F4Uとは、以下のことを表す。
- 第二次世界大戦中、1942年よりアメリカ合衆国が運用した艦上戦闘機。アイドルマスターやペルソナ4と名前が似ていることで時折ネタにされるという奇妙な経歴を今なお生み続けている。愛称は海賊を表す「コルセア」。開発元はチャンス・ヴォート社。
- 日本の漫画家。
概要
1938年に、F4UはF2A(慢心して零戦にフルボッコにされた子)やF4Fワイルドキャットなどの後継機として開発が開始された。初飛行は1940年、42年から正式に運用され始めている。
F4U最大の特徴と言えば、なんといっても主翼だろう。一目でそれとわかるほどに大きく曲がった逆ガル翼である。
逆ガル翼自体は例えば日本の流星や烈風でも採用されていたが、F4Uの角度はその比ではなく、ドイツのJu87スツーカと並び逆ガル翼採用機の代表的存在として著名な機体である。
そういった設計になった理由は、大出力を得つつ艦上戦闘機としての運用をするためであった。
空母で運用される艦上機は陸上のそれと異なり、様々な要求をクリアしなければならない。短い滑走距離での離着艦、失速速度の低さ、小型軽量でなおかつ頑丈であること……といろいろである。
とりわけ、頑丈さは降着装置に求められた。空母への着艦の際には、フックとワイヤーによって航空機を制止させるのだが、すなわち航空機は後ろ下方へ引っ張られることになり、飛行甲板に強く叩きつけられる形となる。これに耐える強度を持った降着装置が必要、というわけである。
で、着陸脚は同じ太さなら長いより短い方が当然折れにくい。短く細く済ませることができれば、機体の軽量化にも繋がる。よって、できるだけ短い脚で済めば良いのであるが……F4Uはプロペラ直径が大きかった。
プロペラ直径は大きい方がエンジン出力をうまく引き出せる。しかし当然、脚を短くして姿勢を低くしてしまうと、プロペラが飛行甲板に当たってしまう。なんとか機体の位置は高く置いたまま、脚を短くしなければならない……そうして生まれたのが、あの大胆な逆ガル翼である。
こうして、F4Uコルセアは完成したのだが……実際に飛ばしてみるとやっぱり空母への着艦は難しかった。
頑張って稼いだところでやはりプロペラを擦る危険性は高く、また前方視界がかなり悪かったこともあり、空母での運用は不可能とみられ、後継機はF6Fヘルキャットとなり、F4Uは陸上機に回された。そして1943年2月14日に大日本帝国海軍機と初めて戦火を交えるが、このデビュー戦では零戦にフルボッコにされてしまい「セントバレンタインデーの虐殺」とまで言われる始末となってしまった。
しかしF4Uはそこで終わる女ではなかった。後期型F4U-1が開発され、空母への着艦が容易化されたのである。
純粋に空母からの運用が可能となり、戦闘機、また戦闘爆撃機としても活躍した。対する日本軍はベテランパイロットを失い零戦は時代遅れの機体となり、キルレシオはF4U側に大きく傾いた。
とはいえ運動性や上昇性能に難があったF4Uは日本軍に対してF6Fほどの脅威ではなく、キルレシオも日本軍に対しては圧倒していたものの、F6Fには数値的に後塵を拝している。
戦後
大戦後期からはジェット戦闘機の台頭がみられるようになるが、まだ運用には設備が整い切れておらず、F4Uは戦後も生産・運用が続けられた。朝鮮戦争などでも活躍し、米軍初のMig-15撃墜記録があるという。
末期にはアメリカ同盟国へ供与されていったが、異動先のホンジュラス空軍にてF4Uはエルサルバドル空軍のP-51と交戦した。これがレシプロ戦闘機同士による最後の空中戦である。
そしてフェルナンド・ソト・エリンケス大尉の操るF4UはP-51を2機撃墜。F4Uはレシプロ戦闘機同士の戦闘における最後の勝者となった。
艦上戦闘機として失格の烙印を押され、零戦にタコ殴りにされたところから始まったF4Uの歩みは、最後の最後で最大の輝きを放って幕を閉じたのであった。イイハナシダナー
現存機など
独特のフォルムからフィクションでもちょこちょこ出て来るが、P-51や零戦と比べるといささか影が薄い印象はある。もっとも、この2機種は大戦後期と前期の世界最高水準なので比べるのは可哀そうとも言えるが……
関連作品
動画
あんまりないんだな、それが。
静画
関連商品
関連コミュニティ
関連項目
- 2
- 0pt

