U-995とは、第二次世界大戦中にドイツ海軍が建造・運用したVIIC/41型Uボートの1隻である。1943年9月16日竣工。通商破壊で6隻撃沈(9474トン)の戦果を挙げた。1945年5月8日にイギリスへ降伏した後、1948年10月にノルウェーが購入し、1952年12月よりカウラの名で再就役。1965年に退役した後は西ドイツに売却され、1971年10月から現在に至るまでラーボエ海軍記念館の博物館船となって展示されている。
概要
U-995が属するVIIC/41型とは、最も量産されたVIIC型に改良を加えたタイプである。巧妙化するイギリス海軍の対潜水艦戦術に対抗するため1941年に設計・計画された。1945年1月までに計74隻量産。
艦内装備を一新して軽量化を図り、浮いた分を耐圧船殻の強化に充てて安全潜航深度を100mから120mに向上、これにより爆雷攻撃から逃れやすくしている。いざという時は250~300mまで潜る事が可能。また水上速力強化と艦首を130mm延伸してアトランテクステブン(大西洋艦首)とし、凌波性を改良した事で目標捕捉力も向上させた。U-995はVIIC/41型でありながら、重すぎて装備出来なかったIX型の37mm Flak M42U砲とFlak38 20mm連装機関砲を搭載しており、対空能力の強化も施されている。
要目は排水量769トン、全長66.5m、全幅6.2m、喫水4.74m、最大速力17ノット(水上)/7.6ノット(水中)、燃料搭載量113.5トン、急速潜航秒時30秒、乗組員44名。
会いに行けるUボート
1941年10月14日、ブロム&フォス社のハンブルク造船所に発注される。
1942年11月25日にヤード番号195の仮称を与えられて起工、1943年7月22日に進水し、同年9月16日に竣工。初代艦長にヴァルター・ケーントップ中尉が着任。第5潜水隊群に編入して慣熟訓練を行う。
1944年
1944年4月25日、キールを出港してドイツ占領下のノルウェー方面に向かい、4月27日にクリスチャンサンに寄港。燃料と真水の補給を行う。翌日出港してフレッケフィヨルドに寄港した後、しばらく救命艇として活動する。5月16日にフレッケフィヨルドを出発して同日中にベルゲンに入港。
5月18日、ベルゲンを出港してノルウェー海での通商破壊を開始するが、5月21日にカナダ軍のサンダーランド飛行艇の奇襲及び銃撃を受けて5名の乗組員が負傷、船体にも損傷が発生。やむなく戦闘航海を中止して引き返し、何とか5月23日にトロンヘイムへ入港。現地で修理を受けたのち、6月30日にトロンヘイムを出発して7月1日にノルウェー北端のナルヴィクへ移動した。この日、トロンヘイムに本拠を置く第13潜水隊群へ転属。
7月3日、ナルヴィクを出撃して最初の戦闘航海に赴く。北極海を狩り場に連合軍の輸送船団を捜索していた7月21日午前0時19分、哨戒中のB-24に発見される。敵機から銃撃を受けるも、U-995側も正確かつ激しい対空射撃で反撃し、回避運動を強いる。B-24が上空を航過したのを見計らって急速潜航を開始。海中に没してから約10秒後にB-24から渦巻く地点に向けて6発の爆雷が投下され、やがて小さな油膜が海面に漂い始めた。B-24はソノブイを投下して海中の様子を探ったが何も聴音出来なかったため撃沈と判断。そのまま引き上げていったが、U-995は健在だった。戦闘哨戒を続けていた7月26日、無線アンテナに不具合が発生して潜航に支障が生じたため帰投を余儀なくされる。7月28日、ナルヴィクに帰投。8月2日にトロンヘイムへ移動してUボートブンカーに身を隠した。8月24日から26日までトロムソで機雷を積載し、ハンメルフェストに移動。
8月29日、ハンメルフェストを出港。北海方面へと向かってペコラ海に機雷12発を敷設する任務に従事。続いて9月1日から5日まで6隻からなるウルフパック「ダックス」に所属する。9月11日にハンメルフェストへ帰投。
9月25日、ナルヴィクからレディンゲンへ移動。現地でドイツ空軍のパイロットを収容し、ハーシュタでパイロットと食糧を揚陸。翌26日から10月1日までウルフパック「ゾーン」に所属して連合軍の輸送船団を捜索するが何ら戦果を挙げる事無く、10月3日にスクヨメンフィヨルドに帰投。10月9日、乗組員からの告発でケーントップ艦長が更迭される。先の戦闘航海中に輸送船団を発見したのだが、ケーントップ艦長は警戒厳重で攻撃は不可能だと判断。これが原因で臆病だと乗組員に思われて告発されたのだった。その後、彼は軍法会議にかけられそうになるも、妻がフォン・フリーデブルク提督に懇願した事で何とか回避。10月10日、21歳のハンス・ゲオルグ・ヘス少尉が二代目艦長に着任。
