方へ集結させる指示を下したため、同日20時52分に配備変更を伝える電文が各艦に送られた。
10月23日の艦位報告を最後に伊54からの連絡は途絶。
10月24日22時57分、連合艦隊司令・豊田副武大将の全軍突撃電に基づき、潜水艦部隊も配備点への強行進撃を命じられ、伊54は「ヤシワ55」への進出を試みる。翌25日、栗田艦隊の戦況を鑑みて、伊54、伊26、伊45の3隻に再び配備変更指示が下令。10月27日14時5分、連合艦隊は潜水艦戦力の大部をレイテ湾東方に集結させるよう命令し、スルアン島を起点に第一散開配備。伊54は伊38と並んで最もスルアン島に近い海域(フィリピン東方220km)へと配備された。
最期
レイテ沖海戦終結後の1944年10月28日午後12時18分、スルアン東方70海里にて米第38.4任務群の警戒網を突破しようとしている伊54を、グリッドレイ級駆逐艦グレッドレイ、バグリー級駆逐艦ヘルムが探知。米空母が急いで退避する中、グリッドレイは3回、ヘルムは3回の対潜攻撃を行ったが、伊54はこれを巧みに回避する。
だが14時11分、ヘルムが行った4回目の爆雷投射でトドメを刺され、大爆発に続いて2回の小爆発が起きた後、海面に油膜と気泡が現れた。2隻は撃沈の証拠として損傷した甲板と人骨を回収した。乗組員107名全員死亡。一方でグリッドレイとヘルムが撃沈したのは伊46とする指摘もある。
10月30日と11月1日の両日、伊54、伊26、伊46は19時に予定されていた状況報告を行わなかった。沈没後も伊54には配備点変更の命令が何度か出されていたものの、11月20日、帝國海軍はフィリピン東方で沈没と認定。1945年3月10日に除籍した。
関連項目
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