村田諒太とは、日本のミドル級プロボクサーの1人である。2012年ロンドン五輪ミドル級金メダリスト、WBA世界ミドル級チャンピオン。
概要
来歴
幼年期・小中時代・・・ボクシングを始めるきっかけ
1986年1月12日、奈良県奈良市に生まれる。3人兄弟の末っ子で、両親は公務員として働いていた。
5歳から水泳を始め、中学時代には陸上部に所属するなど、幼少期からスポーツを嗜んでいた。この間の小学6年生の時に両親が離婚。中学時代の陸上でも奈良市の大会で4位と成績が振るわず、家庭のこともあって、次第に村田は荒れるようになっていた。
ある日、村田が金髪で登校したところ、当時の中学の担任であった先生に視聴覚室に連れ込まれた。この時に担任が「お前、何かやりたいことはないんか?」の問いに、村田は「ボクシングだったら、やるわ。」と答えた。これがのちにボクサーの道を目指すきっかけであった。
その後、担任の先生の紹介で、当時県内のボクシング強豪高校であった奈良工業高等学校(現在は統合して奈良県立奈良朱雀高等学校になっている)のボクシング部が開催する週末ボクシング部に通い始める。しかし、練習が辛すぎるということがあり、2週間で通うのを断念。その後も同校ボクシング部の練習にちょくちょく顔出すこともあったが、2ヶ月ほどで足首を負傷してしまう。これ以降、練習には顔を出さなくなった。
中学3年生になると、大阪・天王寺にある進光ボクシングジムで再び練習するようになる。中学の授業にはあまり出席しておらず、通知簿もほとんど1~2判定と悪い成績であったが、高校には京都府精華町にある南京都高等学校(現京都廣学館高等学校)へ進学した。この高校はWBC世界バンダム級チャンピオンである山中慎介やWBA世界スーパーバンダム級チャンピオンである久保隼など、プロボクサーやプロレスラー、総合格闘家を多く輩出し、ボクシング部も国体優勝やインターハイ・総体・選抜大会の全国大会出場を経験するなど、現在も京都のボクシング強豪校の一つとして知られている。
高校・大学時代・・・高校大会5冠達成・全日本選手権初優勝~現役一時引退
高校生になるとボクシング部に所属する。初戦は負けてしまったものの、高校2年生の時に国体・総体・選抜大会の高校3冠を達成。高校3年でも選抜・総体で優勝し高校5冠を達成し、頭角を現す。
高校卒業後は東京にある東洋大学の経営学部経営学科に進学し、ボクシング部に所属する。2004年に全日本選手権初優勝を果たす。
2005年にキングスカップに出場し、銀メダルを獲得。その後のアジア選手権にも出場し、銅メダルを獲得した。
2006年にはドーハアジア大会の代表に選ばれるが、一回戦敗退。その後の全日本選手権で再び優勝するも、北京五輪1次予選で準決勝敗退。2次予選でも初戦敗退し、北京五輪出場を決められなかったことから現役引退を決めた。
社会人・コーチ時代・・・現役復帰へ
2008年に東洋大学を卒業し、同大学の職員に就職。ボクシング部のコーチを兼任し、後世のボクサーの指導に当たった。
しかし2009年にボクシング部員の間で覚せい剤所持・使用疑惑の不祥事が発覚し、ボクシング部は活動自粛する。さらに関東大学1部リーグから3部リーグへ強制降格の処分を受ける。この時に村田はなぜ部員の不祥事を止められなかったのかと自戒の念が湧き、同時に全日本選手権で3度目の優勝を果たせば部の名誉回復に繋がるのではと考え、現役復帰を決めた。
アマチュアボクサー時代・・・全日本選手権3連覇~国際大会初出場・ロンドン五輪出場へ
そして2009年に全日本選手権で3度目の優勝し、有言実行を果たす。その後の2011年の全日本選手権まで3連覇5度優勝を果たす。
2011年のインドネシア大統領杯では、自身初の国際大会優勝を果たす。同年10月の世界選手権ミドル級では決勝まで勝ち進んだが、判定負けで銀メダルを獲得した。しかし、決勝進出は日本人としては初の快挙であり、同時にロンドン五輪出場権を獲得した。
ロンドン五輪代表として・・・第2シードから48年ぶりの金メダルへ
2012年、ロンドン五輪にミドル階級代表として出場。第2シードを獲得したため、2回戦からの出場となった。村田は決勝まで勝ち進み、決勝でブラジルのエスキバ・ファルカオを倒して金メダルを獲得。日本人としては48年ぶりで、1964年東京五輪バンダム級金メダリストの桜井孝雄氏以来となるボクシング競技での金メダル獲得であった。
ロンドン五輪閉幕後は、プロに転向することを報道会見で発表。ネットなどでは称賛や激励の言葉が贈られた。ジムは三迫ボクシングジムに所属し、後楽園ホールで行われたプロテストマッチでは見事合格。プロに転向した。
プロボクサー時代・・・初戦鮮烈デビュー~ランキングTOP10入りまで
プロデビュー戦は、当時約2カ月前まで日本スーパーウェルター級チャンピオンであった柴田昭雄氏と対戦。第2ラウンド2分24分による格闘でTKO勝ちし、鮮烈デビューを飾った。この勝利で東洋太平洋ミドル級1位、日本ミドル級1位、WBC世界ミドル級19位にランクインした。
