酒井家次(さかい・いえつぐ 1564年~1618年)とは、戦国時代~江戸時代初期の武将である。
徳川家康に仕えた名将、酒井忠次の子。
概要
酒井忠次の長男。母の碓井姫は徳川家康の叔母で、酒井家次は徳川家康の従弟にあたる。
1575年の長篠の戦いから1615年の大坂夏の陣まで多くの合戦に参加した。
事跡
・父親と比べると知名度は低いが、歴戦の武将である。家康が豊臣秀吉と対立・交渉を行った時期に岡崎城を守るなど重要な任務を担当していて、家康から信頼されていたとみられる。
・小田原の役では旗本先手役(家康直属のエリート武将)の本多忠勝、榊原康政、大久保忠世たちと共に徳川軍を指揮した。酒井家次は下総国に侵攻して活躍し、戦後は同国に領地を与えられて佐竹家に対する抑えを担った。
・信州上田城攻めや大坂夏の陣では、敵軍の攻撃で徳川軍が攻め崩された。酒井勢も敗走したが、それでも敵軍に食い下がり武功を挙げた。
記録では誇張された可能性は考えられるが、戦後に酒井家次は加増を受けており、酒井勢に参加した与力の功績も史料に記されている。
しかし真田軍や豊臣軍の華々しい活躍の陰に隠れてしまい、「酒井勢は本当に活躍したのか?」という話すら出ない。
・大坂冬の陣/夏の陣では譜代大名のまとめ役を担うなど、晩年にいたるまで徳川家からの信頼は厚かったようである。
・同時期の多くの大名と同じく、転封された回数が多い。酒井家次はそれぞれの領地で城下町の整備事業を進めて郷土史に名前を遺した。
・鎧は父親の物と同様に派手。
・酒井家次の与力に朝比奈常陸泰朝という人物がいた。(朝比奈泰朝の近い親戚?)
三万石の話
1590年、時の天下人・豊臣秀吉の命令により、徳川家康の領地は東海道から関東へ移された。
酒井家次は下総国臼井3万7千石の大名になった。
一方、本多忠勝、榊原康政、井伊直政(徳川三傑)は10万石以上の大名になった。
家康の親戚でもある酒井家が僅か3万石で、しかも新参の井伊家にまで追い抜かれてしまった。
このことを不満に思った酒井忠次は息子の領地を加増するよう家康に願った。
「おまえも我が子が可愛いか」
家康は皮肉を言った。
徳川家康の吝嗇な性格、家臣団の結束を維持するための深慮、あるいは徳川信康の事件で酒井忠次を憎んでいたからだとよく取り上げられる逸話である。
ただし大久保忠世や鳥居元忠、芝田康忠といった功臣たちの領地も三傑より少なく、酒井家が冷遇されたとすれば他にも冷遇された家は幾つもあったことになる。
大久保忠世 先手役の筆頭格だった三傑の先輩
鳥居元忠 先手役経験者で家康の幼馴染。
芝田康忠 先手役経験者で武功は三傑に劣らない。
奥平信昌 家康の娘婿。長篠合戦の大功労者。
つまり酒井家が冷遇されたのではなく、三傑が特別扱いを受けたのである。
では何故そうなったのか。
<家康の事情>
豊臣秀吉は小田原の役を通じて、織田信雄と北条家という東国の大大名を排除した。
両家は共に徳川家と友好関係を築いていた。
協力者を失った家康は、徳川家の力だけで徳川家を豊臣政権の脅威から守らなければならなかった。
北条家や織田信雄のような目に遭わず、秀吉から一目置かれ続けるためにはどうするべきか。
家康が出した答えは、豊臣氏の身内になると同時に徳川家の軍事力を維持・増強することだった。
当時は豊臣軍が奥州征伐(東北地方の平定戦)を行い、数年後には文禄の役(大陸出兵)を始めるなど大軍団を動かして戦争した時期だった。
つまり小田原の役を今度は徳川家相手に行うことも(諸々の政情課題をクリアした上でだが)出来たのである。
徳川家の軍備に時間の余裕は無かった。
そして東海道時代は徳川軍の最大戦力を担った酒井家は、その立場ゆえに関東では直ちに徳川家の主力軍団を担うことは不可能だった。
酒井忠次の与力=下位の協力者には、三河の各地域を代表する有力な国人衆が多かった。
牧野康成、菅沼定盈、松平家忠たちが該当する。他に旗本先手役の本多広孝も酒井忠次に協力した。
こうした人々は元から領主であったり大功臣だったので、関東移封後はそれぞれ新しい所領を与えられて大名や大身の旗本になった。
酒井家と彼らの所領を足すと、三傑を遥かに上回る。
酒井家と彼らの関係は地縁で成り立っていた。
牧野家、菅沼家などは酒井家と婚姻関係を結んでいたが、彼らを全員下総国に移したとしても、そもそも徳川家臣団は全員が関東の人々にとっては新しく移って来た他所者だった。
