呉(ご、229 - 280)とは、中国の三国時代、長江流域に成立した王朝の国号である。孫呉・東呉とも。
初代君主は孫権、首都は建業である。
概要
魏より独立した孫権によって建国され、孫皓が西晋に降伏するまでに四代つづき、約50年存続した。
後漢から禅譲を受けて成立し、政治諸制度や文化方面で多大な影響をもたらした魏や、当時から漢王室の正統を主張していた蜀漢に比べると三国時代における呉国の存在意義は大きくない。
しかしながら、孫氏が首都に定めた建業は名を改めつつも南北朝時代における漢民族のよりどころとなり、孫呉は「六朝時代」と呼ばれる時代区分の最初の王朝として数えられている。また、四姓と呼ばれる有力豪族の連合政権でもあった孫呉は、そのゆえに貴族文化の成熟を促し、これが詩画や清談の流行した六朝文化へと続いていく。
そのため、当時、後漢の威光の及ばなかった蛮地ともいえる江南地方に拠って、北方の移民や士大夫を受け入れ各地に跋扈していた異民族や妖徒を鎮定したことによる後代の影響はきわめて大きいといえる。
ここでは建国以前の孫堅の代からの詳細を追って説明していく。カッコ年は主な活躍時期。
孫堅 (184年 - 192年頃)
江東の虎
孫堅、字は文台。
孫子の子孫と伝えられるが、出自は不明で低い身分であったとされる。
しかしながら勇猛さによって宗教勢力の鎮圧などで名を挙げると、徐州下邳県の丞となる。
黄巾の乱[184年]が起こると朱儁の下で武功をあげ、つづく辺章・韓遂の乱[186年]では司空・張温の参謀として従軍し、その働きから長沙太守の座を射止めた。
就任後は無法地帯であった荊南を転戦して支配版図を拡大し、黄蓋や韓当といった有能な配下を迎えることでその威勢は飛ぶ鳥を落とすほどであり、他勢から大いに恐れられた。
反董卓連合と非業の死
一方、中央では後漢皇帝・霊帝の崩御をきっかけとした混乱のさなか、西涼の董卓が献帝を旗印として政権を立ち上げる。それに危機感をおぼえた袁紹たちは諸侯を糾合して反董卓連合を結成した。
孫堅もまたこの政変に乗じて荊州刺史を斬って北上し、袁術と結んで連合軍に参加する。袁術は上奏して孫堅を破虜将軍・豫州刺史に任命させた。
董卓に襲撃された孫堅は、側近の祖茂に自身のシンボルであった赤頭巾をかぶせて城を脱出し軍備を整えると、
陽人の戦い[191年]にて胡軫・呂布が率いる董卓軍を打ち破って敵将華雄を斬り、劣勢となった董卓軍は洛陽を焼き払って長安に遷都した。洛陽に入った孫堅は荒廃した皇帝の陵墓を修復し、一躍その名を高める。
その後孫堅は新たに荊州刺史として領分を固めていた劉表の討伐に乗り出し、黄祖率いる襄陽城を包囲する。
だが不運にも戦いのさなか単騎でいた際、敵軍に射殺され若くして戦死した。三七歳という若さであった。
精強をきわめた軍勢は孫賁に率いられ、宗主である袁術によって吸収された。
孫策 (194年 - 200年)
“虎児”として
孫策、字は伯符。
孫堅が黄巾の乱で義兵をあげる頃に周瑜と友誼を結び、秀でた容姿と闊達な性格から多くの人を惹きつけた。
父の死後、数年にわたる不遇の時期を過ごした孫策は、袁術のもとで正式な孫家の後継として名乗りを上げると、それを殊勝に思った袁術によって古参の将兵を授けられる。
大規模な袁術軍でもその英才は際立ち、諸将はみな孫策を尊敬した。袁術はその才能を認めつつも強大な権限を持たせないよう処遇するが、そういったなかで孫策は、張昭・張紘といった参謀や蒋欽・周泰といった勇士を次々と集めて飛躍の時をうかがっていた。
小覇王
