凌統とは、三国志に登場する人物である。生没年には諸説あるが、本項では189年生まれ、217年没を採用する。
血気盛んな呉の若武者
字は公績。呉郡余杭県(浙江省杭州市)の出身。父の凌操は孫策・孫権に仕えた武将だったが、203年(建安8年)の黄祖征伐で流れ矢に当たり討ち死にすると若年で父の跡を継ぎ孫権に取り立てられる。
206年(建安11年)の山越征伐の時、督である陳勤の好き勝手な振る舞いを凌統は咎めた。陳勤は怒り凌統やその父凌操を罵り、凌統は涙を流しながら堪えていたがその悪口が帰り道にまで及ぶや凌統は我慢できなくなり陳勤を斬りつける。
陳勤は数日後その傷が元で死亡。凌統はこうなったら死んでお詫びするしかないと敵軍に猛烈に突撃、敵軍をさんざんに打ち破った。凌統は自首するが、孫権はこの話を壮快に思い、功績を立てて罪を贖えるようにした。
208年(建安13年)の黄祖征伐では董襲と共に先鋒を務め敵将の張碩の首を取り、赤壁の戦いや周瑜の南郡攻撃にも従軍。甘寧が包囲された時、他の武将が救援に行っている間本陣を守備した。214年(建安19年)には呂蒙と共に皖城を攻めた。
215年(建安20年)、合肥の戦いで張遼の攻撃で窮地に追い込まれた孫権を、部下300名と共に救出、孫権を脱出させると自分らは敵軍に攻撃を仕掛け数十人を討ち取った。自軍の陣地への橋が壊されていたので鎧を着たまま泳いで帰還、満身創痍の状態だったので孫権は凌統を手当させた。
凌統は自分の部下300名が戻らないのに落胆する。孫権は彼の流す涙を手で拭うと「公績、亡くなった者は戻らない。だが私にはあなたがいる、それで十分だ」と声をかけ、彼の配下をそれまでの倍付けてやった。
没年について
『三国志』には山越征伐から帰還してすぐ49歳で没したとあるが、『建康実録』には217年(建安22年)29歳で没したとある。217年前後から凌統の記録が途絶えること、彼の配下の軍の指揮は駱統(228年没)が継いだと記録にあることから、後者のほうが正しいと思われる。
凌統が死んだ時、2人の子がいたが孫権は宮中で自分の子のように養った。兄の凌烈が成長すると駱統からかつての父の配下を返されたが、凌烈は罪を犯して爵位を取り上げられたため、弟の凌封が後を継いだ。
甘寧との関係
凌統は軍中にあっても「雖在軍旅、親賢接士、軽財重義、有士之風」と記録されるほど優れた道義の持ち主だった。士卒の支持も厚く、万余の兵を率いて故郷を通りがかった時も官吏に恭しく接し、旧知に親しく声をかけたという。
また、留賛という人物の評判を聞くやこれを孫権に推挙している。留賛は後に左将軍まで出世した。
凌統の父の凌操は黄祖征伐の時に討ち死にしているが、当時黄祖の配下だった甘寧に射殺されたともいわれている。合肥の戦いで曹操配下の楽進との一騎打ちで窮地に陥った凌統を矢で甘寧が救ったため、それ以降二人は堅い親交を結んだ…のは三国志演義の話。
正史では甘寧は凌統の仇討ちを恐れ凌統に会おうとせず、孫権も凌統に自重するよう求めていた。こんな話が記されている。呂蒙が宴会を開いた時、凌統が剣舞を舞うことになった。その時甘寧が戟を取ったため、呂蒙がその間に割って入りその場はそれで済んだが、孫権は甘寧に半州に駐屯させた(つまり凌統と引き離した)という。
各メディアにおける凌統
三国志演義
父凌操が孫策に従軍した時一緒に付いてきて、父が甘寧に射殺された時は必死でその亡骸を奪い返した。そんな甘寧が孫呉に降り黄祖を討った時の宴会で、凌統はいきなり甘寧に斬りかかっている。その後も剣舞事件を経て、ようやく仲直りするのは上に書いた通り。
真・三國無双
皮肉屋。父の仇として甘寧を恨んでおりよく喧嘩をするが、のちに呉の仲間として彼を信頼するようになる。
ヌンチャクっぽい両節昆という武器を扱う。 夏口の戦いは彼の初陣であり見せ場。
どうやら49歳没を採用しているらしい。ソースは真・三國無双6 猛将伝の石亭の戦いより。
無双OROCHIでは異世界の女性と絡む。阿国、三蔵法師が該当する。
女性に人気が高く、人気投票は8位。10位以上にランクインしている呉のキャラクターは陸遜と彼だけである。
無双乱舞(6以降)
- 鎖縛:「逃がすと思うかい?」
相手を足でつかみ、そのまま叩きつける投げ技タイプ。 - 炎舞脚:「火傷するぜ?」
炎をまとった三連サマーソルト。待ちガイル - 炎槌脚:「いいんじゃないの?」
7で追加された空中無双乱舞。
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