U-534とは、第二次世界大戦中にドイツ海軍が建造・運用したIXC/40型Uボートの1隻である。1942年12月23日竣工。対空砲火でイギリス軍機2機を撃墜した。敗戦直前の1945年5月5日、カテカット海峡で航空攻撃を受けて沈没。1993年8月23日に引き揚げられ、2009年2月10日より博物館船となる。地球上に現存する4隻のUボートのうちの1隻。
概要
IXC/40型とは、長距離航洋型であるIXC型の航続距離を更に延伸した改良タイプである。
U-534はドイツ海軍最高の性能を誇る37mm連装機銃を2基装備して対空能力の向上が図られており、実際敵機2機を撃墜している。右舷の推進軸上方には敵のソナーを欺くためのボールド装置を搭載。水素化カルシウムと海水の化学反応により大量の泡を作り出して囮とする。
現存するUボートの1隻で、イギリスにて展示されている。形が完全に残っているU-995と違って輪切りにされていたり、艦内見学が出来ないが(中身は見られる)、今でもその姿を現世に留めている。
会いに行けるUボート
1941年4月10日、ホヴァルツヴェルケ=ドイツ造船のハンブルク造船所に発注し、ヤード番号352の仮称が与えられる。1942年2月20日に起工、9月23日に進水し、12月23日に竣工した。初代艦長にハーバード・ノラウ中尉が着任し、訓練部隊の第4潜水隊群へ編入。バルト海で慣熟訓練を行いながらT5音響魚雷のテストを実施した。
1944年4月27日にキールを出港。翌28日にドイツ占領下ノルウェーのクリスチャンサンに寄港して燃料補給。4月30日に出港するも、濃霧に阻まれてエーゲルスンに退避。5月1日にエーゲルスンを発ち、ベルゲンへ寄港して機関の修理を行い、5月8日に最初の戦闘航海へと出撃。Uボートが大西洋へ抜けるために使うルートであるアイスランド・フェロー諸島間の海域を通過して北大西洋へ進出した後、グリーンランド南東沖でU-853やU-857とともに気象観測任務に就く。北大西洋特有の荒天と漏油に悩まされながらも任務を完遂し、フランス方面に向かう。だが連合軍のノルマンディー上陸により既にフランス方面にも戦火が及んでおり、8月初旬にはブルターニュ半島を南下するアメリカ軍が確認されたため、デーニッツ提督は連合軍から遠いラ・パリスとボルドーに向かうよう命じた。8月11日、敵機の襲撃を受けたが無傷で逃走に成功。安心したのも束の間、8月13日にU-857とU-437ともども2機のハリファックス爆撃機に襲撃される。強烈な対空砲火で反撃して敵機に大損害を与え、何とか同日中にボルドーへ入港。
U-534がボルドーに入港した頃、戦況は更に悪化していた。遂にアメリカ軍がブレストやロリアンの外郭部分にまで到達し、デーニッツ提督はフランス方面のUボートにノルウェーへ脱出するよう命令。連合軍の海上封鎖を突破できる確率を少しでも高めようと、8月14日から24日にかけて造船所で急ぎシュノーケルの搭載工事を実施。時間短縮のため固定シュノーケルのみを装備し、シリンダーライナーの一部を交換。試験潜航など望むべくも無かった。ちなみにこの時装備したシュノーケルは新品ではなく、自沈処分が決まっているU-178のお下がりであった。8月25日正午、ボルドーが占領される寸前に6番Uボートブンカーを出て、U-857とともに15時6分にイル・ヴェルデ北端に投錨。
8月26日朝にボルドーを出港し、ノルウェーへの絶望的な逃避行を始める。23時50分、ビスケー湾でシュノーケル潜航を試したが、ぶっつけ本番だった事が祟って排気ガスが艦内に漏れて数人の乗組員が倒れてしまった。10分後、耐え切れなくなって浮上。翌27日午前0時8分、英第172飛行隊所属のウェリントン爆撃機に捕捉され、リー・ライトの照射を受ける。勝負は一瞬だった。ウェリントンから投下された4発の爆弾は後方100mで炸裂、U-534から放たれた対空射撃は正確にウェリントンの急所を貫いて撃墜する。パイロット6名のうち4名は炎上する機体から脱出、そのうち1名は負傷が原因で死亡した。午前0時10分に再度シュノーケル潜航を行うが、やはり使用に耐えない欠陥品だったため、たびたび浮上を強いられる。8月29日午前0時4分、またシュノーケルが故障したため浮上。バッテリー充電中の午前1時32分にナクソスレーダーが両舷より接近する敵機を捕捉したため急速潜航する。結局充電が殆ど出来なかったため、その日は海中で停止した。今やビスケー湾は連合軍に制空権を握られており、いつ襲撃を受けるか分からない。日中は潜航して過ごし、夜間のみ浮上する。