江東で政争が起こると、孫策は袁術に願い出てその平定に乗り出した。
与えられた軍勢は僅かであったが、周喩の私兵を迎えるなどして、軍を重ねるうちに兵力は大きく膨れ上がった。
戦を行えば快進撃を続け、自らは太史慈との一騎打ちを行った。揚州刺史・劉繇は軍を棄てて逃走し、会稽の王朗、呉の厳白虎らを次々に破って江東一帯に勢力を拡大していく。
それを危険視した袁術は江東の太守の座を一族の袁胤に交代させると、好機とみた孫策は袁胤を追放して独立した。配下には新たに呂蒙や虞翻などを迎え、袁術のもとにいた周瑜、魯粛や呉景らも孫策のもとに参じたことでますます勢いが盛んとなり、許貢など反乱分子を瞬く間に制圧した。
突然の死
やがて皇帝を僭称し始めた袁術との関係を断って献帝を擁する曹操に接近すると、曹操は上奏して孫策を討逆将軍・呉候に任じる。袁術軍は曹操・呂布・孫策の攻撃によって崩壊し、君主・袁術も死去したことによって残存する大軍を孫策が手中に収めた。
中原では、河北を領する袁紹と、皇帝を抱える曹操が雌雄を決する構えを見せていた。孫策はひそかに許都を襲撃する計画を企てるも、その矢先、許貢の残党勢力の襲撃で重傷を負い、孫権に後を託して逝去する。26歳であった。
孫家の跡継ぎは若干19歳の少年・孫権であり、英雄を失った江東には不穏な空気が流れ始めた。
孫権 (200年 - 254年)
碧眼児
死に瀕した孫策は、後継者選びで孫権を指名、後見に張昭と周瑜を選んだ。
当時、孫氏が支配していたのは会稽や呉郡といった主要な拠点だけで、奥地まで支配が行き届いておらず、また各地に豪族や軍閥が食客を抱えて事の推移を見守っている有り様であった。
孫権が当主となると、一部の名士層が北に流れ、山越や孫一族などからも反乱が発生した。しかし張昭や程普らの働きで混乱は最小限に抑えることに成功し、曹操から上奏を受けて討虜将軍・会稽太守の肩書きを得た孫権は新たな体制構築を目指すことになる。
兄・孫策はその魅力で多くの人間を惹き付けたが、反面性急な領土拡張で地元の豪族からは反感を買っていた。孫権は彼らとの和睦を行い、結果的に顧雍や陸遜など有力な豪族たちが孫家に従うようになった。また、孫策以来の将であっても、呂蒙に学問を奨めてのちに周瑜・魯粛を継ぐ司令官に成長させるなど人の扱いに長けた側面をもっていた。
江東平定と赤壁の戦い
体制が整うと、孫権は途絶えていた黄祖征伐[203年-208年]を再開し、甘寧のような猛将を旗下にいれつつ攻撃を重ねる。同じ頃、ふたたび山越が反乱のきざしを見せたために、各地に部将を配して鎮定に当たらせ、新たに郡県を整備した。そして208年、ついに黄祖を討って江夏を制圧し、江東の支配を盤石なものにする。
同年、華北を手中に収めた曹操が南下するきざしを見せると、ほぼ同時に荊州刺史・劉表が病没したため、後を継いだ劉琮は曹操に降伏した。益州もまた恭順の姿勢をとった。これに反発した劉琦と客将の劉備は、長江を渡って抗戦する構えを見せた。
劉表の弔使として荊州にいた魯粛は、劉備と面会して同盟を提案し、長坂で消耗していた劉備は喜んでこれを受け入れて諸葛亮を使者として赴かせた。
そのため降伏論が主流だった評定の場は、魯粛・周喩ら主戦論が盛り返して紛糾し、それを汲んだ孫権は徹底抗戦を決断して周喩・程普の二人を都督に任じる。そして劉備との連合軍をもって赤壁の戦い[208年]にて曹操を大敗させた。
209年、主力の周瑜軍はそのまま曹仁の守る江陵に侵攻(南郡の戦い)、苦戦の末陥落させるが、北上した孫権は合肥と徐州を叩くもいずれも失敗した。
荊州問題と合肥の戦い
