U-178とは、第二次世界大戦中にドイツ海軍が建造・運用したIXD2型Uボートの1隻である。1942年2月14日竣工。最初期に日本占領下のペナン基地を訪れてモンスーン戦隊の基礎を作った。また長大な航続距離を活かした通商破壊で連合軍船舶13隻(8万7030トン)を撃沈、1隻(6348トン)を撃破している。1944年8月25日、ボルドーにて自沈。
概要
IXD2型とは、航続距離の増大を目指した航洋型Uボートである。前級IXD型で採用した魚雷艇用エンジンの信頼性がイマイチだったため、IXC型と同様のM9V40/46ターボチャージディーゼル2基に変更し、新たにRS34/5S巡航用ディーゼル2基を搭載。これによりフランスからインド洋にまで長駆出来る広大な行動範囲(1万2750海里)を獲得した。まさにIX型の完成形と言える。U-178を含めて計28隻が建造された。
要目は排水量1616トン、全長87.58m、全幅7.5m、喫水5.35m、最大速力19.2ノット(水上)/6.9ノット(水中)、燃料搭載量441トン、安全潜航深度100m、急速潜航秒時35秒、乗組員55名。武装は533mm魚雷発射管6門(艦首4門、艦尾2門)、魚雷24本、10.5cm単装砲1門、37mm単装機関砲1門、20mm連装機関砲1基。
モンスーン戦隊の礎を築いた艦
1940年5月28日、デジマーグAG社に発注。同年12月24日にブレーメン造船所でヤード番号1018の仮称を与えられて起工、1941年10月25日に進水し、1942年2月14日に竣工を果たした。初代艦長にハンス・イベッケン大尉が着任するとともに第4潜水隊群へ編入されて慣熟訓練に従事。イベッケン艦長はU-178着任時点で42歳とかなり高齢であった(全Uボート艦長中9番目)。
竣工日の2月14日午前10時より穀物輸送を兼ねた試運転を実施。しかし海が厚い氷で覆われていたため出港出来ず、保全と訓練を繰り返しながら4月3日までブレーメンでの待機を強いられる。4月14日午前6時になってようやくブレーメンを出発、キールへ回航される途中でAGヴェーザー社の造船所に立ち寄って防弾処理と対空兵装の装備を受け、22時15分にブルンスビュッテル閘門前で停泊。4月15日午前7時に閘門を通過してキールへ入港した。そこでは巨大戦艦ティルピッツが係留されており言い知れぬ威圧感を放っていた。
5月11日にピラウへ回航され海上訓練を実施、続いてダンツィヒやゴーテンハーフェンで戦闘訓練を受ける。6月14日にゴーテンハーフェンで弾薬を受領して翌日ピラウで砲撃訓練を行い、6月16日から20日にかけてダンツィヒにて第25潜水隊群と魚雷発射訓練を、6月22日から29日にかけてゴーテンハーフェンで第27潜水隊群と戦闘訓練に従事。6月29日はロンネで聴音装置の調整を受けた後、6月30日にキールへ回航されて振動測定と8時間に及ぶ試験航海に参加し、7月2日に残工事を完遂するためブレーメンへと移動。8月18日までAGヴェーザー社で最終調整を行った。8月20日からはキール工廠で主舵の修理を受ける中、9月1日にロリアンを拠点とする第10潜水隊群へ転属。そして9月7日に準備と訓練を終えて一人前の狩人となった。
ブレーメン港湾で訓練中、潜水した艦首の上を白鳥が泳いでいったのをイベッケン艦長が目撃、これがきっかけでボートの紋章を思いつき、デジマーグAG社の板金部門は砲塔の両側に取り外し可能な紋章を製造したという。一方、艦内でゴキブリが繁殖した事を受け、短期間ながらゴキブリの絵を司令塔に描くというブッ飛んだ事をやっている。ちなみにイベッケン艦長はカール・デーニッツ元帥の親友であり、U-178にはデーニッツ元帥の息子クラウスが乗艦していたが、就役時の事故で瀕死の重傷を負ったためイベッケン艦長は元帥から許可を得た上でクラウスを退艦させた。一方で見張り中に遮蔽物も無しに喫煙するという潜水艦乗りにあるまじき行為をしていたり、高齢ながら潜水艦長をやっている(=出世コースから外されている)事から人望が無かったようで、乗組員から「イッボ」という蔑称で呼ばれていたらしい。
