能代(軽巡洋艦)とは、大日本帝國海軍が建造した阿賀野型軽巡洋艦2番艦である。1943年6月30日竣工。誕生から沈没する時まで一貫して第2水雷戦隊の旗艦を務め上げる。ラバウル空襲、マリアナ沖海戦、シブヤン海海戦、サマール沖海戦に参加し、敵機12機撃墜、8機協同撃墜の戦果を挙げた他、困難な輸送任務を完遂。1944年10月26日、レイテ沖海戦の撤退中に撃沈される。
概要
阿賀野型は巡洋艦乙型とも呼ばれる新型の軽巡洋艦である。当初帝國海軍は5500トン級軽巡洋艦を保有していたが、新型駆逐艦の登場や発達する仮想敵アメリカの艦艇と比較すると旧式化が激しく、水雷戦隊の旗艦に向かなくなってきた。そこで新たな旗艦用軽巡洋艦の建造に着手する事になり、阿賀野型として結実。
ロンドン海軍軍縮条約以降に設計されており、旧式化著しい5500トン級軽巡洋艦から旗艦任務を引き継げるよう造られている。速力、航続距離、凌波性、攻撃力が求められ、まず機関には最新型の高温高圧缶6基を搭載して10万馬力の出力と6000海里の航続距離を獲得。水雷戦隊の旗艦として高速襲撃するために、艦首に小さな球状を付けたクリッパー型を採用。大きなシアとフレアを装備して凌波性、耐波性、機動性を大幅に向上させた。主砲は重量軽減の目的で15.5cmではなく15.2cm砲を装備。戦艦金剛に装備されていた単装副砲を連装砲に改造したもので、仰角が55度あるので対空にも対艦にも使えた。また新型の8cm長砲身連装高角砲を艦橋両舷に1基ずつ装備。この高角砲は阿賀野型にしか装備されなかった。主要部は15cm砲弾に対する防御が施され、機関室の舷側は60mm、弾薬庫側面は30mm、艦橋操舵室は40mmのCNC鋼板で覆われていた。
要目は排水量6625トン、全長174.5m、水線下幅15.2m、最大速力35ノット、航続距離6000海里(18ノット時)、出力10万馬力、乗員730名。武装は50口径15cm連装砲3門、九八式8cm連装高角砲2門、25mm三連装機銃2基、13mm単装機銃2基、61cm四連装魚雷発射管2門、九三式一型改一魚雷16本、九五式爆雷18個、21号電探。搭載機として零式水上偵察機2機を運用する。
ちなみに阿賀野型は防諜の目的で竣工が発表されず、臣民には知らされていなかった。
艦歴
1939年度海軍軍備充実計画にて、二等巡洋艦第133号艦として建造が決定。他の阿賀野型は佐世保工廠で建造されているが、唯一能代のみ横須賀工廠での建造となった。開戦直前の1941年9月4日、横須賀海軍工廠で起工。1942年5月15日に軍艦能代と命名され、5月24日より浦賀沖で公試運転を行う。少数ながら本土近海に米潜の出現が認められていたため、特設駆潜艇通海丸が対潜哨戒を行っている。7月19日に進水し、命名式に伏見宮殿下が参列された。1943年6月より東京湾で全力公試と終末試験を行い、6月30日竣工。横須賀鎮守府第1艦隊第11水雷戦隊に編入され、初代艦長に田原吉興大佐が着任した。
艦名の能代とは、秋田県北部を流れて日本海に注ぐ米代川下流域の名称。
1943年
7月1日に物資の積載を行い、7月7日から9日にかけて工廠に入渠して残工事を実施。瀬戸内海にいる第11水雷戦隊と合流すべく、7月15日に横須賀を出港し、本州の南に沿って航行。翌16日午前4時45分、淡路島江崎灯台沖を通過時に第3号駆潜特務艇の間接援護を受け、瀬戸内海に進入して柱島泊地に到着。柱島と安ノ庄を拠点に慣熟訓練を行う。ところが悪化する戦況は能代を待ってはくれなかった。アッツ島方面作戦のため一時帰国していた主力艦隊がトラック諸島へ戻る事になり、主力艦隊とともに能代を前線に送りたい第1艦隊は、8月2日18時に直ちに呉へと回航して戦備を整えるよう指示し、8月6日に呉へ入港。陸兵や軍需品を搭載する。本来であれば8月末まで訓練をする予定だったが、8月7日15時13分に「以後の訓練を取りやめて、出撃準備に取り掛かれ」と急かされる。能代側は「対空訓練未了につき充分の自信を持てず」と返信するも、聞き入れられなかった。8月10日午前7時20分に前進部隊本隊所属となり、第2艦隊第2水雷戦隊へ転属。コロンバンガラ島沖海戦で撃沈された軽巡洋艦神通に代わり、8月15日に第2水雷戦隊の旗艦を長良から継承。戦隊司令の高間完少将が乗艦した。早送りしているかのような性急過ぎる準備に、能代はただ翻弄されるだけだった。
8月16日午後12時45分に呉を出港し、19時56分に八島泊地へ回航。現地で進出待機中の戦艦大和、長門、扶桑、空母大鷹等と合流した。8月17日午前10時、駆逐艦海風が八島泊地に到着し、南東方面行きの陸兵150名を能代に移乗させた。13時に泊地を出発。艦隊は第三警戒航行序列を組み、能代が栄えある先頭艦となる。豊後水道を南下して太平洋に出た後、一路トラック諸島を目指す。能代は航行中に諸訓練を行い、錬度不足の部分を少しでも補おうと努力した。順調に航海は進み、入港を直前を控えた8月23日早朝、能代は艦隊から分離して艦載機を発進。近隣に潜んでいる敵潜水艦を警戒しつつ、味方艦艇のトラック入泊を支援した。艦載機を収容した後、午前7時45分に能代も泊地内に入港。最初の航海を無事に終えた。8月30日、環礁内で諸訓練を実施。内地で行えなかった訓練をトラック基地で続行する。7月と8月だけで第2水雷戦隊は清波、有明、夕暮、江風を喪失する大損害を受けた。9月16日午前5時、駆逐艦涼風、海風を率いて環礁外で訓練を行ったが、涼風の魚雷1本が沈没してしまうハプニングに見舞われた。
人事異動により、第3艦隊の空母機動部隊を率いる小沢治三郎中将と、第2艦隊の重巡部隊を率いる栗田健男中将は未だ協同訓練を実施した事が無かった。2つの艦隊による連合訓練を行うべく、9月17日に24隻の艦艇がトラックを出港。アメリカ軍がいる東方に向けて進撃を開始した。当初能代率いる第2水雷戦隊は留守番の予定で、環礁内で海風や涼風と訓練に従事していた。翌18日に米第15機動部隊がギルバート諸島のマキンとタラワを爆撃したとの報告が入り、現地に進出していた第22航空戦隊の零戦や一式陸攻が被害を受けてしまった。これを受けて20時45分、海風、涼風、玉波を率いてトラックを出撃。北水道の対潜掃討を行ったのち第一警戒航行序列を組み、先発した主力艦隊の背中を追った。空襲は9月19日にも行われ、訓練出動していた艦隊は敵を捕捉すべくそのまま東進。9月20日午前11時30分、マーシャル諸島ブラウン島に入港する前に艦載機を発進させて近海の対潜哨戒を実施。14時40分にブラウンへ到着した。ここには第61警備隊の基地用レーダーが備えてあり、艦隊決戦を挑むには打ってつけの前進拠点だった。敵空母来襲の報告を受けた瑞鳳が翌21日に合流。9月22日、重巡高雄とともに艦載機を発進させ、近海の対潜哨戒を行う。南太平洋海戦以来の艦隊決戦が行われるかに見えたが、敵艦隊は素早くハワイに引き揚げてしまったため、小沢中将は帰投を命令。9月23日午前7時16分、2隻の駆逐艦を伴ってブラウンを出発し、9月25日17時12分にトラックへ戻った。