赤壁後の領土伸張がうまくいかない孫権を尻目に、劉備は荊南を平定。擁立していた劉表嫡子の劉琦を荊州刺史に上奏すると、劉琦の死後は自らが荊州牧となって州都を公安にさだめ、実質的な支配を強めた。
そのため西進の意欲を示す孫権と、劉表の実質的な後継として荊州に君臨した劉備との間には領有権をめぐっての諍いが起こることになる。
左将軍・豫州牧であり、元・劉表軍の麾下を束ねる劉備の権威を恐れた孫権は、京城において同盟を結び、彼の妹(孫尚香)を娶らせた。劉備は朝廷に上奏して孫権に車騎将軍代行・徐州牧の肩書きを与え、江東支配の権威付けを後押しした。
荊州支配において、孫権は魯粛の意見に従って荊州を貸し与える形を取るも、孫権軍単独による蜀侵攻を計画していた周瑜は直後に病死、孫権の蜀攻略が思うようにいかないまま劉備が益州に侵攻したことによって、出し抜かれた形となった孫権との摩擦はさらに強まった。
周瑜が病死したことによって魯粛が後継となり、天下三分を推進したことで孫・劉間の大きな衝突は避けることができたといえる。215年、劉備が成都を落として益州を手に入れると、孫権は荊州の返還を求める。しかし劉備は期限を先延ばしにするだけで応じる様子を見せなかったため、孫権は呂蒙・魯粛に命じて荊南に侵攻し、劉備も自ら出陣し関羽と共に対峙した。
事態を重く見た魯粛が関羽に会談を申し込み間一髪で衝突が避けられたところ、同年曹操が漢中に侵攻してきたために劉備は和平案を提案。長沙などの一部を孫権に返還して辛うじて関係が保たれた。
また荊州を劉備が押さえたことによって呉の目はもっぱら合肥へ向けられた。
212年に建業に拠点を移して長江の支配を強固にしたうえで、215年には荊州問題がある程度解決したため大軍をもって合肥に侵攻した。しかしこの合肥の戦い[215年]では僅か7.000ほどの張遼軍に苦戦し、退却戦では張遼の奇襲によって危うく命を落としかけたが、凌統らの奮迅により辛くも脱出することができた。
好機とみた曹操は大軍で濡須口に侵攻[216年]。孫権軍は甘寧の夜襲や呂蒙の献策によって曹操の攻撃を防ぐが苦戦が続き、翌年孫権は曹操に降伏した。
しかし降伏は形だけのもので、象など珍しい贈り物を贈るにとどまった。
三国鼎立
217年、魯粛が病死したことで呂蒙が後継となると対劉備政策に転換が見られえうようになる。
同年、関羽が北上し樊城を攻めると呂蒙は病気を偽り建業に帰還して曹操と同盟を結ぶ。後任の陸遜に油断した関羽は後方の警戒を怠って、呂蒙・陸遜に南郡を占領され益州への連絡を遮断される。
進退窮まった関羽は軍を返して麦城に立てこもるも、最後には僅か十数騎になって逃走したが、朱然と潘璋によって捕縛され、処断された関羽らの首は曹操のもとへ送られた。曹操は孫権を驃騎将軍・荊州牧に任命した。
関羽の死によって完全に劉備と敵対した孫権は、同じころ死去した曹操の後を継いだ曹丕に近づき、魏建国後はあらためて臣従の形をとった。曹丕は孫権を呉王に領した。
復讐に燃える劉備を迎え撃った夷陵の戦い[222年]では、正攻では勝機がないと考えた陸遜による一年に及ぶ徹底的な持久戦の末に大勝する。
以後の蜀は、多くの将兵を損失し蜀漢皇帝・劉備も逝去したために諸葛亮のもとで体制を立て直すことに専念せざるを得なくなった。蜀が荊州支配を断念したため、ここに三国の版図がほぼ確立した。
この頃、孫権は荊州に睨みを利かせるため鄂を武昌と改め、そこを都にした。
