アタリショック 単語

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アタリショック

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アタリショックとは、1980年代前半にアメリカで発生した家庭用ゲーム市場の崩壊をす。

概要

1982年末、様々な要因が重なって家庭用ゲーム商品が値崩れを起こし、アメリカ市場で大きな地位を築いていたアタリ社の会社であったワーナーコミュニケーションズ社の価暴落を招いた。アメリカの消費者は家庭用ゲームから離れ、市場規模は最終的に30分の1にまで減少し、実質的に消滅してしまった。この一連の現日本ではアタリショックと呼んでいる。ただ、この呼び方をしているのは日本だけで、欧では「Video Game Crash of 1983」と呼んでいる。

現在、様々な尾ひれや誤解により、半ば都市伝説のように誇されて語られることも多い。

消費者が「つきあいきれなくなり」、ある市場が急に衰退する現をこれに例えることもある。

歴史

当初

1970年前半、PONG発売に端を発するアーケードゲームブームアメリカ中を席巻した。このブームの中心的存在だったのがアタリ社(Atari inc.)である。社長であったノーラン・ブッシュネルは経営権をワーナーコミュニケーションズ社に売却(76年)。売却で得た資本金と今までの売り上げを資金に、家庭用ゲーム機「Atari2600」を開発した。

このAtari2600、価格が高めだったのに加え、当時アーケードゲーム盛だったため当初はそれほど人気は出ず、ブームの陰に隠れるようにひっそりと売れる程度にとどまっていた。1500万台(86年発売の廉価版を合わせれば最終的に全世界3000万台)を売り上げたこのゲーム機の普及は、80年初頭の移植インベーダーの発売まで待たねばならなかった。

※ちなみにAtari2600は当初AtariVCSという名称であり、後継機のAtari5200の発売に合わせて改称された。

混迷

焦るレプカアタリ社の会社となったワーナー社はアーケードゲーム機よりも家庭用ゲーム機の売り上げに執心するようになり、会社設立当時からあったアーケード部門の予算を削減するなど、アーケードゲームを切り捨てる方針に走った。

このため、会社立ち上げ当時から参加していた古の社員は辞職・退職により姿を消した。社長であったブッシュネルも例外ではなく、経営方針で衝突し78年にアタリ社を追われている。

また、当時の家庭用ゲーム機部門の重役が繊維業界などから引き抜かれてやってきた門外ばかりだったため、その後も家庭用ゲーム機部門を重視したにも関わらずアーケード部門の方が売れ、ワーナー肝煎りの家庭用ゲーム機部門は前述の通り長期にわたり不振が続く事態が続いた。

増殖

インベーダーその後、当時の人アーケードゲームスペースインベーダー」がAtari2600移植されると、その前人気により、在庫がだぶついていたAtari2600は大いに売れ、家庭用ゲーム機部門の汚名は返上されたかに見えた。

しかし、このすぎる好況は「人気映画マンガ小説Atari2600ゲームにすればなんでも売れる」という今のキャラゲーのような発想を招き、新規サードパーティによる粗製濫造ソフトが大量に生産されるようになった。これら粗製濫造されたソフトは多くが発売直後に新品のまま中古市場へ流れ、新品の買い控え現が発生した。

ちなみにインベーダーの移植を提案したのは、日本Atari2600の販売を担当していたエポック社であった。

崩壊

ソフトの粗製濫造、販売を防止する対策の不備、これら粗製濫造ソフト中古品として大量に市場に流れ込んだことなどが原因で、新品、中古価格の値下がりが起こった。アメリカにはメーカー側が小売店に対し返品、値引き分を補填するという商習慣があり、小売店の過剰在庫、叩き売りの痛手をアタリ社はもろに受けることになった(アメリカは販売業者のが強く、アタリ社はこれにも振り回された格好)。

追い打ちをかけるように、ホームコンピューター(後のパソコン)の躍進と低価格化が活発化。また、対抗機としてマテル社からインテレビジョン(80年)コレコ社からコレコビジョンが発売(82年)されたこと、それを受けてアタリ社自身が後継機としてAtari5200を発売(82年)したことなどにより、Atari2600の魅は薄れていった。

82年のホリデーシーズンアタリ社はAtari2600に注し、ソフトを大量に出荷した。が、前述のような状況である。

かつてのような需要はもはやAtari2600には残っておらず、サードパーティ各社と共に大量の在庫を抱えてしまった。当時アタリ社が鳴り物入りで投入したのが、アタリショックの戦犯として名前が挙げられる「E.T.」である。出荷400万本に対して250万本が売れ残るという惨状であった(逆に言えば150万本はハケたということである)。ちなみに内容は史上最悪のクソゲーと名高いもので、製作期間は約6週間版権料は2500万ドルだったという。

戦犯として並んで有名なのが「パックマン」である。アタリ社はパックマン当てに本体を購入する人間も出てくると考え、82年の時点でのAtari2600の販売台数である1000万台をえる1200万本ものソフトを製造した。

ROMの生産には時間がかかるために先の需要を見越して生産する必要があるとはいえ、このような、ワーナー社によるアタリ社の奔放な経営、需要を見誤ったソフトの濫造も市場崩壊の一因であるといえる。