しかし敵の反攻は留まる所を知らなかった。10月5日、モントゴメリー少将率いる米第14機動部隊が北東のウェーキ島を空襲し、第22航空戦隊に再度大打撃を与えた。翌7日未明にも敵艦上機が大挙来襲したため、連合艦隊は午前7時20分に丙作戦第一法警戒を発令し、敵の攻略作戦に即応すべく在トラックの海上戦力に出撃準備を下令。10月8日午前2時、トラックを出港して駆逐艦涼風、海風、大波、長波とともに環礁外で訓練を行う。しかし得られた情報を統合した結果、敵に空襲の意図以上のものは無いと判断され、同日早朝に出撃準備取り止めとなった。以降、敵機動部隊の動静は掴めなかった。
連合艦隊旗艦の武蔵はホノルル発の電信に新しい無電の呼び出し符号が現れている事に気付き、米空母が近く作戦を再開すると読んだ。今度こそ艦隊決戦を挑むべく、Z一号作戦を発動。10月17日朝、武蔵のマストに「出港用意、移動物固縛」の信号旗が上がった。午前7時4分、主力艦隊とともにトラックを出撃。瑞鶴、瑞鳳、翔鶴を中心とした輪形陣を組み、トラック近海に潜む敵潜水艦への警戒として速力24ノットで航行。危険海域を抜けた後は15ノットに落とした。前回のような肩透かしを受ける可能性も考慮し、伊36潜にハワイを偵察させてみたところ、港内に戦艦4隻、空母4隻、巡洋艦5隻、駆逐艦17隻の停泊を確認。敵は出撃していないようだった。10月19日午後12時40分にブラウンへ到着するが、決戦の機会を逸したため東進を中止。連合艦隊司令長官古賀大将は再びウェーキに敵が来ると考え、10月23日午前1時56分に出港。ウェーキ南方に到達し、能代はウェーキ西方海域の索敵を実施する。しかし敵空母出現の兆候は無く、10月25日には航空教練で発進した最上の艦載機が行方不明になってしまう。能代と島風が捜索を行ったが見つけられず、帰投命令を受けて翌26日に瑞鳳を護衛して帰路につく。10月27日16時54分、トラックへ帰投した。この出撃で艦隊用燃料を多く消費し、敵潜の跳梁で10月だけでも4隻の大型タンカーを失っていたため補給すらままならなくなってしまった。
獄炎に包まれるラバウル
11月1日早朝、連合軍7500名がブーゲンビル島タロキナ地区に上陸。午前10時55分、大本営は電令作第748号を発令し、トラック在泊の巡洋艦を栗田中将の指揮下に編入して遊撃部隊を編制。ラバウル方面に進出させて決戦を挑む事になった。能代率いる第2水雷戦隊にも参集の命が下った。しかし司令官の高間少将は制空権を喪失しているラバウルに水上部隊を送り込む事に懐疑的であった。トラック方面にも敵機来襲の兆候が見られたため、警戒待機を行っている。翌2日午前4時30分、環礁外の対潜掃討を行って重巡部隊の出港を援護を行ったが、ラバウル方面が熾烈な空襲を受けているため1日出港を延期。11月3日午前7時45分に出撃し、駆逐艦玉波、涼波、藤波、早波、島風を率いて重巡最上、鈴谷、筑摩の3隻を護衛しながらラバウルに急行する。翌4日午前10時55分、アドミラルティ沖でB-24に触接されるも対空射撃で追い払った。しかし23時43分には4機に数を増やし、照明弾まで投下されるなど執拗な触接を受けた。
11月5日午前6時10分、ラバウルに到着。国洋丸に横付けして燃料補給を受ける。シンプソンズ湾は給油船と補給を受ける艦で混雑しており、脆弱な状態と言えた。午前9時17分に空襲警報発令され、その4分後に敵艦上機97機が出現して対空戦闘開始。ラバウル基地から零戦71機と彗星5機が迎撃に上がった。能代は航空魚雷1本を喰らったが、幸い不発弾だったため負傷者1名だけで済んだ。対空砲火により1機を撃墜し、1機を協同撃墜した。敵艦上機が引き揚げていくと今度はB-24爆撃機27機が出現し、地上施設を爆撃。午前11時15分に警戒解除されたが、敵機は夜間にも襲来し、19時55分に空襲警報発令。この空襲も何とか無傷で切り抜け、21時17分に警報解除となった。重巡部隊はトラックに引き返す事になり、大破していた摩耶を除いて夜の間に危険なラバウルから去っていった。一方で能代は「ろ」号作戦支援のためラバウルに留まる事になった。タロキナに上陸した連合軍を排除すべく、第8方面軍を率いる今村均陸軍中将はラバウルから3000名の兵力を送り込もうとしていた。しかし敵に制空権と制海権を握られているため、実際は小規模な戦力しか送れなかった。
11月6日13時48分、タロキナに逆上陸を仕掛ける陸兵を分乗させた駆逐艦4隻を援護すべくラバウルを出港。能代は早波とともに第2支援隊を編制し、大波、巻波、長波で警戒隊を編制した。19時、第958航空隊の水上偵察機からタロキナ岬の西方に敵魚雷艇約40隻を発見したと報告を寄せられた。最短ルートを封鎖された形となり、輸送部隊はブーゲンビル島北岸に沿って迂回。23時頃、タロキナに敵駆逐艦5隻と輸送船5隻が揚陸中との情報が入り、一時は輸送中止になりかけるも続行。日米の艦隊が11kmにまで近づいたが、戦闘にはならなかった。翌7日午前0時15分に揚陸を開始し、21隻のカッターや艀でラルマ川付近に上陸。予定では艦砲射撃による支援を行うはずだったが、付近に敵艦が潜んでいたため実行されなかった。アメリカ軍は逆上陸した日本兵を増援の味方と勘違いし、対応が後手に回ったため迎撃を受けなかった。作業は30分で完了。揚陸成功を見届けた第2支援隊は午前1時16分に反転し、帰路についた。道中で警戒隊の駆逐艦3隻と合流し、午前7時10分にラバウル入港。しかし午前10時5分に空襲警報が発令され、出現した敵爆撃機の編隊に向けて休む間もなく対空戦闘を行っている。連合軍は策源地のラバウルを黙らせようと連日空襲を仕掛け、8日、9日、10日と毎日のように空襲警報が発令された。同時に大型機が港内を飛び回り、念入りに偵察している事から大空襲の前兆と考えられた。
