仇討ちとは、
- 1.江戸時代に存在した、直系尊属(父や祖父など)や主君を殺された復讐としてその犯人を殺すことを公権力が許す制度。私刑のひとつ。
- 2.上記1の意味を由来とする、日本人の大半に長く愛される筋書きの手本のひとつであり、外国人には理解しにくい文化のひとつ。
である。
概要
我が国においては忠犬ハチ公に見られるように義や繋がりを重視する考え方が根強い。そして、義理などの考え方の延長として元禄赤穂事件(俗に忠臣蔵と呼ばれる)に見られるような、仇討ちを礼賛する考え方も生まれた
フィクションや創作、とくに推理小説において、悲しい過去やその過去に基づいて仇討ちをしようとする悪役や犯人がダークヒーローとして持て囃されることもある(もっとも、これは日本だけじゃないかもしれないが)
また赤穂事件にかぎらず、我が国においては各種時代劇やヒーロー物において勧善懲悪を主題として悪を正義が討つという構図も、時代を問わずに支持されている
現実上においても死刑制度の賛否という日本全体を巻き込んだ政治的な議題の一つにおいて、賛成の根拠として仇討ちや凶悪犯に対する苛烈な仕打ちを求めたいという点を挙げる人も多い
こうした考え方の点(特に犯罪者に対しての司法の救済は少なくても良いとしたり、凶悪犯罪を犯し人の命を奪った者に正義の裁きとして死刑を求めたりする点において)は外国人が理解しがたい日本の考え方の一つであるらしく、日本特有であるとされる。
その結果もあって、日本の司法は中世のまま全く進化しておらず野蛮で未開であるという誤解が強いという状態が諸外国で見られ、一種の見解の対立になってしまっている
制度としての仇討ち
日本最古の仇討ちは、罪なくして父親を殺された眉輪王が、456年に義父である安康天皇の寝込みを襲って殺害したことに始まるという。これは奈良時代に作られた『日本書紀』内の記述に基づいて書かれたものなので、あくまで伝承の域ではあるが、それだけ古くから仇討ちは人々の中にありつづけていた。
鎌倉時代の曽我兄弟の仇討などにも見られるように、家制度とそれに基づく血族制度が確立しつつあった中世より少しずつ風俗として広まるようになった。
しかし、鎌倉時代の貞永式目(御成敗式目)では仇討ちは禁じられており、戦国時代の分国法の多くでも喧嘩両成敗という仇討ちを遠回しに忌避している条項が盛り込まれるなど、中世の間はむしろ表向きでは禁じている傾向にあった。仇討ちを認めるということは、喧嘩でも罰せられない例外を作ることにつながり、一つの喧嘩が大規模な殺し合いになることを忌避していたわけである。
江戸時代に入ると方針転換がなされ、仇討ちが条件付きではあるが認められるようになった。これは仇討ちの弊害よりも武士としてのメンツを立たせる事が重視されたり、行政手続きの確立や制度の円滑化が浸透した結果であるといえよう。
また、勘違いしている人も多いが、江戸時代は基本的に前の時代に比べれば集権的とはいえ、基本的には地方分権が基本的な政治体制である。すなわち、天領(幕府直轄領)以外は基本的に他国であって、現代の警察のように全国で捜査網を張ることはほぼ不可能だったことも仇討ち制度化を進めた要因といえる。
さて、仇討ちのルールとしては以下のようなものがあった。
方法
- 事件発生後、仇討ちが認められる場合ならば、直参(幕府に直接仕える武士)ならば将軍の、藩士ならば藩主の許可(手続き上は直属の上司の許可)を得て、藩を離れる許しを貰う
- 仇討ちの相手を探す(道中の費用は全て自弁)
- 見つけて見事仇を討った場合は、その旨を管轄する奉行所に届け出て、仇討ちと認められることで殺人としては裁かれなくなる
当時、藩主の許しなく勝手に藩を出ることは許されておらず、そのための許可が必要であったため、仇討ちの許可証をもらうことでそれを認めて貰う事がまず前提にあった。ちなみに藩内に、元の事件の犯人がいる場合はこの許可証は不要である。
また、仇討ちには当然旅費が多くかかるわけだが、そのための費用は全て自分で賄わなければならなかった。親戚から融通してもらったり、場合によっては借金を背負って行う場合もあったという。
仇討ちの相手を運良く(見つけられずに終わることのほうが多い)見つけてさあいざ仇討ちをしようとなった場合、相手方が返り討ちにしてしまう事もまた認められていた。その場合に、親族が再び仇討ちをすることは認められていない為、本当に一度きりのチャンスである。
仇討ちには、討つ方も討たれる方にもいわゆる助太刀を何人でもつけることが可能であり、集団戦になることが多かったという。そりゃみんな命は惜しいからね。
規則
仇討ちとはいっても、親しい人や血族が殺されれば何でも認められるわけではない。如何に認められない例をあげる。
- 卑属のための仇討ち(子を殺された親など)
- 目下のための仇討ち(部下を殺された上司など)
- 又候仇討ち(返り討ちにあった討手の遺族の仇討ちはダメ)
- 重仇討ち(仇を討たれた遺族の仇討ちもダメ)
- 武士以外の仇討ち
以上の条件を整理すると、江戸時代の仇討ちはあくまで、目下の者が目上の者の無念を晴らす為に作られた制度というのが伺える。これは上下関係を重んじる儒教や朱子学の思想の現れといえるだろう。
仇討ちは概要にも出ている忠臣蔵をはじめ、曽我兄弟の仇討や、浄瑠璃坂の仇討などの華々しい物語で飾られ、庶民の人気を博した。そのような社会的な風潮もあってか、上記のルールは厳格に運用されてるとも言い切れず、許可を得ず仇討ちに行ったり、農民や町人が仇を討っても、結果的に仇を討てれば咎められることもなかったという。まだまだ法治よりも情が優先した時代の証左といえるだろう。
その反面、仇討ちの成功率は極めて低く、1%とか、0.2%だとかお世辞にも高いとはいえないという所見がほとんどである。当然だが現代のようにネットは使えず、便利な交通手段も無いため、仇討ちの相手を探すだけでも多大な苦労を強いられ、また、運良く仇討ちの相手を見つけても助太刀が居たり、相手の方が強かったりで返り討ちにされてしまうことも多かったからである。
それでも仇討ちをしなければならなかったのは、武士にとって、目上の者や、肉親(尊属)の仇を討つことは最早ドグマ的といえるほどに至上命題であり、それが叶わなければ家名の存続や復活もままならなかったからである。仇を討つのに苦労しても、何年かかろうとも、もういいよとは許してくれないのだ……。
仇討ちの制度は江戸時代を通じて行われ、明治に入ると法治国家としてスタートを切るために私的制裁を許した当該制度は廃止される運びとなり、1873年に太政官布告により正式に禁止された。
当然ながら現代でも仇討ち、いわゆる復讐殺人は情状酌量の余地があるとはいっても、立派な殺人罪であり、決して行ってはならない。
江戸時代の仇討ち制度で仇討ち可能な主な有名事件
関連項目
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