1回目の戦闘航海
1942年9月8日午前7時、キールを出港して最初の戦闘航海に臨む。カデカット海峡、スカゲラク海峡を通過して9月10日午前4時35分にノルウェー南部のクリスチャンサンへ寄港、食糧の積み込みを行うとともに午前10時から2時間かけて燃料と真水を補給し、午後12時30分に出発。
そこからノルウェー西岸を北上していくのだが、既にこの辺りにもイギリス軍機が飛来してくるようで、9月12日13時45分から頻繁に敵機の機影が現れてその度に潜航退避を強いられる。そして同日20時33分、U-178の後方から急速接近してくる敵機を認め、何とか急速潜航が間に合ったものの水深65mまで潜った所で2発の爆弾が投下される。幸い被害こそ無かったが、これがU-178が受けた最初の攻撃だった。22時に安全を確認して浮上。これ以外にもノルウェー近海を出る前から敵機の投弾を受け続けたが、これらの襲撃は新しい乗組員たちにとって丁度良い訓練にもなっていた。
イギリス海軍が目を光らせるアイスランド・フェロー諸島間の海域を突破して北大西洋へと進出するが、航続距離に優れたU-178は更に奥を目指して進撃、インド洋方面へ長駆する。西アフリカとインド洋はまだ連合軍の対潜技術が発達しておらず、ドイツ海軍はそこへU-178、U-177、U-179、U-181の4隻で編制されたウルフパック「アイスベア」を送り込んで大戦果を挙げようとしていた。U-178は9月14日にスコットランド沖を通過してロッコールバンク付近を南下し、9月21日にビスケー湾西方を通りがかった。9月26日17時45分にヘイセ艦長のU-128と会同して情報交換を行い、9月28日、潜水補給艦U-460と合流して断熱材の補給を受ける。
道中の10月10日午前7時56分、アセンション島東北約370kmで単独航行していた英大型客船ダッチェス・オブ・アソール(2万119トン)を発見し、午前8時3分より潜航。午前8時29分、ダッチェス・オブ・アソールに向けて艦尾から2本の魚雷を発射、このうち1本が左舷機関室中央部に命中する。しかし相手は2万トン級の大物だけあって魚雷1本程度では致命傷には至らず、何事も無かったかのように左へ転舵して逃げようとする。午前8時37分、U-178は逃げるダッチェス・オブ・アソールに2本の魚雷を発射、うち1本が最初の魚雷とほぼ同じ場所に命中した事で効果的にダメージを与えられた。しかし中々敵船は沈まない。午前9時18分、沈没を早めるべくイベッケン艦長は右舷側から2本の魚雷を発射。3分後に1本が命中し、この被雷によって乗組員と砲手は船を放棄して海上へ脱出。船長と第一無線士官は全ての機密書類と9つの特別な郵便物を船外へ投棄したのち午前9時45分に救命ボートで脱出した。ダッチェス・オブ・アソールはカナダ太平洋汽船社が軍隊輸送船に徴用したものだったため、陸海軍合わせて529名の軍人が乗客とともに乗船していたが、沈没速度がゆっくりだった事が幸いして犠牲者は乗客4名のみに留まっている。
午前11時25分、左舷側へ転覆しながら船尾より沈没。浮上したU-178は波間に漂う救命ボートの1隻に近付いて男性4名に船名、積み荷、目的地の港について尋問し、救難信号を聞きつけた追っ手が現れる前に海域を去った。こうしてU-178は最初の戦果を挙げた。ダッチェス・オブ・アソールはUボートが挙げた戦果全体で見ても6番目の大物である。
10月23日、U-159より112個のパンの缶詰めが補給される。U-178は一年中天候が荒れている南アフリカ南端喜望峰を回ってインド洋へ進出。その先には北アフリカ戦線の連合軍にとって重要な補給港であるモザンビーク海峡があり、獲物となりうる船舶が大量に往来していた。
