U-853とは、第二次世界大戦中にドイツ海軍が建造・運用したIXC/40型Uボートの1隻である。1943年6月25日竣工。通商破壊により2隻撃沈(5783トン)の戦果を挙げた。1945年5月6日にニューロンドン南東で対潜攻撃を受けて沈没。
概要
IXC/40型とは、1940年に設計された言わば改IXC型で、IXC型をベースに外殻径を拡大しつつバラストタンクを大型化、燃料搭載量を更に6トン増加させた事で航続距離が2万370kmから2万1113kmに増大。水上での最大速力も僅かに増加するなど、一定の性能向上が見られ、加えて一度洋上補給をすれば200日以上海上で活動する事が出来た。IXC/40型は160隻が起工、最終的に89隻が就役し、残りの71隻はXXI型生産のリソースを確保するため建造中となる。
U-853は第二次世界大戦で最後に失われたUボートであると同時に、アメリカ領内で最後に沈没したUボート、最後にアメリカ船籍を撃沈したUボートでもあり、何かと最後に縁がある。
要目は排水量1144トン、全長76.76m、全幅6.86m、燃料搭載量214トン、安全潜航深度100m、最大速力18.3ノット(水上)/7.3ノット(水中)、急速潜航秒時35秒、乗員44名。武装は53.3cm魚雷発射管6門、魚雷22本、10.5cm単装砲1門、SKC/30 37mm単装機関砲1門、20mm連装機関砲2~3門。
U-853は、上部ウィンターガルテンに短い折り畳み式シールドを備えた3.7cm高射砲M43Uと、2cm高射砲C38を2門装備する数少ないUボートで、Uボート全体で見ても同様の装備を持つ艦は13隻だけである。
戦歴
1941年6月5日発注、1942年8月21日にブレーメンのデシマーグAGヴェーザー社で起工、1943年3月11日に進水し、同年6月25日に無事竣工を果たした。初代艦長にはヘルムート・ゾマー大尉が着任。ドイツ海軍はU-853を「der Seiltänzer(綱渡り師)」と呼び、乗組員たちは司令塔に黄色の盾と赤い馬を象った紋章を描いた。
竣工するとともに訓練部隊の第4潜水隊群に編入され、バルト海にて慣熟訓練に従事。1944年4月1日に第10潜水隊群へと異動となる。
4月11日午前8時、ノルウェー南部クリスチャンサンに向かうべくキールを出港。午前9時33分にU-860が合流して一緒に護衛を受けながら進む。しかし濃霧によって視界不良に陥り、U-860の提案で翌12日午前4時43分に仮泊する。その際、重度の漏油が確認されたため、第5潜水隊群と協議した上でキールへの帰投を決め、4月14日19時28分に造船所へ入渠。右舷の6番、7番バラストタンクと予備燃料タンクのオーバーホールを受ける。
4月18日に出撃する予定だったものの連合軍が機雷を敷設した影響で1日延期、だが翌日になっても機雷の危険を除去し切れず再度延期となる。
1回目の戦闘哨戒
1944年4月20日午前7時、U-861やU-742とともにキールを出港、マルヴィゲンを経由し、4月29日、ドイツ占領下ノルウェーのベルゲンを出撃して最初の戦闘航海に臨む。今回U-853に与えられた任務は気象観測であった。ドイツ軍情報部は大西洋の気象状況が、連合軍の西ヨーロッパ侵攻時期の予測に役立つと考えていたのだ。
5月9日にU-853は作戦海域へと到達。1日2回の気象情報報告を行う。5月13日、北部気象通報海域に移動、抜けた穴はU-534が埋め合わせた。