皇帝となった曹丕に対しても形だけの臣従を続けていたために、曹丕は222年三方面から侵攻を行う。揚州では、洞口と濡須口で衝突が起こり、洞口の戦いでは呂範の軍船が転覆したところを曹休に攻められ大敗したが徐盛などの活躍で何とか魏軍を退却させた。濡須口の戦いでは曹仁の計略によって朱桓が苦境に陥るも奮戦して破った。荊州の江陵の戦いでも張郃らの攻撃で朱然は孤立するが江陵を守りきった。
皇帝へ
この時期から顧雍と陸遜が中心となって国内をまとめ、劉備以後の蜀の諸葛亮政権とは良好な関係を保った。諸葛亮が北伐を開始するとそれに連動した動きをみせ、228年、蜀軍が街亭の戦い(第一次北伐)をはじめると同年孫権は北上して石亭の戦い[228年]で曹休に大勝した。
国内の安定がきわまると、229年孫権は皇帝を称して呉を建国する。元号は黄龍、首都は建業に定めた。
曹休の後継となった満寵はその采配ぶりと、水軍の影響が届かない場所に合肥新城を築城したことで、呉の魏侵攻は困難をきわめることになった。234年、諸葛亮が五丈原の戦い(第五次北伐)を敢行すると、孫権は十万の大軍をもって合肥新城を攻撃するも攻めきれず撤退した。
晩年の乱れ
230年後半以降、呉は魏に対抗する有効な手段がないまま膠着状態が長く続くことになった。孫権の年齢も六十に達しはじめたとき、徐々にその治世に陰りが見え出す。
遥か北方にある遼東の情勢に介入して失敗した事件を皮切りに、度々諫言を行ってきた参謀の張昭が逝去すると、孫権は側近の呂壱を重用して多くの重臣がいわれなき罪を被せられた。この事件の結果、陸遜などの臣下との関係は疎遠となり、直後には聡明だった皇太子・孫登が呉を憂慮しながら早世する。
長男の孫登が死去したときに次男の孫慮も夭折していたため、後継として三男の孫和を皇太子にする。しかしその際に王に封じられた四男・孫覇の扱いを皇太子と同等にしたので孫和と孫覇の後継者争いが起こるようになる。この扱いを批判された孫権は、二人を別々の宮に住まわせてそれぞれに幕僚を置いたため、かえって派閥闘争が激化することになった(二宮の変)。
皇太子である孫和の側には陸遜・諸葛恪などがついて皇太子の優位性を主張し、孫覇派には歩夫人の娘で外戚であった孫魯班を筆頭に呂岱などが孫覇の立太子を画策した。この事件の解決には十年という長い歳月と、陸遜をはじめとした多くの重臣の損失を経なければならなかった。孫和・孫覇を処罰した孫権は、最終的に孫魯班らが推した七男・孫亮を皇太子に据える。
孫亮 (252年 - 258年)
諸葛恪の慢心
孫亮、字は子明。
孫権の七子で最も寵愛されていた彼は外戚の野心のもとに玉座へと登りつめることになる。
僅か7歳の幼帝の脇は諸葛恪・呂岱らが固め、諸葛恪も善政を敷くなどその統治体制は予想に反して危なげないものになりつつあった。
孫権の訃報を聞いた魏の司馬師は好機と見て、諸葛誕らの大軍をもって呉への侵攻を行う。だが祖国の危機に丁奉らが奮起し、東興の戦い(252年)にて魏軍を打ち破った。
この勝利に自信を深めた諸葛恪は、翌年周囲の反対を押し切って合肥新城を包囲するも大失敗に終わり、この敗戦をきっかけとして孫峻のクーデタが勃発し、諸葛恪は暗殺された。
皇族の専横
その後、孫峻は丞相・大将軍の座に就いて呉の政治を牛耳り、国内は混乱するようになる。
一方魏でも司馬師の専横が強まって寿春で毋丘倹・文欽の乱(254年)が起こり、呉は支援するも失敗。
その後も孫峻は投降してきた文欽らと共に北伐を計画するが、病死する。孫峻の死後は孫チン(※)が継ぎ、反発した重臣を殺害するなど専横が極まり、諸葛誕の乱(257年)の際にも政治的腐敗をきたした呉では国内の反乱が相次ぎ寿春への援軍も自滅するなどして、諸葛誕率いる寿春城は無援のまま陥落。そして呉軍は崩壊の危機に直面した。