11月1日にU-178はボルドーを拠点とする第12潜水隊群へ転属。午前11時55分、水平線から立ち昇る煙雲を発見して14時21分より潜航、水面下の追跡を開始する。15時に最初の雷撃を行うも2本とも外れて不成功に終わる。15時53分、ザ・ブラフ東北東で護衛がついていない英軍隊輸送船メンドーサ(8233トン)を狙って艦尾から魚雷を発射、1本が船体後部に命中して航行不能に追いやる。16時にG7a魚雷を中央部へ撃ち込まれたメンドーサは炎に包まれながら沈没。船長を含む乗組員19名、砲手3名、海軍関係者3名が死亡した。イベッケン艦長は仕留めた船が別の軍隊輸送船ローレンティックだと確信していたが、メンドーサはローレンティックの半分にも満たない大きさだったとか。
続いて11月4日午前11時42分、同じく護衛がついていないノルウェー蒸気船ハイ・ヒン(2561トン)の右舷第3船倉へ魚雷1本を撃ち込んで1400トンの一般貨物ともども即座に沈没させる。同日14時46分、モザンビーク海峡のマプト東方で英商船トレキエフ(5244トン)を雷撃して撃沈。イギリスに届けられるはずだったマンガン鉱石2500トンやナッツ1700トン、コプラ1650トンは海の藻屑と化した。11月13日午前6時20分、ダーバン南東にて無防備にも単独航行していた英商船ルイーズ・モーラー(3764トン)がU-178の雷撃を受けて沈没。11月15日午前1時45分、ダーバン南東沖440kmで英商船アドバイザーに2本の魚雷を発射して大破させる。しかし近くで爆雷を投下する音が聞こえたためU-178は足早に海域から離脱した。一度は船員に船を放棄させたが、翌朝彼らは戻ってきてダーバンまで曳航されてしまっている。この日、モザンビーク海峡を哨戒していた連合軍機から数回の投弾を受け、一度に3発の爆弾が至近に落下したものの幸い被害は無かった。
11月27日14時35分、南アフリカのアグラス岬南方約500kmにてリバティ船ジェレマイア・ホズワース(7176トン)に向けて2本の魚雷を発射。ジェレマイア・ホズワースは潜水艦を警戒して11.4ノットの速力でジグザグ運動していたが、努力むなしく右舷第5船倉に1本目が、第3船倉に2本目が命中。14時44分に3本目の魚雷を放つも船底を通過して外れ、2分後に放たれた4本目が前部の第4船倉に命中、生じた爆発により致命傷を負う。それでも沈没するまでに武装警備員が4インチ砲弾3発を発射し、艦橋の20mm砲弾1発がU-178の潜望鏡に向けて発射されるなど抗って見せた。15時27分、ジェレマイア・ホズワース沈没。3隻の救命ボートと2隻のイカダに分乗して脱出した船員に尋問を行ったのちU-178は帰路に就く。
1943年1月10日午前10時30分、6隻(4万7097トン)撃沈と1隻(6348トン)撃破の戦果を引っさげてボルドーへ帰投。高齢を理由にイベッケン艦長は異動・退艦させられ、2月22日に二代目艦長のヴィルヘルム・ドメス少佐が着任する。
2回目の戦闘航海
3月7日にボルドーを出撃したU-178だったが、バッテリーハッチからの漏れを確認したため急遽戻らなければならなくなり、3月9日にボルドーへ帰投して修理を行う。気を取り直して3月28日、ボルドーを出撃して再びモザンビーク海峡へ向かう。今回の出撃は少々毛色が異なっていた。
1942年12月頃、同盟国の大日本帝國より「インド洋での通商破壊作戦のためにUボートをペナンやサバンに駐留させてはどうか?」との打診があった。当時ジブラルタル・スエズ・インド洋を繋ぐ航路はイギリスの重要な補給路で大量の輸送船が頻繁に往来、それでいて対潜対策は遅れており、英東洋艦隊の南アフリカ後退によりまともな護衛戦力も無いという絶好の狩り場だった。だがドイツ海軍のカール・デーニッツ元帥は「大西洋に獲物がいる限り、わざわざインド洋の奥深くにまでUボートを派遣する必要は無い」と考え、その打診を一度は断る。ところが1943年に入ると大西洋方面における敵の対潜技術が向上。思うように戦果を挙げられなくなってきた。そこで大西洋に次ぐ新たな狩り場をデーニッツ元帥が求めた事でインド洋進出が決まり、それに先駆けて4月5日、ペナンにUボート基地を設営するべくU-178の派遣を決定。帰港先はボルドーではなく日本占領下のペナンとなった。
