南ベトナムとは、
概要
19世紀末以降、フランスはベトナム(阮朝)を保護国化した上でフランス領インドシナ(仏印)として事実上の植民地にしていた。
第二次世界大戦ではフランス本国はナチスドイツに占領され、またドイツの同盟国である大日本帝国は仏印に進駐、後に占領したうえで阮朝の皇帝であるバオダイを担ぎ出してベトナム帝国を建国させたが元々あった独立運動を無視したものだった上に駐留する日本軍のための資金や糧食を租税として取り立てたため、終戦直後にホーチミン率いる抗日ゲリラ組織であるべトミン(ベトナム独立同盟会)によって打倒され、ベトナム民主共和国の独立宣言を行った。
その後ベトナムに再進駐して来たフランス軍は豊かな穀倉地帯でありベトナムからの分離独立の動きもあったベトナム南部のコーチシナの権益を確保するためにコーチシナ共和国を成立させるがベトナム全土の統一を目指すベトナム民主共和国と対立し、第一次インドシナ戦争が勃発。フランス軍はベトナムのほぼ全土を占領した。
緒戦の勝利に気を良くしたフランスはやっぱりベトナム全土の権益を確保しようとコーチシナ共和国を取り潰した上で海外に亡命していたバオダイを担ぎ出して1949年にベトナム国を成立させるがフランスに治外法権や領事任命権や戦時作戦統制権があるという絵に描いたような傀儡国家だった。
その後フランス軍はディエンビエンフーの戦いで敗北し、ベトナム国はベトナムの南半分を統治する国家となった。
フランスとベトナム民主共和国の和平協定によって南北統一選挙を行ってベトナムの統一をすることが決まったがベトナム国ではフランスに代わって東南アジアに影響力を増していたアメリカの支援を受けたゴ・ディン・ジエム首相がバオダイや親仏の政治家を追放し、1955年にベトナム共和国を成立させ、また統一選挙を拒否した。
ベトナム共和国の大統領となったゴ・ディン・ジエムは自らの一族を縁故採用で要職に付けて独裁政治を行い、また支持基盤であるカトリック教徒を優遇して人口の大部分を占める仏教徒を弾圧したため民主化を求める野党勢力による抗議デモや暴動が起きたり仏教僧侶による抗議の焼身自殺が相次いで起きるなどした他、政権内では軍閥が横行し都市部と農村部ではそれぞれ新興宗教の私兵集団やべトコン(南ベトナム解放民族戦線)のゲリラが跋扈するなどたいへんgdgdな状態になり、ゴ・ディン・ジエム大統領も最終的に1963年に軍部のクーデターで殺害された。
その後は毎年のようにクーデターが起きたためまともに政権を維持できない状態が続いたが1967年にグエン・バン・チュー政権が成立するとひとまず小康状態になり、白昼に私兵集団が町を練り歩いて若い男女を攫っていくという風景は姿を消した。
また1964年のトンキン湾事件をきっかけにアメリカがベトコンを支援するベトナム民主共和国(北ベトナム)に対して軍事介入を行い(ベトナム戦争)、爆撃(北爆)を行ったりべトコンと戦う南ベトナム軍を支援するために大規模な地上軍を派遣したりしたが結果的にはべトコンによるテト攻勢を招くなど泥沼化していった。
戦争の長期化で厭戦ムードになったアメリカは北ベトナムと和平協定を結んだ上で南ベトナムに莫大な軍需物資を残したうえで1973年に撤退したが1975年のべトコンと北ベトナムの全面攻勢では南ベトナム軍の戦線はあっという間に崩壊し一ヶ月で首都サイゴンが陥落した。
陥落10日前にグエン・バン・チュー大統領はアメリカを非難する演説を行って辞任し、代わって就任したズオン・バン・ミン大統領は和平会談を呼び掛けたものなすすべもなく、べトコンと北ベトナム軍の軍勢がサイゴンの大統領府に突入するとズオン大統領以下閣僚一同が会議室で到着を待っており、入ってきた兵士らに政権を移譲する手続きをするために待っていたと告げたが移譲されるものなどなにもないと返されたという。
その後戦後処理と統一の手続きのために南ベトナム共和国が成立し、一年後の1976年に南北の統一国家であるベトナム社会主義共和国が成立した。
国外では旧ベトナム共和国関係者によって亡命政府である自由ベトナム臨時政府が結成されたが関係者の高齢化により現在は活動停止中。
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