結末

活況から一転、アタリ社の業績を下方修正したワーナーコミュニケーションズの価は82年に暴落。
同時期にマテルコレコなどのゲーム業界関連も、煽りを食って価を下げた。

83年も前年の活況を受けて各社のハードソフトが多く発売されたものの、終わってみれば各社とも火ので、市場規模は大きく縮小していた。サードパーティの参入、競合機の登場により、必然的に各社でパイを奪い合う形となったのである。特に、このような状況でも前述のような調子ソフトを大量に生産、出荷していたアタリ社は、不良在庫という形で大きなしっぺ返しを食らった。(83年には最も多くのソフトアタリからAtari2600用に発売されている。)

また、もともとテレビゲームは一過性のブームだと思われており、躍進するホームコンピューター市場乗り換えるか、庭用テレビゲーム市場から撤退するという動きが本格化したのも側面の一つである。

実際、アタリ社も当時「Atari400」「Atari800」といったホームコンピュータを発売しているほか、Atari2600コレコビジョンや自社ソフトが好調だったコレコ社も、自社でコレコビジョン上位互換を持つホームコンピュータアダム」を開発している。このハードは不具合が多く大な赤字を生じさせたが、同時期にもうひとつの商品であるキャベツ人形爆発的なヒット記録し、その赤字は帳消しとなった。しかしこのことに気を良くしたコレコ社は、売上は落ちていたもののまだ好調であったコレコビジョンを突如打ち切りキャベツ人形へ注することを選択してしまった(その後キャベツ人形の在庫を抱えて89年に倒産)。

雪とクロ

8384年にかけてアメリカテレビゲーム市場は大きく収縮。82年に30億ドルあった市場規模も、85年には1億ドル以下にまで減少した。

ワーナー社は84年にアタリ社の用部門を、85年には業務用部門をそれぞれ分割売却した。

Atari2600を巡るこの一連の騒動は、日本で「アタリショック」と呼ばれるようになった。

その一方、ホームコンピュータ市場ゲーム専用機市場の衰退をに急成長を続けていた。82年に発売され、その驚異的な高性と低価格で一気にシェアを拡大したコモドール64アタリ失墜後の米国家庭用ゲーム市場覇者となったのである。85年のNES発売後も、コモドール64は北で高い人気を維持し続けた。

崩壊したアメリカ家庭用ゲーム市場は、85年末になって任天堂が参入(アメリカファミコンの商品名は「Nintendo Entertainment System」で、商品名にVideo GameComputerという言葉を入れることを慎重に避けた[1])、続いて86年にセガが参入して再出発することになる。

アタリショックは実際にあったのか?

「?」しかし、後の時代になるとアタリショックについての分析が進み、

などにより、「単にAtari2600スペースインベーダー移植に伴って突発的に売れたのであり、売り上げが減したのは自然なことである」という見方が強くなった。

だが、先述のようなソフトの濫造、それに伴う中古市場への中古ソフトの過剰流入、そして先行き不透明な増産によりアタリショックは始まったのであり、今現在一般に「アタリショック」と言われる際も、このようなマクロ経済的な意味ではなく、単に「急ゲーム離別現」という意味を含めて発言されることが多い。

現在への影響

先ほども述べたように、クソゲーが消費者を激怒させ、財布の紐を締め上げたのは紛れもない事実であり、このことはアタリショックを知るゲーマーゲームパブリッシャーには共通の認識となっている。

過去現在家庭用ゲーム機を提供してきた各社は、ライセンスによってゲーム開発するサードパーティを管理・制限するというビジネスモデルを取っているのは、これが理由である。

よくある誤解

「アタリ社から発売されたゲームがクソゲーばかりで、ユーザーが離れていった」

アタリショックの体はアタリ社、サードパーティーによる需要を読み違えたソフトの濫造にあり、アタリから発売されたゲームそのものがいわゆるクソゲーだらけであったわけではない(もちろん上述のような例外もあるが)。

また、同時期にアメリカではインテレビジョン(80年)やコレコビジョン(82年)、アタリ社からもAtari5200(82年)などが発売されており、アタリ社およびAtari2600だけが市場崩壊の原因であると位置づけるのはいささか不十分である。

「アタリ社はAtari2600の仕様を公開しており、誰でも自由にソフトを開発することができた」

アタリ社は当初サードパーティの参入を想定しておらず、アタリ社から独立した開発者たちがしたActivision社に対して勝手なゲームソフト開発を差し止める訴訟を起こしている。結果として両社は「アタリ社に一定のロイリティを支払うこと」を条件に和解アクティビジョン社は初のサードパーティとなり、これを皮切りに多くのメーカーが参入した。

参入メーカーの多くは独学でプログラミングを習得したり、Atari2600を解析するなどしてノウハウを得ていた。

余談だが、Activision社を創設したのはゲームの売り上げに応じた報酬の支払いをめたが認められなかったメンバーである。アタリ社(ひいてはワーナー社)上層部の理解不足も市場崩壊の一因といえるかもしれない。

「ゲームを評価するメディアがなく、ユーザーは店頭のパッケージだけでゲームを選んでいた」

Atari2600の最盛期である82年から市場崩壊の時期である83年にかけ、アメリカでは多くのテレビゲーム情報誌が発行されている。これらは最新ゲーム情報レビューなどのゲーム情報提供しており、ゲームを評価するメディアが「存在していなかった」というのは正確ではない。また、ビルボード誌による売り上げランキングの発表、ゲーム会社側からのCM、雑誌広告などもあり、現在のようにはいかないが、消費者は多少なりともゲーム内容を知り得る状況であった。

関連動画

関連リンク

関連項目

脚注

  1. *「日本デジタルゲーム産業史」exit_nicoichiba (小山友介 人文書院 2016年版[※旧版]) p.47
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