歳を経て事態を憂慮した孫亮は孫チンを暗殺しようと試みるも、事前に事が露見して孫亮は廃位された。
(※〔糸林〕と書く)
孫休 (258年 - 264年)
学問皇帝
孫休、字は子烈。
孫権の六子で孫亮の兄。はじめ孫休は自らを皇帝にした孫チンに従う姿勢を見せるが専横がきわまると張布・丁奉らと謀って孫チンを誅殺する。また復位を狙うと噂が立った先帝孫亮を降格させると彼が自殺した(享年17)ため、後顧の憂いがなくなった孫休は、五経博士を設置してのちの科挙に類似した選抜方法を採用し、農政の改革を行うなど内政に励んだ。
やがて学問に熱中して政治の関心が薄れてくると、親しい濮陽興・張布に政治を任せるようになり徐々に混乱が起こるようになった。263年、魏の鄧艾、鍾会らが蜀に侵攻していた際には援軍と偽って蜀に攻めるが羅憲に防がれ、また南方の交州が離反する。264年、蜀の動乱に合わせて陸抗らを用いて蜀へ攻め入らせたが、またしても苦戦して版図を拡大することはできなかった。
寿命が尽きた孫休は後継に長子を指名して崩御する。享年30。諡号は景帝。
しかし蜀が滅び、ベトナムまで及ぶ南方貿易の要であった交州が離反したいま、幼帝を奉じることはできないとして濮陽興・張布・丁奉は聡明と呼び声高い孫皓を帝に据えた。だがこの判断が後に呉の致命傷となる。
孫皓 (264年 - 280年)
暴君として
孫皓、字は元宗。
父は二宮の変で廃太子となった孫和。外戚による血みどろの争いのなかで育ち、両親は自殺を命じられていた。
彼の才覚と見識はかの孫策になぞらえられ、皇帝になる前は大変評判の良い人物であった。幼帝を奉じることをためらっていた濮陽興らは、万彧の強い勧めもあって孫皓を皇帝に据える。
皇帝となると、悲運の死を遂げた父孫和を追尊して名誉を回復させる。そして徐々に暴君としての顔を見せ始めるようになり、呉に仕える多くの人間が刑罰に処せられて殺された。孫皓を皇帝に立てた濮陽興・張布や、先帝・孫休に近い人間が殺され、代わりに孫皓に近い外戚一派が政権に加わった。また武昌へ遷都を行い、翌年建業に戻した。
265年、呉に臣従を迫った司馬昭が死去して、後を継いだ司馬炎が魏帝から禅譲を受けて晋(西晋)を建国すると晋内部に諍いが起こり、国内でも陸遜の子である陸抗をはじめとした陸家が呉を支えたことで末期状態の呉王朝は十数年にわたって延命することになる。
274年、呉を支えた陸抗が死去する。そして晋の本格的な侵攻がはじまり、杜預や王濬などが破竹の勢いで呉軍を撃破していき、280年孫皓は晋に降伏し、三国時代は終焉を迎えた。
国亡きあと
司馬炎に降伏したあとは帰命侯として洛陽で過ごし、284年ごろに死去する。享年42。諡号は末帝。
司馬炎からは蜀の劉禅と同じく度々その才覚を試されたが、上手く応じて司馬炎を感心させたという。子の孫充は八王の乱がきっかけで呉王に祭り上げられ、おなじく子の孫璠は東晋の元帝(司馬睿)の時代に反乱を起こした。
滅亡時の呉は四つの州を擁して(交州は離反)、兵は二十三万、役人は三万であった。人口は230万ほどで、後漢時代の150万人から増加している。これは後漢時代の人口(5648万人)が三国時代を経て大きく減少した(818万人)ことを考慮すると、呉国のきわめて大きな成果であるといえるだろう。
関連項目
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