夏月 (駆逐艦)とは、大東亜戦争末期に大日本帝國海軍が建造・運用した秋月型/乙型駆逐艦11番艦である。1945年4月8日竣工。終戦まで生き残った後は復員輸送に従事し、1948年3月1日、浦賀船渠で解体完了。
概要
秋月型駆逐艦は帝國海軍最大の巨躯を誇る大型防空駆逐艦だった。1920年代から急激に存在感を出し始めた空母と航空機に対抗するべく、イギリス海軍は旧式のC級軽巡洋艦を防空艦化し、またアメリカ海軍では防空性能に特化したアトランタ級巡洋艦の建造に着手するなど、列強が次々に防空艦を造り始めた。
これを受けて大日本帝國海軍も1937年頃より防空艦の建造について本格的に検討。1938年のマル四計画において初めて「乙型駆逐艦」の言葉が出され、1939年4月頃には基本設計が纏まった。当初は空母の護衛を主任務に定め、対潜・対空に優れた直衛艦になる予定だったが、直衛以外にも使用出来るよう雷装を追加して、八面六臂の活躍をする駆逐艦となっている(ただし魚雷を放ったのは新月のみ)。
船体は長船首楼型を採用、舷側は垂直であり、巧みな兵装配置により高い火力を保有、他の駆逐艦が満足に電探を装備出来ない中、秋月型は70km先の敵機を探知出来る21号水上電探を装備し、また2基の九四式高射装置が2つの目標に対する同時管制射撃を可能とする。何から何まで新しい秋月型だが、さすがに機関まで新しくするのは難しかったようで、陽炎型に採用されたロ号艦本式缶3基5万2000馬力を流用した。
性能こそ優れていたものの、工程の複雑化と大型なのが災いし、大量生産しにくい欠点を抱えていたため、後期になるほど船体が簡略化されていった。秋月型は大別して初期の秋月型、中期の冬月型、後期の満月型の3つのグループに分けられ、夏月は冬月型に分類される。書類上では夏月は11番艦であるが実際は12番艦花月より竣工が遅く、秋月型最後の就役艦となった。
要目は排水量2701トン、全長132.4m、全幅11.6m、最大速力33ノット、重油1080トン、乗組員263名。武装は65口径10cm連装高角砲4基、九六式25mm三連装機銃5基、同単装機銃14丁、次発装填装置付き61cm四連装魚雷発射管1基、九四式爆雷投射機2基、爆雷投下軌条2条、九五式爆雷54個。電測装備として21号水上電探、13号対空電探、九三式探信儀を持つ。
戦歴
開戦前の1941年8月15日より実行に移されたマル急計画において、乙型駆逐艦第364号艦の仮称で建造が決定。建造費1782万400円を確保する。当初は三菱重工長崎造船所での建造ほ予定していたが線表改訂により佐世保での建造となった。
1944年5月1日に佐世保海軍工廠で起工、10月5日発令の達第341号で夏月と命名され、12月2日に進水、1945年2月15日に西野繁中佐が艤装員長に着任し、2月23日より造船所内に艤装員事務所を設置して業務を開始、そして4月8日に無事竣工を果たした。本来であれば3月末に竣工予定のはずが、物資不足の影響で機銃の入手に遅れが生じ工事も遅延している。艦長に西野中佐が着任するとともに呉鎮守府へ編入され、訓練部隊の第11水雷戦隊に部署。
竣工したとはいえ夏月にはまだ残工事があり佐世保工廠に入渠し続ける。4月20日にようやく全ての工事が完了、翌21日、磁気羅針儀自差修正のため一旦佐世保を出港したのち、第11水雷戦隊と合流するべく4月24日に改めて佐世保を出港。瀬戸内海西部を目指す。
佐世保から瀬戸内海へ入るには関門海峡を通る必要があるのだが、日本の海上交通量のうち40%を占める関門海峡を封鎖しようと、アメリカ軍はB-29爆撃機を使って総計2030個の機雷を敷設、突破を試みた海防艦目斗が触雷沈没するなど様々な船舶被害を及ぼしていた。つまり夏月の前に分厚い機雷の壁が立ちはだかったのである。この死の罠を突破するため、夏月は掃海担当の第7艦隊に通航可能な航路情報や対潜警報を尋ね、もし通航禁止の場合は速やかに通達するよう要請。針に糸を通すような細かい操艦で何とか海峡の突破に成功した。徳山燃料廠にて燃料90トンの補給を受ける。