4月2日20時、低速で移動する敵輸送船団を発見して位置情報を通報。パリにあるBdU(Uボート司令部)から「付近にいるU-124が到着するまで接触を維持せよ」との命令が下り、U-124到着後は南へ進んだ。4月20日、合流したU-509に暗号表を手渡し、4月27日にはセントヘレナに対する短時間偵察を敢行して船舶も航空機も存在していない事を報告した。5月18日、リー・ライトを装備した敵機2機に襲撃された事でドメス艦長は「U-198が追跡中の敵船団が航空援護を要請したのでは?」と勘繰ったが、実のところ距離が離れすぎていたためその可能性は低いと言われている。5月24日午前6時5分、ケープタウン沖で6隻からなる小型輸送船団を追跡中にオランダ軍のカタリナ飛行艇から爆弾3発が投下され、被害こそ受けなかったものの輸送船団には逃げられてしまった。U-178からの通報を受けてU-196が船団攻撃に向かっている。
6月1日午前10時、ダーバン南方沖でCD-20船団に向けて2本の魚雷を発射。このうち1本が蘭蒸気船サラバンカ(6586トン)の右舷機関室に命中して電力を喪失、右側へ大傾斜させる。船長以下船員たちはサラバンカに曳航索を取り付けて13時30分よりダグボートによる曳航を開始。何とかダーバンまで連れて帰ろうとしたが、18時50分に突如大爆発を起こしてあえなく沈没。U-178側は時化によって潜望鏡観察が妨げられ、ボイラーが爆発した可能性こそ得られたものの、サラバンカの沈没までは確認出来ていない。6月3日、U-178は「敵船団が海岸沿いを進む時、90マイルの距離を取っていればレーダーに探知されても安全に追跡出来る」とBdUに報告している。6月22日、アフリカ大陸南東沖でUボートへの補給任務を行っていた独補給船シャルロッテ・シュリーマンから燃料、潤滑油、真水の補給を受ける。
7月4日14時7分、ポルトガル領東アフリカ沖でDN-50船団から分散したノルウェー商船ブライビゲン(2669トン)に向けてG7e魚雷3本を発射。134秒後に1本が右舷側に命中して3分以内に船首から沈没させた。U-178は他に獲物となる船を発見していながら30分間に渡って救助活動を実施、アルフ・ヴァスダル船長はノルウェー語がとても堪能な士官から尋問を受けた。その後、U-178は生存者全員をイカダに乗せたのち出発。見事な騎士道精神である。同日20時8分、モザンビーク海峡を10ノットで航行中のギリシャ商船マイケル・リバノス(4774トン)を雷撃し、魚雷1本が左舷機関室に直撃。20時36分に船長、船員35名、砲手4名が救命イカダに乗って船を放棄、間もなくマイケル・リバノスは沈没した。生存者はU-178から尋問を受けたのち解放され、2日後の朝にポルトガル領東アフリカのプンタ・ダ・バーハ・ファルサまで辿り着いている。7月11日午前10時37分、7224トンの石炭をスーダンへ運ぶべくモザンビーク海峡内を8ノットで航行していたギリシャ商船メアリー・リバノス(4771トン)の左舷後部へG7e魚雷1本を命中させ、午前10時53分に沈没。浮上したU-173は救命ボートの1隻に近づいて尋問と写真撮影を行って立ち去った。ちなみにメアリー・リバノスは先に沈没したマイケル・リバノスの姉妹船である。
7月14日午前2時36分、モザンビーク灯台沖でリバティ船ロバート・ベーコン(7197トン)を雷撃。最初の魚雷は船首の前を横切っていったが、2本目は左舷第2ハッチに命中。ちょうど燃料貯蔵庫だったため誘爆し、右舷へ10度傾くとともにエンジン停止、2隻の救命ボートが使用不能となる。船員と武装警備員が船を放棄した後の午前3時14分、ロバート・ベーコンにトドメを刺すべく右舷側へ魚雷を撃ち込むも中々沈まず、午前4時43分に三度目の雷撃が右舷船尾に命中した事でようやく船首より沈没。浮上後、U-173は海上を漂う救命ボートの生存者を尋問、それが終わると陸地への方角を示して彼らの幸運を祈った。7月17日午前0時1分、18時間にも及ぶ追跡の末、ベイラ北東で一般貨物2000トンと石炭4500トンを運送中の英商船シティ・オブ・カントン(6692トン)を2本のG7a魚雷で攻撃し、うち1本が命中。30分後に放った2本目がシティ・オブ・カントンの船体を真っ二つに引き裂いて撃沈。浮上してみると2隻の救命ボートが漂っており、船長が不在だったため二等航海士のレジナルド・マリー・ブロードベントを捕虜にして艦に乗せた。