11月11日午前4時40分、ラバウルを出港して湾内で警戒漂泊。午前6時18分、偵察機が敵空母2隻がムツピナ沖で発見したとの通報が入り、熾烈な空襲を予期した能代は湾外に退避。そして午前6時57分に空襲警報が発令され、185機の敵機が襲来。陸上砲台が砲声を上げ、107機の零戦が迎撃に飛び立つ。戦端が開かれた頃、湾外の広範囲に渡ってスコールが発生しており、敵機から逃れるべく能代はその中に飛び込んだ。ところが100機以上の敵機がスコールの中に入ってきて、約1時間攻撃を受け続けた。機銃掃射と至近弾により小破するも、視界不良に助けられて直撃弾は出なかった。午前8時、敵機の攻撃が一段落ついたため、指揮下の駆逐艦に情況を知らせるよう指示。藤波と早波は異状無しと伝えてきたが、涼波と長波からの応答が無く、対空警戒を厳にしながら湾外を捜索。長波は被弾こそしていたが健在、涼波は港外で沈没していた。午前8時27分、警報解除。午前11時30分頃には身を守ってくれたスコールが晴れていった。敵機動部隊は午後に向けて第二波空襲の準備をしていたが、ラバウルから飛来した味方攻撃隊の妨害により断念した。午前10時45分、大破してラバウルに残留していた摩耶と潜水母艦長鯨を護衛してトラックに回航するよう命じられる。16時49分、大破状態の摩耶や潜水母艦長鯨を護衛してラバウルを出港し、トラックに向けて後退を開始。駆逐艦五月雨、風雲、若月、早波、藤波が随伴する。同日深夜に敵機の執拗な爆撃を受けて五月雨が損傷した。
11月12日、先発していた軽巡阿賀野がカビエンの北北西で米潜スキャンプの雷撃を受け、航行不能に陥る。同行していた浦風、初月、涼月では排水量の違いから曳航できず、近くを航行していた能代に救援要請が飛び込んだ。早速早波と藤波を引き連れて現場に急行、同日23時に洋上で立ち往生している阿賀野の姿を認めた。翌13日午前0時より曳航作業に着手し、曳航索を艦尾から阿賀野の艦首に結びつける。午前1時に阿賀野の曳航を始めるが、周囲には敵潜水艦が集まり始めており、いつ雷撃されてもおかしくない状況だった。午後12時50分、初月が敵潜を探知して爆雷を投下。トラックから救援に来た軽巡長良が合流し、阿賀野護衛の輪に加わった。順調に進んでいるかに見えた11月14日午前7時34分、波浪により曳航索が切断されてしまう。代わりに長良が曳航を引き継ぎ、午前11時55分に曳航再開。能代は前路哨戒を担った。そして11月15日21時30分、無事トラックに入港。見事阿賀野を守りきって見せた。
敵勢力圏内への輸送任務に臨む
トラックに帰投したのも束の間、11月19日よりスプルーアンス大将率いる第5艦隊がギルバート諸島のマキンとタラワを空襲し、11月21日早朝に海兵隊が上陸した。11月23日、大本営は邀撃部隊電令作第23号を発令し、救援部隊を編制。能代率いる第2水雷戦隊は警戒隊へ編入され、指揮下に第61駆逐隊と第17駆逐隊を加えた。翌24日午前4時27分、主力隊の出港に先立ってトラック北水道を出発。対潜掃討を行ったのち、午前7時43分に環礁内から出港してきた旗艦鳥海、鈴谷、熊野と合流してギルバート諸島の北方にあるクェゼリンへ向かった。しかし11月25日、タラワ守備隊から訣別電が発せられ、マキン守備隊も音信不通となった。輸送中の増援部隊が宙に浮いてしまい、連合艦隊は能代にルオット及びヤルートへの輸送を命じた。重巡部隊と別れ、駆逐艦早波と藤波を率いてルオットに向かった。翌26日、ルオット島に到着して兵員と物資を揚陸。11月27日15時20分に出港し、次はブラウンに寄港。11月30日午前7時40分に再びルオットへ戻り、不時着した第952航空隊の水上偵察機から搭乗員を救助した。
12月3日19時50分、マーシャル方面への輸送任務を完遂してルオットを出港し、12月5日23時9分にトラックへ入港。12月15日、二代目艦長に梶原季義大佐が着任し、新たな戦隊司令に早川幹夫少将が就任。12月18日に早川少将が艦内を巡視した。12月21日午前5時18分、サイパンに向けて航行中の照川丸がトラック北方約250kmの地点で米潜スケートの雷撃を受け、大破炎上。急報を受けた能代は午前11時52分にトラックを出動、駆逐艦浜風、電、響を率いて現場海域に急行する。19時11分、闇夜の中で赤々と炎上する照川丸を発見し、先に到着していた満潮や天霧と警戒行動に移る。しかし照川丸は一番船倉後部を切断しており、既に虫の息であった。到着から約1時間後の20時20分、照川丸は沈没していった。救難に向かった艦は帰路につき、翌22日午前6時22分にトラックへ入港。能代は戊1号作戦第三次輸送部隊の旗艦に指定され、カビエンへの輸送任務に従事する事に。12月25日、戦艦大和と駆逐艦谷風、山雲がトラックに入港。翌日大和に横付けして第51師団独立混成第1連隊兵員600名と軍需品1500トンを積載し、第4軍需部から鉄兜300個が貸与された。12月28日午後から陸兵約300名が艦内で宿泊し始め、12月29日に不用品の揚陸及び出撃準備を行う。12月30日13時3分、軽巡大淀、駆逐艦秋月、山雲とともにトラックを出港。作戦支援として龍鳳から派遣された零戦36機が事前にカビエンへ進出しており、防空を担った。
1944年
1944年1月1日午前4時45分、カビエンに到着して揚陸作業開始。周辺には空襲でやられたであろう商船が転覆しており、まさに船の墓場であった。天候こそ恵まれていたが、港内は厳重に機雷封鎖されていて自由に動ける場所が少なく、沖合いには敵潜が遊弋、更に敵機動部隊による空襲の予兆もあった。このため速やかに揚陸を完了して空襲圏内から離脱しなければならなかった。エドマゴ水道に入ろうとした秋月の前で第13真盛丸が触雷したため、秋月のみ進入を取りやめて沖合いから揚陸作業を実施。揚陸作業中にも敵の触接機や敵水上艦隊が確認されるなど緊迫の時が流れた。
午前6時30分、能代、山雲、秋月の揚陸作業は完了。しかし大淀が作業に手間取り、2時間を要すると伝えてきた。その間、3隻は大淀の外側で対空警戒を行う。午前8時30分、空襲警報発令。恐れていた敵機の襲来が始まってしまった。大淀はまだ野砲数門を揚陸しておらず、身動きが取れない。7分後、大淀の70度方向約50kmに敵機85機を発見。能代は大淀の護衛に秋月を残し、敵機を引き離すべく山雲を率いて出港。最大戦速で脱出を図る。午前8時45分、ようやく大淀の揚陸作業が完了。敵機は眼前にまで迫り、零戦隊が迎撃に上がっている。午前8時52分、対空戦闘開始。敵機は二群に分かれ、能代と大淀を襲撃。先頭を走っていた能代に3機編制の敵機が雷撃を仕掛けてくるも回避に成功。直後、上空から急降下爆撃機が突っ込んできて主砲と高角砲で迎撃しながら回避運動を取る。巧みな回避で攻撃を避け続けていたが、ついに艦首へ50kg爆弾2発が直撃。幸い遅発信管付き徹甲爆弾だったため炸裂せず、破孔が生じただけで済んだ。被弾位置が弾薬庫に近い事もあり、もし炸裂していれば轟沈は免れなかったと当時の乗組員が証言している。敵機の猛攻は続き、右舷艦首付近に至近弾を受けて火薬庫に浸水するとともに乗員10名が死亡、重軽傷者12名を出す。度重なる至近弾で前部中甲下板が浸水して一番砲塔が使用不能になり、二番砲塔測距儀も故障。