5月25日、アメリカ軍の兵士と物資を満載した大型貨客船クイーン・メリーを発見。攻撃のためU-853は急速潜航を行うも、クイーンメリーは遥かに大型かつ高速であり、みるみるうちに距離が開いていく。15時30分、追跡を断念してやむなく浮上したU-853の前に、イギリスのMAC船(商船空母)アンサイラスとエンパイア・マッケンドから出撃してきたフェアリー・ソードフィッシュ3機が襲い掛かる。急速潜航する時間さえ無かったためすかさず対空射撃で応戦し、3機すべてに命中弾を与えて撃退、U-853は大した損傷を受けなかった。3機のソードフィッシュは母艦に帰投したものの1機が全損と判断され投棄されている。
5月27日、U-955が帰投するため穴埋めのためU-853がU-955の担当海域に移動、U-853が元いた海域にはU-857があてがわれた。
しかしU-853の危機はまだ去っていなかった。米護衛空母クロアタンは約1ヶ月間、気象観測中のUボートを狩り続けており、既にU-488とU-490を撃沈、勢いに乗るクロアタンは無線傍受によってU-853の存在を知り、駆逐艦6隻を率いて捜索を開始したのである。だが、U-853は巧みに捜索網からすり抜け、クロアタンの乗組員に「モビー・ディック(白鯨)」と名付けられた。
6月17日、高周波方向探知機ハフダフは、56km離れた海域から打たれたU-853の気象情報電文を傍受。16時8分、気象情報を送信した後、太陽を背に2機のFM-1ワイルドキャット戦闘機が急降下してきてU-853を機銃掃射し、乗組員2名が死亡、12名が負傷してしまう。一方、3.7cm高射砲による対空射撃で1機のワイルドキャットに黒煙を噴かせた。ゾマー艦長自身も榴散弾と散弾で負傷したが、負傷者が全員艦底へ移送されるまで司令塔を離れるのを拒否して指揮を執り続け、12分後、急速潜航を指示。水中に没したところへ小型爆弾2発が投下されたものの幸い被害は受けず、爆弾や魚雷を持った対潜専門のアヴェンジャー雷撃機が到着する前にかろうじて逃走に成功した。20時頃、3隻の敵駆逐艦が一列に並びながらU-853の捜索を開始し、敵艦が去る翌朝まで浮上出来なかった。
翌18日、23歳で身長196cmの操舵手ヘルムート・フロムスドルフ中尉が臨時の艦長となるも、負傷者は多く、全ての対空兵装、潜望鏡、ナクソスが使用不能、右舷バラストタンク5個損傷、音響室に浸水して艦も傾斜しているなど、もはや気象観測任務は続けられないとして、6月19日午前3時50分より帰路に就く。応急修理のおかげで何とか対空兵装の一部のみ再稼働した。
7月4日午前6時30分にフランス北西部ロリアンへ入港。翌5日から8月25日にかけて造船所に入渠し、新たにシュノーケルが装備された。ゾマー艦長と乗組員の多くは負傷で任務遂行不能と判断され、一部はドイツに帰国したのち、7月10日、オットー・ヴェルムート中尉が正式な艦長に就任。
2回目の戦闘哨戒
既にフランスは連合軍の上陸を受け、8月上旬にはブレスト及びロリアンのUボート基地を潰そうとブルターニュ半島への侵攻が始まった。それから間もなくして、アメリカ軍がビスケー湾基地の外郭部まで到達したため、ドイツ海軍はフランス在中のUボートにノルウェーへと撤退するよう命令。
8月24日、所属Uボートが全て脱出し、実質解隊となった第10潜水隊群の司令ギュンター・クーンケ少佐を艦長とし、連合軍の包囲網が閉じる前にロリアンからの脱出を試みる。ロリアン脱出の最終便ゆえに陸兵7名、建造物検査官フリッツ・ウムラウフ、MAN社製ディーゼルエンジンの整備士マイヤー、在庫として残っていた魚雷や兵器などが積み込まれた。
8月27日にロリアンを出港。イギリス諸島沖の西方接近路で7週間遊弋したものの、戦果を挙げられず、そのままドイツ本国へと向かって、10月14日、フレンスブルクに到着。連合軍の厳しい航空哨戒を切り抜けられたのはひとえにシュノーケルのおかげと言える。ここでクーンケは第33潜水隊群司令となって退艦、フロムスドルフ中尉に指揮権を返した。