シティ・オブ・カントンの撃沈を以ってU-178はモザンビーク海峡から撤退。8月2日にインド洋で敵船を雷撃するが船底の下を魚雷が通過して失敗。8月12日午前8時、同じくペナンを目指していたイタリア潜水艦ルイージ・トレッリが燃料不足に陥ったため、燃料に余裕があったU-178が補給を実施。その後はルイージ・トレッリと行動を共にする。そして8月26日にスマトラ島サバンへと入港、そこでルイージ・トレッリと別れてU-178は単独ペナンに向かった。
8月27日、目的地のペナン基地へ無事入港。U-511に次いで2番目にペナンを訪れたUボートとなった。先着していたドイツ人技術者から盛大な出迎えを受け、U-178乗組員はダンスホールに改装された大きな部屋に収容されている。世話役として英語を話す中国人の少年があてがわれてよく会話していたとか。内部調整は全て日本側が行い、ドイツ人が要望すれば追加の食糧も支給されるなどまさに快適そのもので、不自由しなかった。ただU-178の方は熱帯での活動を想定していなかったため空調すら装備されておらず、外の気温より内部の方が高い有り様だった。後にシャルロッテ・シュリーマンの船員が「艦内の環境は酷かった」と証言している。
東南アジアでの活動
ペナンにある元イギリス軍水上機基地にモンスーン戦隊の司令部を設立。港の北端にある埠頭1つと倉庫2~3つがドイツ軍に接収され、封鎖突破船が運んできた魚雷、弾薬、予備部品、貯蔵品を収容。これにより往復を考えなくて済むようになり、IXD2型だけでなく一回り小型なIXC型も戦隊へ加わる事が可能となる。ドイツ海軍はモンスーン戦隊に増援を送るためフランスやノルウェーからIXC型9隻とIXD2型2隻が出港するが、連合軍の厳重な対潜警戒によってU-200、U-514、U-506、U-509、U-847、U-533の6隻が撃沈される大損害を受け、U-178の到着から丁度2ヶ月が経過した10月27日にようやくU-183が、続いて10月31日にU-188とU-532が、11月11日にU-168がペナンに入港。11隻中僅か4隻しか進出出来なかったため今後もペナンへUボートが送られ続けた。
U-178がペナンに到着して間もない9月8日、イタリア王国が連合国に降伏。これに伴って東南アジアに停泊中のイタリア潜水艦がドイツ軍に拿捕される。日本側はU-178を輸送用潜水艦にする事を提案しているが、ドイツ側がどのような反応を示したのかは不明。10月9日にペナンを出港し、マラッカ海峡を通って10月11日にシンガポールへ入港。長旅の疲れを癒すべく整備を受ける。しかし東南アジアに整った設備や十分な資材が無く、日本側の技術者もUボートの整備が出来ず、また熱帯で保存された魚雷は著しく不発率が上昇するなど問題が百出。U-178も整備を終えて10月25日にペナンへ戻ったが、現地では修理不能な漏油が確認され、11月6日に再びシンガポールへ向かうためペナンを出港。道中のマラッカ海峡で英潜水艦タリ・ホーから5本の魚雷攻撃を受けるが、U-178は伸びて来る2本の雷跡を確認して全て回避に成功。11月8日にシンガポールへ到着し、修理を受けたのち11月24日にペナンへ戻っている。11月25日にドメス艦長はモンスーン戦隊の司令に着任して退艦、代わりに第1当直士官のヴィルヘルム・シュパール大尉が三代目艦長に着任した。
3回目の戦闘航海
1943年11月27日、ヨーロッパへ帰国するため錫121トン、天然ゴム30トン、タングステン2トンを積載してペナンを出港。最初にペナンを離れたUボートとなる。12月7日から10日にかけてマドラス沖で強力な護衛が付いた敵船団の発見報告を打ち、12月14日にマドラス沖から移動。