10月14日、スクヨメンフィヨルドを出港。U-310やU-968とともに進撃する。10月16日より21隻からなるウルフパック「パンサー」に参加し、ムルマンスクへと向かう敵船団をノルウェー海とバレンツ海で捕捉しようと試みたが失敗。戦果を挙げる事無く11月11日にハーシュタへ帰投。パイロットと食糧をラムスンドへ輸送し、ラムスンドでは魚雷を積載して同日中にナルヴィクへと運び込んだ。
11月30日、ナルヴィクを出撃してベア島西方に向かう。この戦闘航海でようやくU-995は戦果にありつく事となる。12月5日午前0時15分、ナボロック岬北方約15マイルでPK-20船団に音響魚雷を発射し、1本がソ連蒸気船プロレタリア(1123トン)の左舷に命中して炎上させる。午前2時3分に2本目の魚雷を放つも外れてしまい、午前4時16分にトドメの魚雷を命中させて30秒以内に撃沈。乗組員は救命ボートに乗って船を放棄し、凍てつく海によって乗組員21名、砲手6名、便乗の軍人2名が溺死または凍死の末路を辿った。初戦果を引っ提げ、U-995は12月9日にボウベイへ帰投する。
勢いに乗るU-995は12月11日に再び通商破壊へ赴き、18隻からなるウルフパック「トレイル」に参加。
12月21日午前6時にミスコラベルナヤパフタ付近で単独航行中のソ連小型モーター船レシテリニジ(20トン)を銃撃し、体当たりを喰らわせて転覆させた。一連の戦闘行動は海岸のソ連軍監視所に目撃されており、正午にイオカンガから出港してきた潜水艦追跡船MO-251が現場海域に到着。転覆した船体にしがみ付く3名の生存者を救助する。2名の乗員と26名の乗客が死亡。12月26日18時33分、護衛無しで航行中のソ連モーター漁船RT-52ソム(417トン)に魚雷を発射し、30秒後に命中。ただの漁船にとって魚雷はオーバーキルであり、1分以内に沈没していった。
12月29日15時15分、スヴャトジノス岬東方約15マイルにてソ連掃海艇T-883(633トン)を雷撃し、2分40秒後に命中させる。T-883は急速に沈没、船首だけが水上に出ている状態となった。このT-883はT-887や哨戒艇BO-142とともにKB-37船団が通るスヴャトジノス岬南東の海域を掃海する目的でイオカンガから来ていた。T-883は僚船の前で沈められた格好だが、何故かT-887とBO-142は生存者を救助する訳でもなくU-995を攻撃する訳もなく港へ引き揚げてしまった。攻撃から約2時間後、異常を察知したKB-37船団から哨戒艇BO-225とBO-227が派遣され、生存者を捜索したが当然手遅れで誰も見つからなかった。1945年1月7日、ナルヴィクに帰投。
1945年
1945年2月2日午前0時2分、ナルヴィクを出港してノルウェー海に向かう。午前6時56分、漂流中の機雷を発見。4分後に潜航を開始し、敵の目から逃れるため日中は潜航して過ごす。18時6分に浮上してみると海上はスノースコールに見舞われていた。2月4日午前7時10分に水深40mへ潜航、18時5分に浮上する。しかし20時に右舷排気ガス弁が閉じられない故障が発生し、内側の排気ガス弁から漏れが確認されるなどトラブル発生。2月6日午前5時42分、リバチ半島北西を通過。午前8時から午前11時27分までリバチ上空にて飛行訓練中のソ連軍の単発機3機を目撃する。
2月7日午前5時26分、リイナカマリ村付近で潜航開始。19時5分に沿岸沿いへ浮上してソ連軍占領下のキルケネス港攻撃に向かう。翌8日午前3時、レノイ島南西で潜航。海中からゆっくりとキルケネスに近づく。午前9時25分に潜望鏡深度まで浮上して港内を潜望鏡偵察。数百m以内に無線通信施設や司令部と思われる建物を確認し、ノルウェー国旗を掲げた漁船も発見した。午前10時5分、突如として爆発音が2回轟く。しかしU-995を狙った爆雷ではなく、陸上から音が聞こえていた。午前11時、船体に水路ブイの錨鎖が接触。その衝撃で海底をこすってしまい、そのまま潮流に流されてフィヨルドの西へと追い出されてしまう。GHG集音装置で状況を探ってみると漁船や小型巡視船の推進音が聞こえるだけで見つかった様子は無かった。港の中心に配置されている巡視船を掻い潜り、夕刻16時にキルケネスの北方2500mにまで脱出。15分後、潜望鏡を上げてみると石炭桟橋に停泊中の貨物船イデフィヨルドを発見し、音響魚雷2本を発射。16時35分、強力な爆発が発生してゴボコボと泡や衝撃波が押し寄せた。しかし1本目は命中しておらず、2本目は不発に終わってしまった。続いて3本目を発射して今度こそイデフィヨルドを炎上させる事に成功するが、これ以上は宵闇に包まれて目視観測が出来ず、とりあえず撃沈と判断したヘス艦長は離脱を命令。17時23分に浮上して全力で逃走する。ちなみにイデフィヨルドは沈没していなかったが、この勇敢な行動によってヘス艦長は騎士十字章が授与された。