酒井家次と与力たちが三河時代のような関係を築き戦場で力を発揮するには、現地に馴染み根付く時間が必要だった。
また酒井忠次が隠居したのは家康が秀吉に従った後のことで、それまでは現役武将だった。
酒井家次が与力たちを率いて戦う機会はおそらくほとんど無かっただろう。
ところで関東へ移る前の酒井家の所領はどうだったか。
酒井忠次は1565年に三河の吉田城を攻略した際、家康から現地で所領を与えられた。そして後日の加増も約束された。
酒井忠次は槍一本で成り上がった武士ではなく、松平家と肩を並べた三河中西部の有力国人・酒井左衛門尉家の一員だった。
戦国時代、母体となる武家には彼らが守る故郷=所領があった。
植物に例えれば武家が竹の根である本体、武士は地上に出た竹の一本に過ぎない。
武士は外へ出て失敗したら故郷へ帰り、外へ出た他の親戚を支えて栄達を助けた。
酒井忠次には酒井忠尚という親戚がいた。江戸時代の史料では酒井忠次の叔父とされるが、関係も事績もよく分かっていない。
徳川家臣団筆頭の親世代のことが不明というわけだが、この酒井忠尚は三河一向一揆の指導者になって徳川家康と敵対した人物だった。指導者を務めるほどの力を持っていた。
家康が一揆を騙して潰した後、酒井忠尚は逃亡したことになっている。その際、酒井忠尚に従っていた榊原清政という人物は家康に仕えた。
つまり、酒井忠尚が酒井家代々の所領を守っていたかもしれず、その所領は酒井忠次に継承されなかったかもしれない。
吉田攻略時に家康が約束した加増が行われていれば、所領は吉田の他にも沢山あったかもしれないが、酒井忠次の権限に比して三河にいた頃の酒井家の所領は少なかったかもしれない。
家康は本多忠勝と榊原康政が率いた旗本軍団を、人員を維持したまま関東へ移植した。
本多と榊原が務めた旗本先手役は、家康が三河一揆と戦った後に創設した軍団である。
国人衆の傍流や地侍たち、敵対者に従っていた武士を取り込み、武将たちに与力=部下として附属させ、部隊を構成させた。
徳川家の版図拡大につれて先手役は地方に赴任して現地の国人衆の上位に立つなど、三河における酒井忠次と同じ役割を担った。
しかし本多忠勝と榊原康政だけは、家康の本拠地だった浜松で勤め続けた。
彼らの軍団には遠江の城持ち国人など大身の武家も所属するようになったが、零細武家や元牢人が多かった。
彼らは地元から切り離された軍団だった。
東海道時代の力をすぐに発揮できる軍団だったわけである。
本多と榊原の与力たちも長年の働きで功績を挙げて、相応の収入と名誉が与えられる役職を得るべき立場にいた。
加えて地方の大名になった両将は、現地の武士も雇用して軍備の拡充と領地の政務を行う地位に立った。
それらの事情から、本多と榊原に軍団を維持させたまま大名にするなら十万石程の所領を任せるべきだ、と家康は判断したのだろう。
<井伊直政の事情>
井伊直政は先手役だが東海道時代は甲斐の国に赴任した。
鳥居元忠や大久保忠世と同じ役割を担った。
その井伊が十万石超えの大名になったのだから、やはり酒井家は冷遇されたのかーー。
ただし徳川家臣を2つの条件で絞り込むと、井伊直政は本多忠勝・榊原康政と並ぶ存在となる。
・旗本先手役の経験者
・家康より若い=息子の徳川秀忠の時代に秀忠を支える武将
一つ目の条件で酒井家次が弾かれ、二つ目で鳥居や大久保が弾かれる。
さらに井伊直政は豊臣政権との交渉や小田原の役の和睦交渉にも従事していて、中央に顔が利いた。
家康がいつの日か後事を託す家臣として適任だった。
酒井家次も父親の隠居後に三河東部の管轄や岡崎城の守備、豊臣軍が東海道を通行する時の対応など十分に働いたが、酒井忠次が長生きで外交でも大活躍したので、家次が注目を浴びる機会は少なかったかもしれない。
なお井伊直政の待遇については豊臣秀吉からの要望もあったが、秀吉がそうした理由として考えられるものの一つに、酒井家と全く関係のない事情がある。
1590年の小田原の役で、徳川家は北条家存続のための運動を行った。その担当者が井伊直政だった。
井伊直政は北条家宛てに、「貴家の存続は上手く行きそうなので安心していただきたい」という内容の書状を出した。
ところが豊臣秀吉は北条家を潰してしまった。
これでは井伊直政の面目は丸潰れである。