10月18日にフレンスブルクを出港、10月22日、東プロイセンの首都ケーニヒスベルクの造船所に移動した。ソ連軍のバグラチオン作戦によって東部戦線は崩壊してしまい、ドイツ陸軍や難民は本国に向けて撤退、それを追いかけるように、無尽蔵のソ連軍部隊が東プロイセンへ攻め入らんと雪崩れ込んで来た。もはやドイツ近隣であっても安全ではないのだ。
3回目の戦闘哨戒
1945年1月15日、ソ連軍の包囲が迫る東プロイセンの首都ケーニヒスベルクを脱出し、1月18日にキールへ入港。ドイツ海軍は、イギリス沿岸海域から対潜掃討部隊を引き離すべく、パウケンシュラーク作戦以来のアメリカ東海岸での大規模通商破壊を企図、6隻のUボートが選出され、U-853にも通商破壊命令が下った。出撃前、U-853は伸縮式の改良型シュノーケルを搭載。
ドイツを出撃する前、フロムスドルフ艦長は入院中のゾマー元艦長のもとへ見舞いに訪れた。ゾマー元艦長は彼に「戦争は終わった」と告げ、「乗組員を軽々しく扱うな」「彼らはみんな良い子だ。必ず連れ帰るように」と忠告。しかしフロムスドルフ艦長は熱狂的なナチス支持者であり、プロパガンダを固く信じ、戦況に関わらず祖国に奉仕しようと、密かな闘志を燃やしていたのだった。
激しい空襲の中、2月6日にキールを出港してノルウェー方面に向かい、2月11日、首都オスロ近郊のホルテン軍港に到着、そして2月17日にスタヴァンゲルへと移動した。2月23日、スタヴァンゲルを出撃。敵哨戒機に発見されるのを防ぐため、シュノーケル潜航で進まざるを得ず、北大西洋を横断するのにかなりの時間を要した。
4月23日午後12時14分、メイン州ケープエリザベス南南東5600m沖で、アメリカ海軍の急降下爆撃訓練用の標的を曳航していたPE-56イーグル(430トン)を雷撃し、船体中央部に命中させて大爆発を起こした末に船体を真っ二つに折って撃沈。艦長、士官4名、下士官44名が死亡した。約30分後、駆け付けた駆逐艦セルフリッジが士官1名と下士官12名を救助、すかさず爆雷9発を投下してU-853を攻撃するも、被害は無かった。
当時、U-853の司令塔のマークを目撃した生存者がいたにも関わらず、アメリカ海軍はPE-56イーグルの沈没をボイラー爆発によるものと結論付けていた(これはU-853が撃沈されて攻撃の記録が残らなかった所が大きい)。2001年になってようやく敵の攻撃によるものと認定。生存者にパープルハート勲章を授与した。
翌24日、タコマ級フリケード艦マスケゴンがソナーでU-853を捕捉して攻撃。だがこちらも不成功に終わる。アメリカ軍の捜索網を突破したU-853は南下しながら静かに獲物を探し求める。
5月5日、自殺したヒトラー総統に代わって総統の座に就任したカール・デーニッツ元帥は、全てのUボート、特に海上作戦中の49隻のUボートに対し、攻撃作戦を中止して基地に帰投するよう命令。当時U-853はロードアイランド州ポイント・ジュディス沖で待ち伏せを行っていた。アメリカ沿岸警備隊曰く、U-853は帰投命令を受信できなかったとしているが、後の調査でU-853の無線機は正常に作動していた証拠が見つかり、命令を無視して戦闘を続行した可能性が高い。
その頃、石炭7759トンを載せた米石炭運送船ブラックポイント(5353トン)は、バージニア州ニューポート・ニューズからマサチューセッツ州ウェイマスに向けて霧の中を単独航行していた。チャールズ・E・プライアー船長はUボートの脅威など深く考えず、沿岸航路を通りながら申し訳程度のジグザグ運動をするだけだった。