2014年9月、帝拳ボクシングジムへ移籍。代々木体育館で行われたメキシコのアドリアン・ルナとの対戦では判定勝ちを収め、WBC世界ミドル級8位にランクインした。
その後も数々の名だたる選手と対戦し、2017年現在でIBF世界ミドル級4位、WBC世界ミドル級3位、WBA世界ミドル級1位、WBO世界ミドル級2位にランクインしている。
WBA世界ミドル級王座決定戦開催・・・判定騒動から異例の再試合へ
2017年3月27日、WBA世界ミドル級チャンピオンのダニエル・ジェイコブスがロシアのゲンナジー・ゴロフキンに王座統一戦で負けたため、同王座が空位となった。そのため、WBA世界ミドル級王座決定戦を行うとした。
対戦相手は村田と暫定王者とされたフランスのハッサン・ヌダム・ヌジカム。(報道ではアッサン・エンダムと表記されることがある。)当時、WBA世界ミドル級1位の実力を持っていた。
そして同年5月20日に有明コロシアムで王座決定戦が行われた。第1ラウンド~第2ラウンドは、ハッサンの攻めに対して防戦一方の村田だったが、第3ラウンド以降は防戦しつつ、果敢に攻める姿勢を続け、ハッサンに決定的ともいえるクリーンヒットを連発し、第4ラウンドで一度ダウンを奪った。その後もハッサンがダウン寸前まで行く場面が何回も連発。(いずれもロープに救われている。)
その後、第12ラウンドまでもつれたが、TKOとならずに判定勝負となった。
下馬評では村田の判定勝ちと思われていたが、1-2(117-110、111-116、112-115)のまさかの判定負けを喫し王座獲得とはならなかった。ちなみにプロ転向後、自身初黒星となってしまった試合となった。
この判定にWBA会長が異例ともいえる異議を申し出た。「私のスコアは117-110で村田の勝利。まずは村田諒太、帝拳プロモーション、そしてすべての日本のファンに謝らなければならない。このひどい判定によるダメージを修復する言葉はない」と自身のSNSでコメントを発表し、直後に再試合を指示した。
この異例ともいえる会長の意向でWBAは、2017年10月22日に再試合を開催することを決定。また、王座決定戦の判定をした審判2名を6ヶ月の資格停止処分を下した。
WBAミドル級タイトルマッチ開催・・・そして22年ぶりの日本人新チャンピオン誕生へ
そして2017年10月22日、前回と同じく全12ラウンドでWBAミドル級タイトルマッチが開催された。序盤は両者ともに防戦と攻めの応酬であったが、第4ラウンドから村田がハッサンの顔面に右のストレートを何回もヒットさせたり、ボディにも左フックショットが決まるなど、徐々に村田の方から攻める姿勢を見せた。ハッサンの方も一瞬ふらつく場面を見せるが、ダウンすることはなく、両者膠着状態となっていた。
しかし、第7ラウンド終了時にハッサン陣営から審判にリタイアの申し出があり、勝負は村田の方に軍配が上がった。この瞬間、村田はWBA世界ミドル級の新チャンピオンに認定され、同時に日本人としては、初めて五輪金メダルと獲得し、かつプロのビッグタイトルを獲得したボクサーとなった。また、日本人ミドル級チャンピオンが誕生するのは1995年12月に認定された竹原慎二以来で、22年ぶりである。
WBAミドル級チャンピオンとして・・・今後の展望~世界のビッグネームと統一マッチへ
晴れてWBAミドル級新チャンピオンとなった村田であったが、ここからが大変な正念場を迎える。
同級のチャンピオンには2017年10月現在、"GGG"の愛称で知られ、WBAミドル級スーパーチャンピオン、WBC・IBFミドル級チャンピオンと3団体のチャンピオンベルトを抱えるカザフスタンのゲンナジー・ゴロフキン(報道ではゲンナディ・ゴロフキンとも)がいる。また、"カネロ"の愛称で知られ、かつてスーパーウェルター級とミドル級の2階級を制した元チャンピオンのサウル・アルバレス(メキシコ)がいる。
いずれはこの2人とのビッグマッチを目指す。来年夏には村田とのV1、V2戦を行う計画があり、ミドル級タイトルマッチの勝利者インタビューでも村田は意欲を示している。[1]
人物像
関連動画
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関連コミュニティ
関連項目
脚注
- [1]・・・村田諒太、先があるから「泣いてません」。視線の先は最強ゴロフキン(livedoor NEWS)
- [2]・・・【村田諒太 拳の進化論(中)】“世界一”鉄壁のガード(SANSPO.COM)
- [3]・・・村田諒太、世界王者としての初仕事は長女・佳織ちゃんの保育園のお迎え?(スポーツ報知)
外部リンク
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