しかし井伊直政は将来も徳川家の幹部であることは確実な人物だった。
秀吉が幼い子供(鶴松)の将来のためにも、井伊直政のご機嫌を取ろうとするのは当然のことだった。
その井伊直政は関東移封で現地に赴任する前に、現地の国人に書状を送った。
その内容は、「今後のことは確定してないので念のために蓄財することを勧める」ものだった。
何故かと言えば、上野国の旧北条領は当初は織田信雄に旧徳川領と併せて与えられる予定だったのを、秀吉が急に変更して徳川家康に与えようとしたからである。
このいきなりの沙汰に織田信雄は驚いて転封話を渋り、怒った秀吉が織田信雄から領地を没収した。
そして上野国は家康に与えられ、領主の一人として井伊直政が送り込まれた。
井伊直政の上野高崎12万石にはこのような(酒井家と全く関係ない)事情があった。
<大久保家の事情>
三傑が特別扱いを受けたことには理由があった。
しかし酒井家は、条件に当てはまらない大久保家にも追い抜かれた。
関東移封で家康からの感情を量るなら、実は一番注目しなければならないのが大久保忠世の家だった。
大久保家が任された小田原は、最重要拠点だった。
豊臣軍との戦いを想定する場合、小田原の西にある箱根の山々を押さえることが必要になる。
加えて小田原は上方に近く、交易でも要地だった。
しかも北条家の本拠地だった。家康は江戸へ移る前は小田原で政務を行った。
さらに江戸は、元々は北条家の北条氏政が目を付けて開発の準備を進めていた土地だった。
小田原―江戸間の道路の整備・拡幅は北条家時代から進められていたことだろう。
領地の重要性を量る目安は石高だけではない。
諸々含めれば、大久保家が一番の勝ち組だったのである。
大久保家は父親の忠世が軍事で活躍した先手役、息子の忠隣は幼い頃から家康の元で仕え続けて内政・外交で活躍を続ける側近だった。
内戦が続いた戦国時代から豊臣政権の秩序がもたらされた桃山時代、徳川家が三河の一国人から関東の大大名へ成長した時代の流れに上手く嵌ったと言える。
栄転
他の功臣たちに追い抜かれたかに見える酒井家だが、酒井家次が移った下総国臼井は交通の要地であり、水運で実入りの多い土地だった。
また、他家へ婿入りした弟たちとは東海道時代は任地が離れていたが、関東移封で揃って下総国で領主になった。
母親の碓井姫も臼井へ移住した。
酒井兄弟への待遇は、家康の冷遇どころか逆に厚遇だったのかもしれない。
1600年、関ヶ原の戦いで徳川家康が勝利すると、戦後に酒井家次は上野国高崎に加増転封された。
酒井家次の軍勢は関ヶ原の戦い中に行われた第二次上田合戦に参加して活躍はしたのだが、その報奨とするなら過大な報奨だった。
関ヶ原の勝利で徳川家の所領の上限が取り払われたので、家康は酒井家次に相応の石高の所領を任せた、と考えられる。
関東時代は碓井姫が家康の身内だから、我慢してもらったのかもしれない。
家康が本当に酒井忠次を嫌っていて、忠次が亡くなった(1596年)から意地悪を止めただけかもしれないが。
武家の所領とは私有財産というよりその土地(とそこで生産活動を行う住民)を管理する役職に近い。この役職を世襲するのが武家である。
所領を加増してやろう、というのは単なる御褒美ではなく、所領の安全保障を担い、さらに繁栄させる仕事もセットの人事だった。一度受けたら武士はこの仕事から逃げられないので、義務同然である。
当然加増を受ける本人と家臣団がその御役目に相応しくないと判断されたら加増どころか減封、下手をすれば御家取り潰しもありえた。
特に江戸幕府二代将軍・徳川秀忠の時代は、徳川一門だろうと功臣の家だろうと容赦なく粛清された。
1616年、江戸幕府が豊臣氏を滅ぼした翌年、酒井家次は高崎から越後国高田へ転封の沙汰を受けた。
前任者の松平忠輝は家康の息子だったが、秀忠政権に排除されてしまった。
松平忠輝は越後国の大半を預かった大大名で、彼は越後統治の中心地として高田を選んだ。
酒井家次は忠輝家取り潰しの後始末を幕府から任されたのだった。
武家社会の家格は、徳川秀忠(主君)>酒井家次(徳川四天王)>当時の幕閣たちだったので、老中たちが酒井家次に頭を下げて頼む光景もあったかもしれない。
関連項目
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