中破の損傷を負う。幸い機関の異状は無かった。午前9時30分、敵機は北西方向に引き揚げていった。この戦闘で能代は主砲63発と高角砲1612発を発射。しかしカビエン基地から北東に敵編隊の二群が向かっているとの通報が入り、依然として空襲の危険性があった。一時はラバウルに逃げ込む事も視野に入れていたが、午前10時15分に敵空母が反転離脱した事で危機は去った。一路トラックに向かっていた最中、伴走者の山雲に異変が生じる。至近弾と機銃掃射により穿たれた55ヶ所の破孔から海水が浸入し、重油101トンが使用不能に。夜までに尽きてしまう計算だった。
1月2日午前9時18分、敵の爆撃で航行不能に陥った清澄丸の救援に大淀と秋月が指名される一方、燃料の問題から能代と山雲にはトラック回航が命じられた。応急修理で何とか持たせ、同日19時にトラックへ入港。明石から派遣された救難作業隊が待機しており、排水ポンプや各種所要器材を持って乗艦。梶原艦長の指揮を受けながら応急処置を施す。翌3日、古賀大将と近藤中将が能代を視察。長らく後方拠点として南東方面の戦況を支えてきたトラック基地にも敵の影が見え隠れするようになり、安全な場所ではなくなりつつあった。1月6日、工作艦明石が横付けして損傷箇所の修理を行う。その間に阿賀野と能代は各2機ずつ艦載機を派遣し、近海で跳梁跋扈する米潜水艦の掃討を実施。1月16日、応急修理完了につき明石が横付けを離した。
1月18日午前4時50分、内地に帰投する瑞鳳と雲鷹を護衛して北水道を通過。第一警戒航行序列を組み、18ノットで航行する。しかしこの行動は暗号解析で敵に読まれ、サイパン東方沖に米潜ハダック、タリビー、ハリバットが待ち伏せた。翌19日午前10時42分、距離2000m以下の位置からハダックが6本の魚雷を発射。うち2本が雲鷹の前部に直撃し、大破航行不能に陥る。沈没の恐れが無い事が不幸中の幸いだった。13時55分から駆逐艦初霜とともに雲鷹の護送を開始、早波が対潜警戒を担った。応急修理のため急遽サイパンへ寄港する事になり、16時21分に夜間航行に備えて隊列を変更。能代は雲鷹の後ろに回り、電探を使って周囲の警戒を行う。初霜は雲鷹の前路哨戒を担当した。1月20日午前11時30分、サイパンの外港に到着。船体が巨大な雲鷹は港内に入れなかったため能代ら護衛艦艇は雲鷹を囲むように警泊し、雲鷹が流されないよう能代に繋がれた。同日中にトラックから派遣された駆逐艦海風が到着、便乗していた工作艦明石の工員が排水ポンプを持って雲鷹に移乗する。
1月21日午前11時30分、警戒任務を海風に託し、能代は早波を伴ってサイパンを出発。能代の後方800mを早波が続航する。敵潜が遊弋する危険な海域を24ノットで突破し、1月24日13時に横須賀へ帰投した。最後に本土を出港してから実に約5ヶ月が経過していた。2月1日から横須賀工廠第5船渠に入渠し、本格的な修理を受けると同時に25mm三連装機銃6基と単装機銃10基を追加して対空兵装を強化。2月14日、第2水雷戦隊の将旗を一時的に高雄へ移譲。3月19日に工事を終えて出渠した。
敵潜が跋扈する南方の地をゆく
内地の備蓄燃料が少ない事から、燃料が豊富な南方資源地帯への進出が決まり、3月28日に横須賀を出港。二水戦の旗艦に復帰するとともに、第5戦隊の羽黒や妙高と合流して東南アジアに向かった。4月3日にダバオへ寄港、第2艦隊の主力と合流する。4月5日、第4戦隊(高雄、愛宕、摩耶、鳥海)や第5戦隊、駆逐艦春雨と出港してリンガ泊地へ向かうが、ダバオ湾から出港する所を米潜スキャンプに発見されており、周囲のデースとダーターが集まってきた。翌6日未明、デースのレーダーに捕捉され、デースとダーターが艦隊を追跡。6本の雷跡が伸びてくるも、全艦回避に成功した。敵襲を切り抜け、4月9日にリンガ泊地に到着。
5月11日、「あ」号作戦発令に伴ってリンガを出港。戦艦大和、長門、金剛、榛名などの有力艦艇と航行し、シンガポールから飛来した第936航空隊の水上機が対潜哨戒を行った。ボルネオ島を北回りで迂回して5月14日にタウイタウイ泊地へ到着。バリクパパンには大本営に無理を言って強引に引き抜いた1万トン級タンカー3隻が停泊しており、今後の作戦には欠かせない存在だった。能代は入泊直前の駆逐艦朝霜に護衛任務を与え、バリクパパンへ行くよう指示した。5月16日、輸送任務の目的で駆逐艦沖波とともにタウイタウイを出発し、翌日ダバオに入港。5月18日にダバオ湾を出港。23ノットの速力でジグザグ運動をしていたが、米潜ガーナードに発見され、「戦艦もしくは大型巡洋艦」と報告した後、6本の魚雷を撃ってきた。ガーナードは2回の爆発音を聴音するも実際には命中しておらず、護衛の駆逐艦から32発の爆雷投下を受けて退散した。5月19日、タウイタウイに帰投。訓練に従事する。
タウイタウイは熱帯であり、太陽が昇れば灼熱の暑さとなった。このため艦隊の訓練は原住民の生活リズムを参考にし、朝食後の掃除を後回しにして日が昇る前に訓練を実施。昼食後は長めに休憩を取って14時半から訓練や作業を再開する事で最も暑い時間帯を回避した。6月8日、給糧船北上丸から食糧の補給を受ける。
5月27日、連合軍がビアク島への上陸を開始。ビアクを失えば第1機動艦隊の西カロリン方面での行動が困難になり、「あ」号作戦の成否に関わった。大本営は渾作戦を発動し、ビアクへの増援輸送を企図していたが、既に第一次、第二次ともに失敗。6月9日、来攻する敵艦隊を粉砕するため戦艦大和や武蔵とともに能代の参加が決定し、第三次渾作戦に従事する事に。翌10日16時、タウイタウイを出港。能代を先頭に沖波、山雲、岸波、島風、磯風、谷風、早霜、戦艦大和、武蔵の順に出発し、在泊艦艇が帽振れで見送ってくれた。しかしタウイタウイを監視していた敵潜ハーダーに早速発見され、位置情報を通報されている。翌11日午前4時30分、敵潜の跳梁が激しいセレベス海を北上し、20時に針路175度へ変針して南下。道中で何度か潜望鏡発見や警報が発せられたが雷撃を受ける事は無く、6月12日午前8時にバチャン島サムバキ湾に到着。現地で第5戦隊、第16戦隊、第10駆逐隊と合流して急速に作戦準備が進められた。ニューギニア北岸に敵機動部隊が出現した時を想定し、大和、武蔵、妙高、羽黒と攻撃部隊を編制。敵艦隊が出現した時は輸送部隊を守って突撃する役割が与えられた。