9月2日午前2時52分、浮上してみると明るい月が出迎えてくれた。久々にゆっくりとバッテリーの充電を行い、夜明け前の午前5時45分に潜航した。9月4日午前11時30分と57分、潜航中に爆発音が響く。U-534を狙ったものかは不明。9月6日午前2時26分、ようやくビスケー湾の外に出られたと思いきや、午前2時42ンにナクソスレーダーが右舷からの反応を探知して潜航退避。午前3時47分に浮上するも、再びナクソスが反応して7分後に潜航退避。バッテリーの残量が少なくなってしまったため1日海中で停止した。16時15分、4回の爆発音を探知。9月7日午前1時37分、右舷側から敵機の接近を探知し、急速潜航。午前2時12分に3発の爆雷が投下された。正午に浮上するが、その日は更に11発の爆雷を投下を受けている。
北大西洋に出た後はシュノーケルを徹底的に修理し、何とか使えるレベルにまで改善。イギリス本国を大きく西へ迂回して北上していく。イギリス軍はアイスランド・フェロー諸島間を厳重に封鎖していたが、シュノーケルのおかげで発見される事無く突破。10月24日、61日の航海を経てクリスチャンサンに入港。フランスからの脱出に成功した22隻のUボートの1隻となった。翌日クリスチャンサンを出港、10月28日にフレンスブルクへ回航された後、11月1日に第33潜水隊群に転属するとともにフレンスブルクを出港し、11月4日にシュテッティンへ回航。造船所でシュノーケルの大規模な修理と船体のオーバーホールを受ける。
ドイツの敗色が濃くなった1945年4月28日、東から押し寄せるソ連軍から退避するべくシュテッティンを脱出。翌29日にキールへ入港する。連合軍との交渉の切り札とするため戦闘可能なUボートはノルウェーへの退避を命じられ、5月1日にU-534もノルウェーに向けて出発。翌日エルシノアに寄港し、5月5日に出港。
最期
1945年5月5日早朝、ヒトラー総統自殺後に大統領の座に就いたデーニッツ提督が停戦命令を出す。しかしノラウ艦長は停戦に反発。この停戦命令が56度線以南で有効になっている事を知り、戦闘を継続しようとU-3253、U-3503とともにエルシノアを出港して北上する。
道中でイギリス軍のB-24爆撃機2機に発見されて3隻は攻撃を受ける。ちょうどU-534がいるガデカット海峡は浅瀬で潜航できず、対空機銃で応戦。アンホルト北東でB-24に命中弾を与えて5.6km先に機体が墜落。パイロットは全員死亡した。だがU-534も激しい攻撃を受け、9発の爆雷を回避したが、遂に避け切れす直撃弾を喰らって機関室が浸水し、沈没。乗組員52名中49名が脱出に成功して生き残った。このうち5名は魚雷室に閉じ込められていたが、着底したのが浅瀬だった事が幸いして前部魚雷装填ハッチから脱出、水深67mからの生還を果たす。ところが17歳の無線通信士ヨーゼフ・ノイドルファーは浮上後に肺を損傷して死亡している。
何故ノラウ艦長が降伏を拒んだのかは明かされておらず、1968年に自殺をした事で真相は闇に隠された。ただU-534は当時38本しか生産されていない最新型のT11音響魚雷を3本保有しており、連合軍の手に渡したくなかったのだと当時の乗組員は回想している。何故U-534がそのような新型を持っていたのかは現在でも謎に包まれている。
戦後
沈没から41年が経過した1986年、デンマーク人の沈没船ハンターことオーゲ・イェンセンが海底に横たわるU-534の残骸を発見。デンマークのメディアはナチスが遺した金塊の噂をしきりに流した事で引き揚げる事となり、1993年にメディア富豪のカーステン・リーがスポンサーとなってU-534は引き揚げられた。しかし艦内には金塊は勿論、特筆すべき物は何も無かった。
もう一度沈める訳にはいかないので1996年にイギリスのバーケンヘッドに移送。博物館船として展示された。2006年2月5日に博物館が破産で閉鎖されたため、2007年6月27日にマージートラベル運輸局がU-534を買い取り、10月に必要な承認を取り付けてウッドサイド・フェリー・ターミナルへ移動させる事に。輸送を容易にするのと技術的な問題で2008年2月6日から船体をワイヤーカッターで切断。約1ヶ月かけて5つに輪切りにする。無事輸送を終えた後は2つを溶接して4つのブロックに分けた。2009年2月10日より「Uボートストーリー」の名で展示再開。艦内は見学禁止だが中身が見えるよう断面図が向けられている。2021年10月24日、U-534の所有権をリヴァプールのウェスタンアプローチ博物館の運営団体に移譲。
かつてのドイツ海軍の栄光を後の世に示すU-534は今日も体を張って展示されている。
関連項目
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