3DO(スリーディーオーまたはスリーディオ)とは、かつて存在したマルチメディア端末規格である。
概要
元はエレクトロニック・アーツ(EA)社の会長(当時)だったトリップ・ホーキンスのアイデアで、これを知った松下電器産業とホーキンスが提携して3DO社を設立し、ここで3DO規格が開発された。
「3DO」の「3D」は3次元(3 Dimension)、そして、オーディオ(Audio)やビデオ(Video)のように一般的なものになるように願って、両者に共通する最後の一文字「O」をつけた、という。
3DOは、言ってみればマルチメディアの「VHS」を作るという目論見であった。[1]しかし、3DO規格に対応した端末は1993年以降に数社から発売されたものの、普及させることはできなかった。
歴史
3DO社
元々はEAのベンチャー事業部門だったが、1991年に独立会社として切り離された。ホーキンス自身が率いたこの会社は後に社名を3DOとし、松下電器産業やタイム・ワーナー、他数社が出資した。3DO社はオープン・アーキテクチャを開発し、OSを他のメーカーにライセンス供与して製品を作らせるというスタイルで、ソフト会社を引き付けるための技術支援と、タイム・ワーナー所有の映画、出版物、音楽への無料アクセスの提供、ロイヤリティは3ドルに抑え、また、マシンが代替わりしても(既存のゲームコンソールやPCと違い)ソフトの互換性はずっと維持する…と発表した。[2]
端末
3DO規格の最初の端末「REAL 3DO インタラクティブ マルチプレイヤー」は、1993年にアメリカにおいてパナソニックから699ドル(ソフトが3本付属)で発売された。
日本では1994年3月20日にパナソニックから3DO REALがスプライトや動画再生能力を持つ32bitゲーム機の先駆けとして発売。三洋電機からも3DO TRYが同年10月1日に発売された。端末を製造するメーカーはロイヤリティが入るわけではないので赤字で販売するわけにはいかず、両機とも発売時の定価は54,800円とかなりの高額であった。
セガサターンやプレイステーションなど他社が32ビット機を発売する直前の1994年11月11日に、松下電器産業は3DO REALIIを44800円で発売した。
ソフトウェア
- 初期のラインナップの数は申し分なかったが、輸入ものが多く、ハードが5万円以上ということで普及ペースは鈍かった。
- ただ、注目作は少なくはない。
- セガサターンの発売前週の1994年11月13日に、それまで国内のコンシューマソフトとしては発売がなかった同社の業務用ヒットタイトル、「スーパーストリートファイターII X」の発売。なんとファミ通の週間TOP30でトップを獲得した。
- 2013年2月に42歳の若さで亡くなった、ゲームクリエイター飯野賢治氏率いるワープが3DOに注力して開発し、その中では特に「Dの食卓」はその斬新さが受けた。ワープは、3DOの次世代機にあたるM2向けにも唯一制作に手を挙げた。のちの劇団ひとりの先駆けである。
- もう一人3DOを気に入っていたといわれているゲームクリエイターの一人として、コナミの小島秀夫があげられる。PC版のヒット作「ポリスノーツ」を、家庭用ゲーム機として初めて3DOに移植。そして秘話として、「メタルギアソリッド」を3DO向けに制作していたことを、小島氏が同氏司会のインターネットラジオで発言。ただ、阪神・淡路大震災で当時のコナミ神戸本社が被災したため開発が遅れ、そのうちに松下電器が3DOから撤退したため、プレイステーションでの発売となった。
- 別にが口癖の元夫の、ハイパーメディア・クリエイターの高城剛氏も3DOソフト制作を手掛けていた。
M2
3DO端末の売れ行きは芳しくなかったが、松下電器は諦めず、3DO社が新たに開発した「M2」の独占使用権を1995年10月に3DO社から1億ドル(約100億円)で買い取り、M2を採用した後継機の開発を計画した。しかし後継機の発売は何度も延期され、結局1997年に松下電器は家庭用事業からの撤退を表明、保有していた3DO社の株式については3DO社に無償譲渡した。[3]
その後3DO社はセガサターンやプレイステーション、PC用のソフトを開発、発売していたが、2003年5月に連邦倒産法第11章を申請し倒産している。
関連動画
関連商品
関連項目
脚注
- *電視遊戯館34「次世代ゲームマシンがもたらすもの」三浦明彦 よむ[yom] 1994年2月号 岩波書店
- *「技術とイノベーションの戦略的マネジメント (上)」翔泳社 2007 p.80
- *「特集 松下の見えざる危機--「神様」を超えられぬ人々」日経ビジネス 1997年8月25日号
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