2月9日16時、ムルマンスクの海岸に浮上して哨戒。海上は濃霧に包まれており、ソ連船に見つかって追跡を受けるたびに潜航を強いられた。2月10日午前8時から午前9時30分まで海岸を潜望鏡偵察するも発見できず、GHGによる聴音も空振りに終わる。23時、FuMB-26チュニスアンテナを修理。
3月2日13時16分、Uボートを捜索中のソ連潜水艦追跡船BO-222、BO-224、BO-226に向けて音響魚雷を発射。7分32秒後、BO-224(105トン)に命中して激しい爆発が発生し、あえなく沈没した。3月1日に第14潜水隊群へ転属。3月6日、ナルヴィクに帰投。
3月13日、最後の戦闘航海に出撃。3月17日より13隻で構成されたウルフパック「ハーゲン」に加わる。3月20日午前9時10分、ノースキルディン灯台の東方約25マイルでJW-65船団へ魚雷を発射。リバティ船ホレス・ブシュネル(7176トン)の左舷機関室に1本の魚雷が直撃し、大穴をぶち開けるとともに主甲板に亀裂が走り、船内の電源を喪失、エンジンが完全に破壊された。被雷の衝撃で見張りをしていた乗員3名が死亡。船尾部分が少し沈下して僅かに傾いたものの、船体そのものは安定しており、乗組員の退避は円滑に行われた。一方で英駆逐艦オーウェルがホレス・ブシュネルを曳航しようとしたが荒波に阻まれて前進出来ず、放棄を決断。午前11時50分に生存者はオーウェルに移乗。ムルマンスクへと向かっていった。その後、ホレス・ブシュネルをソ連が派遣した2隻のダグボートによって再度曳航。しかし座礁してしまい全損判定を受けた。3月25日、ハーシュタに帰投。翌日出港して3月28日にトロンヘイムへと回航。5月まで工事を受けてシュノーケルを装備する。
戦後
1945年5月8日のドイツ降伏時、U-995はトロンヘイムに停泊していた。艦はイギリス軍に投降したが、シュノーケルの不具合により航海不能の状態であり、ノルウェーに留まる事になった。これが功を奏してデッドライト作戦での処分を免れる。U-926やU-1202とともにノルウェーへ引き渡され、1946年にノルウェー海軍の所有となる。
そして1952年、K級潜水艦カウラの名前を与えられて再就役。ドイツ語の部分をノルウェー語に置き換え、スウェーデンが作ったバルコニー装備を艦首に搭載し、空気圧縮機を電動圧縮機に換装。ノルウェー海軍の練習潜水艦として乗組員の養成任務に励んだ。
1965年に退役。ノルウェーは和解の証として西ドイツにU-995の売却を打診。しかし財政的な問題で既にU-1202が廃棄の憂き目を見ており、このため一度は西ドイツ政府に拒否されたが、U-711元艦長の活躍により1ドイツマルクでの売却が決定。生まれ故郷へ里帰りした。ラーボエの海軍記念館に寄贈されるも当初博物館船への改装費用と維持管理費が捻出出来ず、廃棄の危機に見舞われたが、ドイツ海軍連盟が名乗りを上げた事で廃棄を免れる。まずキールの海軍工廠で不要になったパイプやケーブルを撤去し、ノルウェー語をドイツ語に置き換え、不足している機器は新たに取り付けられた。船体の数ヵ所に腐食が発生していたため新たな外板が設置される。だがVIIC型に則ったものではなく完全オリジナルだった。
1972年3月13日に海軍工廠から陸揚げされ、ラーボエの海軍記念館前に設置。U-995は人気を博し、ピーク時には年間40万人の来訪者が詰めかけた事でドイツ海軍連盟は改装と設置に掛かった費用を迅速に回収出来たという。しかし野ざらしだったため船体の各所に腐食が発生。1980年代には艦首と司令塔の劣化が急速に進み、1990年に入ると竜骨が曲がる危険性も出たため新たな竜骨が溶接された。やがて司令塔も新しい物に交換されたが、その際に多くの部品が行方不明になってしまい詳細が分からなくなった。2014年に大規模な補修工事を実施。今回の補修はなるべくVIIC型の設計に寄せたものになっている。
2019年9月28日、ドイツ海軍連盟内部に「U-995」という同志サークルが発足。紛失や盗難で失われた部品を調達して元の姿に近づけようと考えているようだ。現在、かつてのドイツ海軍の栄光を宿しながらU-995は今もなおラーボエで展示されている。
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