4月25日に徳山を出港し、八島泊地に回航。翌26日午前1時9分、旗艦酒匂、宵月、萩、椎、梨が八島泊地に到着して第11水雷戦隊との合流を果たした。4月27日に戦隊司令部が夏月を巡視。
5月3日、夏月、榎、菫、梨の4隻は伊予灘にて出動諸訓練を実施。酒匂より戦隊司令部が一時的に夏月へと乗り込み訓練を監督した。5月10日午前8時、規模を更に大きくした出動諸訓練が行われ、夏月、酒匂、宵月、梨、椎、萩、榎、菫が参加、それが終わると5月10日に夏月は呉へと入港する。深刻化する燃料不足、呉軍港内や瀬戸内海に敷設される機雷などが原因で、十分な訓練が行えずにいた。
5月20日付で鶴岡信道少将率いる第31戦隊に転属。軽巡洋艦北上、駆逐艦波風、残余の松型駆逐艦、秋月型駆逐艦とともに海上挺進隊部隊を編成し、同日午前10時に呉を出発して第31戦隊と合流した。海上挺進隊とは本土決戦を見越した部隊であり、上陸してくる連合軍の迎撃・奇襲、そして輸送任務が主眼だった。連合艦隊司令長官豊田副武大将は「海上挺身部隊ハ内海西部ニアリテ訓練整備ニ従事スベシ」と指示。
5月25日、夏月、宵月、冬月の3隻は第31戦隊隷下第41駆逐隊に編入されるとともに、第7艦隊を基幹とする関門海峡警戒部隊へ応援に駆り出される事となった。第7艦隊には駆逐艦が1隻もいなかったのだ。
第7艦隊は対馬海峡と関門海峡の掃海及び警戒を主任務としており、すなわち、あの機雷の壁の近くで危険な警戒任務に就く訳である。磁気機雷は日本の掃海技術では除去が難しく、また掃海を行う特設掃海艇にも少なくない数が機雷に触れて沈没。5月だけで実に66隻の商船が沈没していた。
秋月型駆逐艦と言えどさすがに掃海能力は無いので、主な任務は関門海峡に投下される機雷の監視、B-29との対空戦闘、対潜警戒などであった。6月5日15時30分、海峡を通って鎮海へ行こうとした宵月が、周防灘姫島灯台325度5.8kmの地点で触雷損傷、何とか呉まで戻れたものの、海峡突破を断念している(3日後に第7艦隊の指揮下から離れた)。また冬月が通った直後に機雷が爆発する一幕もあり、関門海峡周辺が如何に危険な場所だったかを物語る。
6月7日、夏月は福岡湾に向かう第104号海防艦と担当海域を交代。
6月16日午前4時40分、転錨の際に六連島灯台193度3100m沖で触雷小破、沈没には至らずとも任務の続行は困難となってしまい、曳航されて佐世保に寄港。その直後に佐世保大空襲が発生したが軍港内への被害は殆ど無かった。7月1日から25日にかけて佐世保工廠で修理を行い、出渠後は再び門司周辺で任務に従事。
8月15日の終戦時、門司にて残存。竣工から僅か4ヶ月程度で終戦を迎えたので大規模戦闘に参加する事はついに無かった。
戦後
1945年8月26日に第1予備駆逐艦に指定され、10月5日に除籍、そして12月1日より外地に取り残された邦人や兵士600万人を帰国させるため呉地方復員局所管の復員輸送艦となり、最後の奉公を行う。
復員任務を終えると今度は特別保管艦として横須賀に係留。海軍力に劣るソ連と中華民国からの強い働きかけにより、生き残った帝國海軍の艦艇を米・英・ソ・中の四ヵ国で分け合う事に。抽選の結果、夏月はイギリスが獲得した。しかし既に十分すぎるほどの艦艇を擁するイギリスに賠償艦は無用の長物で、1947年8月25日に浦賀でイギリスに引き渡されるも、即日浦賀船渠に売却され、荒廃した日本の復興資材とするべく9月10日より解体を開始、1948年3月1日に作業完了。
第連項目
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