6月13日23時、攻撃部隊はバチャンを出港。増援部隊を乗せた駆逐艦5隻を間接援護するが、同日中にアメリカ軍の大部隊がマリアナ諸島へ襲来。渾作戦どころではなくなり、「あ」号作戦決戦用意が発令。原隊への復帰を命じられ、タウイタウイ泊地を発った小沢治三郎中将率いる機動部隊と合流すべく北上する。6月15日午前4時30分、サイパン西方にアメリカ軍の船団が出現して上陸を受ける中、ミンダナオ島東方で米潜シーホースに発見されて位置を通報された。同日18時、第1補給部隊と合流。翌16日朝より補給を受けながら小沢艦隊との合流地点を目指し、15時30分に艦隊との合流を果たした。6月17日15時30分に補給作業が完了、小沢艦隊の一員となってサイパン方面に進撃する。6月18日21時、小沢艦隊は3つのグループに分かれ、第3航空戦隊や戦艦群で構成された前衛部隊に所属。この前衛部隊は言わば囮であり、本隊が受ける圧力を少しでも減らす事を期待されていた。
6月19日、マリアナ沖海戦に参加。未明より各空母から索敵機が飛び立ち、敵艦隊の位置を特定しようと躍起になっていた。そして敵よりも先に敵艦隊の捕捉に成功、攻撃隊を発進させた。午前8時20分、大和の見張り員が西方より接近する敵味方不明機を発見。重巡高雄が照明弾を発射して出方を窺ったが、無視して接近を続けた。前衛部隊は敵機と断定、能代は僚艦とともに対空砲火を上げた。しかしその正体は本隊から出撃してきた第601航空隊で、味方だった。味方機だと見抜いていた大和と武蔵から射撃中止を要請されるも、対空砲火は止まらなかった。最終的に味方機がバンクした事で同士討ちは終わったが、すっかり編隊が乱れてしまい、彗星艦爆数機が母艦に引き返した。攻撃に向かった航空機の大半は帰ってこず、また遥か後方の本隊は敵潜の襲撃を受けて旗艦大鳳と翔鶴を喪失。小沢中将は一時的に羽黒へ旗艦を移し、補給と再編制を行うべく西方への退却を指示。17時10分に艦隊は北上、22時45分に変針して西方に退避した。
翌20日早朝、小沢艦隊は一ヶ所に集結。午前4時30分、能代は艦載機を発進させ、僚艦の水偵とともに東方海域を索敵。午前7時までには油槽船5隻が合流し、午前11時29分より給油を開始。正午頃、旗艦を瑞鶴に移す。午後に入ると東方約240海里に敵味方不明機が多数出現するようになり、愛宕が通信傍受した結果、敵飛行艇が触接を行っている公算大と判断された。小沢中将は更なる西方への退避を命じ、14時45分に移動を開始。15時5分には小沢艦隊の全容を正確に報告した通信が傍受され、その15分後に敵の偵察機が触接した事で攻撃は不可避と考えられた。そして16時15分、敵艦上機約20機が東方約200海里を西進中との報告が入ったが、未だ給油作業が終わっておらず、無防備な給油船が同行している状態だった。
17時30分、200機以上の敵機が出現。いよいよ本格的な空襲が始まった。敵機は空母を最優先目標に定め、囮の能代や戦艦群を無視して突撃。敵の航過を対空砲火で阻んだ。第2水雷戦隊は約40機に攻撃されたが、能代は無傷で乗り切った。しかし飛鷹が撃沈され、逃げ後れた玄洋丸と清洋丸も犠牲となった。マリアナ沖海戦で虎の子の大型空母3隻と400機以上の航空機、700名の搭乗員を失い、やっとの思いで再建した機動部隊は壊滅した。19時45分、連合艦隊司令部から「あ」号作戦の中止が命じられ、沖縄方面に向けて退却。
6月21日午前8時頃まで敵触接機に追い回されたが何とか振り切り、6月22日13時に中城湾へ寄港。ここで燃料補給と負傷者の移乗を行い、翌23日午前11時出港。荒れている玄界灘を突破し、6月24日18時に柱島泊地へと帰投した。呉工廠で入渠整備を受けた際、マリアナ沖海戦の戦訓で更に対空兵装を強化。25mm三連装機銃8基と25mm単装機銃8基を増備しつつ、新たに13号対空電探と22号水上電探を搭載。相変わらず内地に燃料が残っていないため、主力艦艇ともども東南アジアへの進出が決定。
7月8日、シンガポール方面に輸送する陸兵を収容して呉を出港。7月10日、沖縄方面に向かうグループと別れ、7月16日にリンガ方面へ向かう戦艦部隊と分離。第4及び第7戦隊とともに7月19日にシンガポールへ到着。運んできた物資と陸兵を揚陸したのち翌日出発、リンガに回航されて月月火水木金金の猛訓練に明け暮れた。8月1日、第2艦隊は第1遊撃部隊に改名。9月8日、北上丸から食糧を受け取る。10月3日15時20分、対潜訓練のためリンガを出港し、翌4日午前11時30分に帰投。10月8日、ガラン沖で出動訓練に従事。続いてシンガポールに回航され、セレター軍港の浮きドックに入渠して修理と補給を実施。25mm三連装機銃2基と同単装機銃10基を追加装備した。10月12日から翌13日にかけて行われた台湾沖航空戦で大戦果を挙げたため、敗走する残余の敵艦を撃滅すべく能代の工事が切り詰められた。
絶望の世界のレイテ沖海戦
10月17日朝、アメリカ軍の大部隊がレイテ湾のスルアン島に上陸。同島の海軍見張所から「敵艦発見」の緊急電が発せられ、午前8時に連絡が途絶した。レガスピーから飛び立った偵察機から戦艦1隻、巡洋艦2隻、駆逐艦8隻が遊弋していると寄せられ、午前8時10分に連合艦隊司令長官豊田副武大将が捷一号作戦の発動を命じた。午前9時18分、日吉の連合艦隊司令部より栗田健男中将率いる第1遊撃部隊は「速やかにブルネイに進出すべし」との命令電を受け、能代はシンガポールでの修理を中止して緊急出港。同日夕刻、リンガに到着して第1遊撃部隊と合流した。10月18日午前1時、駆逐艦岸波、長波、朝霜、藤波、浜波、沖波、時雨、秋霜、早霜、清霜、島風を率いてリンガを出港。第2水雷戦隊が先陣を切った。二水戦、第4戦隊、第5戦隊、第1戦隊、第10戦隊、第7戦隊、第3戦隊、第2戦隊の順に縦陣列を組み、リネー水道を通過するまで無線封鎖が敷かれた。午前6時、リネー水道を通過して南シナ海に進出。旗艦愛宕から「対潜警戒を厳にせよ、第一警戒航行序列となせ」と信号が送られてきた。未だ空は暗かったが、夜明けが近づくにつれ明るくなってきた。縦陣列から警戒航行序列に隊形を組み替え、能代率いる第2水雷戦隊は第4戦隊の左側に占位する。敵潜情報によれば、今進んでいる海域は数日前に敵潜を探知した危険な場所であり、速力21ノットに上げて一斉回頭之字運動X法を行って警戒する。午前8時30分、ぎらぎらとした太陽が空に昇り、暑い陽光が降り注ぐ。