同日17時、ポイント・ジュディス沖を進むブラックポイントを潜望鏡で発見。フロムスドルフ艦長は攻撃計画を練り始める。ニューヨーク港が近いからかブラックポイントはジグザグ運動さえ止めていた。40分後、護衛なしで航行していたブラックポイントを狙ってU-853が魚雷を発射、右舷船尾部分に直撃して船尾12mが吹き飛んだ。すぐに船尾から沈み始め、25分後に船首だけを水上に突き出して着底。船員11名と武装警備員1名が死亡した。ブラックポイントはUボートによって沈没した最後のアメリカ船籍であった。
救助にあたったユーゴスラビア貨物船ケイメンは当局に魚雷攻撃を報告。報告を受けたアメリカ海軍は最も近くにいた駆逐艦エリクソン、アミック、アサートン、モバリーの4隻で即席のハンターキラーグループを編成し、19時30分よりU-853の捜索を始める。20時15分、アサートンのソナーが水深33mに潜むU-853を捕捉、何度も爆雷とヘッジホッグを投下したが、仕留めるには至らなかった。
むしろあまりに水深が浅すぎて、U-853はまともに回避運動が取れず、攻撃する側も、投下した爆雷の衝撃波でアサートンの電子機器が損傷したり、モバリーの舵が損傷するといった被害が出ている。U-853は深い海域へ逃げようと最初に発見された位置から3650mほど移動した。
駆逐艦4隻は翌6日午前1時10分まで攻撃を続けた。そこへ駆逐艦バーニー、ブレッキンリッジ、ブレイクリー、補助駆逐艦セムズ、フリケード艦ニューポート、コルベット艦アクション、レストレスが増援に現れ、攻撃は夜通し行われる。
最期とその後
1945年5月6日朝、ニュージャージー州レイクハーストから出撃したK級飛行船K-16、K-58が攻撃に参加、空と海から激しい爆雷攻撃を受けた結果、午前10時45分にとうとうU-853は撃沈された。海面には板材、衣類、士官の帽子、海図台、救命いかだ等が浮かんでいたという。午後12時7分にエリクソンは潜水艦の撃沈を発表。こうしてU-853は第二次世界大戦中に沈んだ最後のUボート、そしてアメリカ領海内で沈んだ最後のUボートとなった。乗組員55名全員死亡。
ヨーロッパの戦勝記念祝賀会中に突然任務を言い渡され、乗組員の殆どがひどい二日酔いに悩まされていた米補助艦ペンギンがニューロンドンを出港、夜遅くに目印のブイが設置された現場海域へと到着する。聴音手は沈没したU-853から叩く音を聴き取ったが、徐々に弱くなっていき、最後は聴こえなくなった。一時は引き揚げようとしたものの、ペンギンの調査で船体に甚大な被害があると判明して断念。5月7日、海軍のダイバーが金庫内の重要書類を奪取しようと潜入を試みたが、脱出用ハッチは乗組員の遺体で塞がれていた上、現場には大量の不発弾が散らばっていて危険と判断され、失敗に終わっている。
現在U-853の残骸はブロックアイランド東方13km、水深40mの海底にあり、乗組員55名の遺体は艦内に安置されている。1953年にレジャーダイバーが訪れた事で、アマチュアダイバーでも行ける人気のダイビングスポットになったが、1960年にダイバーが勝手に遺体を引き揚げたため、元海軍提督や聖職者が死者の冒涜を禁じるようアメリカ政府に請願、後に遺体は取り返されてロードアイランド州ニューポートに軍葬された。数々のダイバーに荒らされながらもU-853の残骸は未だ綺麗であり、考古学的価値を宿している。
鋭利な金属片や狭い空間があるので艦内への進入は危険とされる。実際潜入しようとしたダイバー4名が死亡している。
関連項目
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