軽巡洋艦「酒匂(さかわ)」とは、太平洋戦争中に建造された日本海軍の軽巡洋艦である。
概要
阿賀野型軽巡洋艦の四番艦で、艦名の「酒匂」は当時の軽巡洋艦の命名方式であった『河川名から命名』で、この艦は静岡県と神奈川県を流れる酒匂川からとられている。
1942年11月21日、佐世保工廠で起工。1944年4月1日に軍艦酒匂と命名され、4月9日に進水。そして11月30日に竣工して横須賀鎮守府に編入された。既にレイテ沖海戦で連合艦隊が壊滅状態に陥っており、所属先が定まらなかったため単艦で連合艦隊に属した。
1945年1月15日、訓練専門の第11水雷戦隊に編入され、司令官の高間完少将が座乗する旗艦となる。就役したばかりの駆逐艦の教育を担当していたが、4月1日にアメリカ軍が沖縄に上陸した事で第2艦隊へ編入。一時は水上特攻に繰り出される予定になるも、燃料不足により断念。4月20日より連合艦隊所属に戻った。B-29の機雷封鎖により訓練地の瀬戸内海西部が危険な状態となり、また5月20日に新編された海軍挺進部隊から舞鶴方面の配備を命じられ、第53駆逐隊とともに内海を脱出。5月27日に舞鶴へ回航する。燃料不足の深刻化で訓練用の燃料すら事欠くようになったため、7月15日に第11水雷戦隊は解隊。舞鶴鎮守府部隊に編入され、軍港内で浮き砲台と化した。そして舞鶴軍港にて、8月15日の終戦を迎えた。日本の軍艦(軽巡洋艦以上)では唯一無傷だった。
戦争末期に竣工した為、作戦参加も戦闘もしておらず(注1)、終戦まで無傷で残存していた。
終戦後は復員船として活躍(注2)し、その最後はビキニ環礁で行われた核実験(クロスロード作戦)の標的艦として、
戦艦「長門」らと共に海底(注3)へ沈んでいった。現在は60mの深海に眠っており、プロのダイバーでなければ見に行くことはできない(これに対し、長門は33.5mとやや浅めの海底なのでダイビングスポットとなっている)。
補足
- 注1:内海西部で訓練航海中にアメリカの爆撃機B-29編隊と遭遇、それに対して砲撃したと、元帝国海軍大尉の証言が残っている。また、僚艦の矢矧と共に天一号作戦へ参加すべく呉に移動したが、直前になって酒匂の出撃は中止される。
- 注2:
釜山港へ1000名ほどの朝鮮人労働者を送り届けた際に、士官居住区解放を求める韓国人労働者と酒匂乗組員との間に対立が起こったが、猛烈な時化に襲われ、彼らは酷い船酔いで交渉所では無くなり、致命的な対立までには到らなかった。
・・・が、艦内トイレの不足、時化のせいで甲板上にあった仮設トイレの使用不可、さらに酷い揺れと船酔いが重なり、韓国人労働者が航海中甲板の至るところで嘔吐・排便排尿をしたため、その処理に酒匂乗員は泣かされることになったと言うエピソードがある。 - 注3:標的艦としてアメリカ海軍兵の手によって目的地へ航行していたが、操作法の違い並びに意思疎通不足が原因で、巡航タービンが損傷・爆発する事故が発生、幸いにも大事には到らなかったが、修理される事無くビキニ環礁へ。
最初の核実験で甲板上部構造物が壊滅、艦尾が激しく損傷し、沈没しはじめた。第二実験であるBAKER(水中爆発実験)の為に沈没を食い止めようと、米海軍タグボート「アチョマウイ」にワイヤーでの曳航を命じるのだが、酒匂の沈没を食い止めるどころか、逆に引きづられて自身が沈没しかける(ワイヤーを緊急切断する事で難は逃れた)。
米軍の予測以上に沈没速度が速かったのか、それとも軍艦としては何も出来なかった酒匂が、最後の戦いを挑んだのかは、半世紀以上過ぎた私達が知るよしも無い。
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