速力18ノットで南シナ海のグルートナッツ島北方を迂回し、10月20日午後12時15分に前進拠点のブルネイに到着。現地で燃料補給を行う予定だったが、タラカンを出発した船団が敵潜の襲撃を受け、被害こそ無かったものの到着が遅れていた。栗田中将は第2水雷戦隊の駆逐艦沖波と清霜に命じて船団護衛に向かわせた。少しでも時間の遅れを埋め合わせるべく燃料搭載量に余裕がある大型艦から小型艦へ前もって給油を行う事とし、能代と第2水雷戦隊の駆逐艦は戦艦大和に横付けして送油を受けた。給油完了後、能代は湾口に移動して可燃物を陸揚げする。作業が一通り完了した夕刻、総員集合の号令が下され、梶原艦長が訓示を行う。その後、各分隊ごとに異例の酒宴が開かれた。こたびの出撃は味方機の上空支援が一切受けられず、誰もが最後の出撃になると覚悟していた。ブルネイ湾で作戦準備を行っている間にも刻々と戦況が伝えられ、日本側の可動航空機が徐々に減っていくのが分かった。翌21日午前8時、沖波と清霜に護衛された光栄丸が到着。給油作業が始められた。
10月22日午前5時、全艦艇39隻の燃料補給が完了。午前8時、旗艦愛宕に率いられてブルネイを出港。後に出撃する西村艦隊の面々が見送ってくれた。戦艦7隻、重巡11隻、軽巡2隻、駆逐艦19隻からなる第1遊撃部隊は五列二群の対潜警戒航行序列を組み、第2水雷戦隊は前面に配置。戦隊旗艦の能代は栗田艦隊の最前に立って先頭艦となった。この対潜警戒航行序列はリンガでの苦心の研究により生み出された新たな隊形だったが、駆逐艦の不足から完全な対潜警戒は叶わなかった。午前10時3分にアベノロック北方を通過し、針路15度に変針してパラワン水道の入り口に向かった。14時30分、40度方向に潜望鏡が確認され、対潜戦闘と之字運動を行ったが、青竹にレンズを付けただけの擬潜望鏡(流木とも)と判明した。16時15分、針路40度に変針。21時、矢矧が魚雷音を探知して赤色信号銃を放ったため、緊急左斉動を行ったが、実のところ矢矧の嘘探知だった。
初動で重巡3隻を失う
10月23日午前0時頃、最初の難所であるパラワン水道南口に差し掛かった。新南諸島とパラワン島に挟まれた狭い水道はレイテ湾への最短ルートであると同時に敵潜水艦が潜む難所だった。午前2時50分、旗艦愛宕が特別緊急信を送信中の敵潜電波を極めて明瞭に探知し、全艦艇に宛てて通報。より一層の対潜警戒に励む。午前5時30分、速力18ノットで之字運動を開始。各艦とも総員配置につき、早朝訓練に臨んでいた。午前6時33分、6本の雷跡が栗田艦隊目掛けて伸びてきた。その雷跡は能代の右斜め後方2kmを航行している旗艦愛宕に向かっていき、回避する間もなく愛宕の右舷に4本が命中。高雄に2本が命中して大破落伍。艦隊は大混乱に陥る。直ちに対潜戦闘を開始し、取り舵をしつつ速力20ノットに増速。午前6時36分、155度方向4000m先に潜望鏡を発見するが敵潜の跳梁を抑えられず、午前6時53分に愛宕が大傾斜して沈没した。午前6時57分、左舷80度方向より4本の魚雷が伸びてきて、今度は摩耶が犠牲となる。防水の甲斐なく午前7時5分に沈没していった。戦う前から重巡2隻を失う大打撃をこうむった。午前7時14分に速力を24ノットに上げ、敵の魔手から脱出した。
午前8時27分、危険海域を突破したとしてY二三警戒航行序列に変更。能代は左前方の先頭に占位する。いつ何処から雷撃されるか分からない恐怖の中、見張り員は極度に神経を尖らせて海上を凝視する。13時3分、350度方向に潜水艦らしき音を探知し、早霜が爆雷を投下。13時9分に潜望鏡が確認され、全艦緊急右45度一斉回頭を行う。4分後に今度は230度方向に潜望鏡が確認され、左45度一斉回頭。13時34分、能代から水偵が発進。対潜哨戒を行ったのち、サンセホ基地に向かった。15時40分、栗田艦隊はミンドロ島西方沖で漂泊。撃沈された愛宕や摩耶の生存者を大和や武蔵に移乗させ、16時25分に作業完了。戦艦大和が旗艦となった。18時42分に日没を迎える。夜は潜水艦の時間だった。聴音器が上手く機能しない時間帯であり、見張り員だけでなく総員が漆黒の海を監視する。22時15分と22時50分の2回に渡り、能代は敵潜水艦の交信らしきものを極めて明瞭に探知。栗田艦隊が敵潜に監視されている事を如実に物語っていた。日付が変わる頃、ミンドロ海峡の北西の入り口付近に到達。
10月24日午前2時、艦隊の前方にミンドロ島の山々が姿を現した。日の出を迎えた時、第1遊撃部隊の敵に航空機が加わった。ここから先は敵空母の空襲圏内である。早くも午前7時30分頃には敵触接機の気配が感じられた。午前7時59分、空襲に備えて輪形陣に整形。前方を島風に、後方を戦艦大和に挟まれる形となった。その後、タブラス海峡にて3機のPB4Y-2が出現。午前8時28分には敵艦上機数機も出現し、空襲は避けられない事態となった。午前8時47分、能代から艦載機が発進。フィリピン東方海域の索敵を実施した。午前9時30分頃からB-24が触接してくるようになった。午前9時55分、能代は90度方向に潜望鏡を発見し、艦隊は左45度の一斉回頭を行った。午前10時4分頃、能代の電探が90度方向110km先に敵攻撃隊らしき編隊を探知。続いて大和が130度方向85km先に敵機を探知し、同方向より飛来する艦上機6~9機を羽黒が発見した。敵攻撃隊の第一波で、戦闘機21機、急降下爆撃機12機、雷撃機12機の計45機で構成されていた。敵機は編隊を崩す事無く距離2万mまで接近してくると三群に分かれ、太陽を背に襲い掛かってきた。シブヤン海海戦の始まりである。
巨艦が沈んだシブヤン海海戦
大和や長門の長距離砲撃を突破した敵機は第1遊撃部隊に突撃し、能代には爆撃機と雷撃機30機が襲い掛かる。速力を24ノットに上げて主砲・高角砲・機銃が火を噴く。戦艦大和、武蔵、長門、重巡妙高が集中攻撃を受け、妙高が損傷により落伍した。戦闘自体は約18分で終わり、午前10時40分頃に敵機は引き揚げていった。しかしこれは地獄の序曲に過ぎなかった。次の空襲まで約1時間半ほど間隔があったが、上空には常に触接機が飛び回って報告を打ち続けるなど気の休まる暇が無かった。