12月27日午前0時12分、インドのコチン南西324kmで単独航行中のリバティ船ホセ・ナバロ(7244トン)を雷撃し、右舷船首に魚雷1本を命中させる。爆発の衝撃で船体は一気に左側へ傾き、船首から急速に沈み始め、逆立ちするかのように船尾を少しずつ上へと持ち上げていく。3つある船倉はすぐさま満水。エンジン停止に伴って総員退船命令が下され、救命ボート8隻に分乗して船員と武装警備員が脱出。3時間後、放棄されたホセ・ナバロに船員が戻ってきて復旧を試みるも、3時間に渡る決死の作業は身を結ばず諦めて退船。14時58分、U-178は甲板砲による砲撃で廃墟と化したホセ・ナバロを海底へ沈めた。3000トンの陸軍向け貨物とラバ、飼料、着陸マットは目的地のコロンボに届かなかった。
1944年1月5日、敵哨戒機に発見されるも潜航退避が間に合い、攻撃を受けずに済んだ。1月12日、インド南西端で状況報告を行うとともにシャルロッテ・シュリーマンとの合流と補給を命じられ、1月26日、シャルロッテ・シュリーマンより燃料、90日分の食糧、潤滑油、真水、ゴム19トンが補給され、同じく補給に来ていたU-510から6月まで使用の新しい暗号表が渡される。2月26日、3日間に及ぶイギリス海軍の猛追から命からがら逃げてきたU-536に燃料を補給。しかしそれでも足りなかったのか後に独補給船ブラーケとの合流を試みている。2月29日、敵の航空基地があるモーリシャスを偵察し、「空と海の哨戒は無し。信号所はモールス信号を発している。当艦が接近した時にサーチライトが水平線を走査していた」と報告。
3月5日、UIT-22(イタリア潜水艦アルピーノ・バノリーニをドイツ海軍が鹵獲したもの)に燃料補給を実施。3月7日に「UIT-22からエニグマ暗号新型キーコード、レーダー警戒装置のナクソスとボルクムを受領せよ」との命令に従って喜望峰南西1110kmの合流地点に向かっていたが、発信した電文を南アフリカ海軍に解読され、翌日イギリス軍と南アフリカ軍の航空機に襲われる。幸運にも悪天候に乗じて脱出に成功。しかし3月11日にUIT-22が撃沈されてしまう。そうとは知らずに3月12日、合流地点に辿り着くもUIT-22の姿は無く、代わりに海面を漂う大きな油膜を発見。またこの辺りは哨戒機の警戒が厳しく、BdUから「油膜を調査せよ」との指示が下されるも日中は殆ど潜航しなければならなかった。4月8日、敵機より機銃掃射を受ける。
5月25日、181日間に及ぶ航海を経てボルドーに帰投。海軍造船所に入渠して整備を受けるとともにシュノーケルの取り付け工事が行われた。
ペナンからの帰投に成功したU-178であったが、無理な航海が祟ったのかエンジンがほぼ故障しているような状態だった。帰投から間もない6月6日、連合軍がノルマンディー上陸作戦を決行した事でボルドーも激しい空襲を受けるようになり、取り寄せたバッテリーが破壊された事で修理の完遂が困難となる。8月初旬からはUボートの出撃基地を潰そうとアメリカ軍がブルターニュ半島を進撃。ボルドーの失陥は避けられない事態となり動けるUボートは次々に脱出。しかしノルウェーまで逃げ切れないU-178はここで自沈するしかなく、一度装備されたシュノーケルをU-534に託した。
最期
1944年8月20日退役。8月25日、最後に脱出するU-534とU-857を見送ったU-178は、同じく脱出の術を失っていたU-188やUIT-21とともに自沈処分。第12潜水隊群のUボートブンカー内で爆破され、艦首を粉砕されながらブンカー内に横たわった。ボルドーが連合軍に占領されたのはそれから3日後の事だった。戦後の1947年に残骸を引き揚げられて解体。
総戦果は13隻(8万7030トン)撃沈、1隻(6348トン)撃破。U-178がシュノーケルを託したU-534は無事包囲網を突破してドイツ本国まで生還している。ただしシュノーケルは故障しまくりであまり役に立たなかった。
関連項目
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