午前11時33分、能代は170度方向より迫る雷跡を発見して通報。艦隊は緊急左45度一斉回頭を行う。アメリカ軍側の資料によると近くに潜水艦はいなかったという。午後12時6分、第二波攻撃の28機が襲来。この空襲は約8分で終わり、大和と武蔵に攻撃が集中した影響で能代の被害は皆無だった。13時19分、艦爆約50機からなる第三波が出現。多くの攻撃を吸収した武蔵の艦首が陥没し、艦隊から落伍し始める。14時18分に第四波の18機が現れ、更に別方向から13機が突撃してきた。空襲は14時40分頃に終了したが、僅か15分後に第五波攻撃が行われ、左後方から敵艦爆30機が接近。敵機の数は徐々に増え始め、本日最大規模の空襲が始まった。利根、長門、清霜が続々と損傷し、武蔵はトドメと言わんばかりの猛攻を浴びて大破状態に追いやられた。能代は零式弾120発、8cm高角砲210発、機銃1800発を発射し、撃墜確実3機、不確実2機、協同撃墜7機の戦果を挙げた。損害は乗員2名が死亡、4名が負傷、舷外電路1本切断。
5回に及ぶ空襲で延べ250機に襲われ、あたかも自艦隊のみが集中攻撃を受けているかのような猛攻に切り札的存在の戦艦武蔵は死の淵を彷徨っている。加えて日没の18時12分まではまだ時間が残っており、このまま空襲を受け続ければ更なる被害を招きかねない。第五波攻撃が終わった15時30分、栗田中将は左に一斉回頭して針路290度にするよう下令。輪形陣のまま290度回頭を行い、18ノットで西方に退避。この行動は効果的だったようで、ハルゼー艦隊は栗田艦隊に壊滅的打撃を与えたと判断。北東方向に現れた囮の小沢艦隊へと向かっていった。栗田艦隊は迂回路のマスバテ海峡を通ってレイテ湾を目指そうとしたが、このルートでは到着予定時刻に5時間の遅れが生じ、レイテ湾口スルアン水道の手前60海里で夜明けを迎えてしまって熾烈な空襲を受ける羽目になる。仕方なく当初の予定通りサンベルナルジノ海峡を突破する事にし、17時15分に120度反転。20時30分にサンベルナルジノ海峡へ差し掛かった。この時点で栗田艦隊の戦力は戦艦4隻、重巡6隻、軽巡2隻、駆逐艦11隻にまで減少していた。実に16隻が脱落している事になる。
乱戦のサマール沖海戦
最も危険なサンベルナルジノ海峡に敵艦の姿は無く、翌25日午前1時55分に海峡を通過して太平洋に進出した。サマール島の東岸に沿って南下し、午前4時に針路150度に変更。午前11時のレイテ湾突入を目指す。空が白み始めた午前6時25分、旗艦大和の電探が前方50kmに敵機を捕捉。午前6時39分、能代と鳥海が同時に左90度方向に飛行機を探知する。直後、第7戦隊旗艦の熊野が110度方向に米軍機2機を発見して通報。対空戦闘に備えて輪形陣を組もうとしたが、その矢先の午前6時45分、南東方向35kmの水平線上にマスト数本が発見された。当初は小沢艦隊の戦艦伊勢と日向かと思われたが、距離が縮まるにつれ艦載機を発進させている敵空母だと判明。栗田中将は「戦艦戦隊、巡洋艦戦隊進撃せよ」と命令を下した。敵は快速空母だろうから隊形を整える時間を惜しんで、各艦ばらばらに敵艦隊に突入した。敵の正体は第4任務群第3集団(タフィ3)で、護衛空母6隻と駆逐艦7隻からなる支援艦隊であった。午前6時58分、戦艦大和が東南東31km先のタフィ3に先制砲撃を仕掛けた事でサマール沖海戦が生起する。
思わぬ襲撃を受けたタフィ3の護衛空母群は退避を開始し、駆逐艦が煙幕を張って援護する。敵護衛空母は逃げながらも95機の艦載機を放ち、更に近隣のタフィ1とタフィ2から艦載機を呼び寄せ、100機以上の敵機が上空を乱舞。散発的ながら執拗な空襲を仕掛けてきた。第2水雷戦隊は敵空母と同等の速力こそ持っているが主力は魚雷であり、よほど接近しなければ真価を発揮できないと考えた栗田中将は午前7時、戦艦戦隊の後方に続航するよう命じた。このため敵艦と交戦する機会に恵まれなかった。午前7時14分、70度方向約18.5kmに敵駆逐艦が発砲するのを認め、6分後に針路90度に変針して敵艦のもとに向かった。午前7時30分、距離1万7000mで敵駆逐艦と交戦開始。3分後、右舷艦首方向に向かってきたグラマン1機を対空砲火で撃墜。その直後、スコールに飲み込まれて敵駆逐艦を見失ってしまった。午前7時43分、戦艦戦隊の後方に戻った。150度方向7.3kmにいる敵巡洋艦から雷撃を受けた能代は一旦左へ回避し、主砲射撃を加えて撃沈した(該当艦無し)。間髪入れずに栗田中将の「全軍突撃せよ」の電文が届き、戦艦部隊の後方を離れて南西方向に向かった。艦首方向6km先に敵駆逐艦3隻を発見し、7300mから射撃開始。敵艦も負けじと撃ち返してきたが、散発的で全く当たらず、逆に能代の主砲弾を命中させた。午前8時30分、180度方向に変針した時に炎上中の敵空母を視認するも、距離が遠すぎたため砲撃は控えた。午前8時33分、110度方向で同航する敵駆逐艦に対して主砲を発射。5分後、右舷側に敵10cm砲弾が直撃し、乗員1名死亡、3名が負傷する。幸い被害は軽微だったが、最大速力が32ノットに低下した。被弾直後、20度転舵して敵との距離を延伸しようとしたが、午前8時44分に敵駆逐艦が転覆沈没。標的を艦首方向の敵空母2隻に変更して速力を28ノットに上げた。午前9時、敵巡洋艦を発見して射撃開始。6分後、敵艦は大火災を起こし、午前9時13分に爆発。間を置かずに沈没した。タフィ3は護衛空母ガンビア・ベイ、駆逐艦サミュエル・ロバーツ、ホーエル、ジョンストンを喪失して海域より離脱。厳しい燃料事情から追撃は断念された。
執拗極める敵の空襲
午前9時16分、旗艦大和より北上と集結命令を受ける。各個にタフィ3へ突撃したため、栗田艦隊の艦艇は広範囲に散在している状態であり、どの艦が健在であるいは沈没しているのか把握し切れていなかった。午前9時35分、大和と合流。戦艦榛名が南方より敵機の飛来を報告し、午前10時14分に輪形陣へと整形する。午前10時20分、雷撃機と爆撃機約30機が出現して対空戦闘。第一波が引き揚げていくのと入れ替わりに第二波が出現。午前10時33分、350度方向より接近する敵雷撃機20機が編隊を解いて襲い掛かってくる。今回の攻撃では大和と長門に加え、能代、榛名、鈴谷も主目標にされた。敵機から投下された魚雷2本が能代に伸びてきたため、面舵で回避。その後、炎上中の巡洋艦を発見。早川少将はボルモチア型と判断し、「270度ボルモチア型巡洋艦一を認む、空母を認めず」と栗田中将に電話報告を行った。金剛からも同様の報告が寄せられ、榛名が迎撃に向かう事になったのだが、その正体は鈴谷であった。誤認によって危うく味方艦を攻撃するところだった。
敵機を退けた第1遊撃部隊は、再びレイテ湾を目指して進撃。しかし先のサマール沖海戦で鳥海と筑摩が落伍、熊野が艦首大破の損害が生じていた。熊野は自力航行可能だったのでコロン湾に向かわせ、鳥海には藤波を、筑摩には野分を警備艦として派遣し、海域に置いていく事となった。午前11時1分、重巡鈴谷が爆沈する様子を目撃。至近弾によって生じた火災が魚雷に誘爆してしまったようだ。栗田艦隊の数は23隻から16隻に減少。出撃時の半分以下になってしまった。9分後、210度方向41km先に機影を探知するも、正体は味方の一式陸攻であった。午後12時17分、タフィ2の敵艦上機約50機が雲間より出現。主砲で迎撃し始めたその直後、艦首方向に急降下爆撃してくる敵機を確認し、機銃と高角砲が火を噴く。至近弾数十発を受け、後部機械室に5mの破孔が生じ、左舷の船体の一部が屈折して海水が流入。摩擦熱により左舷外軸が使用不能に陥った。
午後12時45分、栗田中将はレイテ湾突入を諦めて反転を下令。突入が遅れた事で敵輸送船団がいないと思われた事、付近に敵機動部隊が潜んでいる可能性を捨て切れなかった事が理由とされる。13時10分、艦隊は反転して帰路についた。その1分後、北東より接近する100機の機影を探知し、続けざまに空襲が行われた。敵機の襲来は執拗を極め、能代は傷ついた船体で応戦し続けた。
15時49分、長門の210度30km先に敵機を探知。15時55分より対空戦闘を行う。355度方向から急降下して突っ込んできた2機を対空砲火で迎え撃ち、1機を撃墜して追い払った。16時16分に空襲が終わると同時に、九九式艦爆と零戦からなる60機以上の味方機が北方の空を飛んでいるのが発見された。第6基地航空隊の総攻撃部隊で、サンベルナルジノ海峡東方の敵艦隊を攻撃するために早朝クラーク飛行場から飛び立ったのだった。空襲を受けた直後だったため一時は敵の編隊かと思われたが、味方だと分かると艦隊に生気が蘇った。今次作戦中、初めて目にする味方の大部隊に士気が上がった。味方機を見送った直後の16時40分、艦爆と艦攻からなる敵機40機が出現。16時43分、180度方向より敵機4機が突撃、至近弾1発を受けるも反撃で1機に白煙を引かせた。14分後、今度は艦首から6機が現れ、高角砲と機銃で2機に命中弾を与えて煙を吐かせる。今回の空襲で駆逐艦早霜が被弾落伍した他、2機の九九式艦爆が味方艦を誤爆する様子が目撃された。報告を受けた栗田中将が基地航空隊に誤爆を受けた旨の電報を送った。17時6分、空襲は終わった。17時44分、左舷上空を西進する九九式艦爆32機を発見。大和が発光信号で攻撃したかを尋ねると、「敵を発見せず」と返ってきた。
18時43分、日没に伴って灯火管制。永遠に続くかに思えた敵機の襲撃は終わり、この日だけで栗田艦隊は延べ487機から攻撃を受けていた。21時35分、サンベルナルジノ海峡に到達し、敵艦との遭遇に備えて総員戦闘配置につく。間もなく190度方向に潜水艦音を探知、爆雷2個を投下する。
最期の時
10月26日午前未明、パナイ島沖タブラス海峡北口に到達。日の出に伴って午前6時57分に灯火管制を解いた。午前8時35分、スールー海にて264機の敵機が出現して対空戦闘。能代は輪形陣の先頭にいたため、西方からの攻撃を最も受けやすい状況にあった。午前8時46分、艦首方向から敵機4機が急降下し、高角砲弾薬供給所に直撃弾1発を喰らって小規模火災発生が発生するも迅速な対処により鎮火に成功。しかし間髪入れずに左舷から6機の雷撃機が迫り、放たれた6本の魚雷を全て回避。午前8時52分、後続の雷撃機から放たれた3本の魚雷が左舷艦尾方向から伸びてきて、2本目までは回避したが、最後の1本をかわし切れず左舷中部に直撃して大破。この一撃により炉内レンガが崩壊してしまい、生じた破孔から海水が流入して第1及び第3缶室がたちまち満水、他の缶室も浸水し始めた。午前9時10分に空襲が一旦止まり、その隙を突いて乗組員は応急修理と復元に奔走。左へ16度傾斜したため、右舷前部機械室に注水しつつ第2内火艇や左舷錨や錨鎖といった重量物を投棄。8度まで傾斜を回復させる。航行不能となった能代は漂流し、本隊から落伍しつつあった。栗田中将は護衛に駆逐艦浜波を残し、ポートプリンセサへの曳航を命じた。午前10時30分に被曳航準備を完了、あとは浜波に曳航してもらうだけだった。
午前10時31分、敵の第二波が襲来。本隊から落伍して北方で孤立している能代に敵機20機以上が群がり、回避運動が一切取れない能代を痛めつける。至近弾多数と雷撃を受けるが、魚雷は外れて左舷側を通過した。午前10時39分に2番砲塔右舷側に直撃弾2発と魚雷1本を喰らい、前部弾薬庫へ注水。誘爆の危険を排除したが、この注水により艦橋から前の全区画が水で満たされ、その影響で艦首が沈没してしまう。艦としては瀕死の状態になる能代だったが、最期の力を振り絞って6機の敵機を撃墜し、敵の撃退に成功した。午前10時46分、次第に前甲板が沈下。上甲板が波で洗われるようになる。傾斜は深まり続け、午前10時51分には左舷上甲板と海面が同じ高さになる。もはやこれまでと判断した梶原艦長は総員上甲板を下令。艦後部に乗組員が整列する中、午前11時5分に軍艦旗と将旗を降下。乗組員一同が涙を流しながら君が代を斉唱する。嗚咽混じりに歌われる国歌は、死にゆく能代に手向けられた鎮魂歌のように聞こえた。それが終わると総員退艦が命じられ、海水に飛び込んで急いで艦から離れる。やがて能代は逆立ち状態となり、4本のスクリューを天に掲げた。南海の太陽がスクリューに反射して輝く様子は、能代が流した涙の雫のようにも見える。乗組員たちに看取られながら、午前11時13分に海中へと沈んでいった。
待機していた駆逐艦浜波が乗員の救助を開始し、また早霜の護衛から本隊に合流する途中だった秋霜が偶然通りがかり、救助を手伝ってくれた。ところが上空に敵機数機が出現し、急降下爆撃を仕掛けてきたため2隻は作業を中断。浮き輪代わりになりそうな弾薬箱を投下して退避した。取り残された海面の乗組員には容赦なく機銃掃射が浴びせられ、海は鮮血に染まった。敵機が引き揚げていくと浜波と秋霜が戻ってきて、13時過ぎまで救助を行った。乗組員82名が死亡し、梶原艦長以下約300名が浜波に、328名が秋霜に収容。浜波が第2水雷戦隊の臨時旗艦を務めた。
1944年12月20日、除籍。総合戦果は敵機12機撃墜、8機協同撃墜。
関連項目
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