シンガポールの戦いとは、大東亜戦争開戦劈頭の1942年2月7日から2月15日にかけて行われた、日本軍vsイギリス軍の戦闘である。
シンガポールとは、マレー半島の南端に位置する港湾都市である。マレー半島とシンガポール島の間にはジョホール水道があり、僅かながら半島から切り離されていた。
1824年、シンガポールはイギリスの植民地になった。かの地はインド洋と東南アジアを結ぶチョークポイントで、イギリスも重要性をしっかり理解していた。1923年に巨費を投じて要塞化を始め、10万トンの浮きドックと9隻の駆逐艦を収容できる乾ドックを整備。真珠湾、ヘリゴランド、ジブラルタルに比肩する世界四大軍港に名を連ねた。防御面も強化され、シンガポール島各地に38cm砲5基、24cmキャノン砲3門、15cmキャノン砲14門などを備え付けて海からの侵攻を実質不可能にした。それらの砲門は全て海側に向けられており陸路からの攻撃には弱かったが、シンガポールへ至るにはマレー半島に配置された多数の陣地と英印軍を突破しなければならなかった。まさに鉄壁を誇る難攻不落の要塞。その堅牢さは「東洋のジブラルタル」と評された。英東洋艦隊の根拠地でもあり、軍にとっても交易にとっても重要拠点だった。
1940年には15万を超える陸海軍が駐留。人口は約80万人ほどで、その8割が華僑だった。彼らは中国国民党へ積極的な献金が行っており、日本軍を悩ます厄介な拠点であった。第二次世界大戦が勃発し、本国が大変な事になっている時もシンガポールは平穏だった。難攻不落である事を自負し、毎日舞踏会やパーティーが行われていた。当時は人種差別が激しく、劣等な黄色人種にシンガポールが攻略できるなど夢にも思っていなかった。
しかし1940年11月11日に発生したオートメドン号事件により、日本側にシンガポールの詳細を書いた機密情報が漏洩。シンガポールの強大さを十分熟知した日本側は、開戦前の1941年11月25日に百式司偵Ⅱ型を飛ばして航空偵察を実施。テンガー飛行場、市街地、カラン民間飛行場、セレター地区の軍港と飛行場、センバワン飛行場などを撮影した。
大東亜戦争開戦時、シンガポールにはアーサー・E・パーシバル陸軍中将率いる1万9600名の兵が守備。
1941年12月8日に大東亜戦争が勃発すると、シンガポール要塞は日本軍の最重要攻略目標に定められた。南方作戦を成功させるにあたり、シンガポールの陥落は絶対に必要であった。しかしシンガポールの防備は強固で、開戦前の計算では100日かかるであろうと試算された。沿岸砲があるため海からの攻撃は諦め、陸路での攻略を目指した。
開戦と同時に第25軍がコタバルに上陸。続いてシンゴラやパタニ等にも上陸し、英印軍と激突した。マレー沖海戦による制海権喪失、サイゴンから飛来した一式陸攻の猛爆、マレー半島に張り巡らせた防衛線が次々に突破される等、日本軍の勢いは凄まじかった。本来は撤退と同時に焦土作戦を行う予定だったのだが、あまりにも日本軍の進撃が速いため放送局、飛行場、停泊中の船などは放置された。もちろん、これらが鹵獲されたのは言うまでもない。
慌てたイギリス軍は、シンガポールの防備強化に腐心。ジョホール水道南岸にトーチカを並べ、日本軍の渡河作戦に備えて無数のサーチライトを設置した。また海に向けられていた沿岸砲の一部を内陸側に向け、相手の進軍路を睨ませた。要塞の命綱と言える2つの水源には強固な防衛線が敷かれ、急所を覆い隠した。1月29日、増援として呼び寄せた第18師団と第11英印師団が到着。既にシンガポール北部にまで迫っている日本軍に対し沿岸砲を撃ったが、密林に隠れている相手に効果は薄かった。準備爆撃や戦闘の影響で、当初10万名以上いたシンガポールの防衛兵力は8万5000名にまで減少。その中には後方基地要員の姿もあった。1月31日、日本軍はマレー半島南端のジョホールバルに到達。攻略作戦準備のため一旦進軍が停止し、水道を挟んで対峙する事になった。
2月3日、162機の爆撃機がシンガポールを空襲。もはや戦闘機隊は壊滅状態であり、日本軍機を止められるだけの力は無かった。
1942年2月8日朝、山下中将率いる第25軍が攻略の前兆となる準備砲撃を開始。約20万発がシンガポール要塞に撃ち込まれた。標的になったのは石油タンクと4つの飛行場であった。翌9日、三方向から渡河を行い、沿岸線を守るオーストラリア軍と交戦。干潮で上陸用舟艇が座礁してしまったため、西村琢磨中将率いる近衛師団はマングローブの林を水に浸かりながら水道を渡った。オーストラリア軍以外にも、華僑で編成された義勇軍が守備に就いており、武器が乏しいにも関わらず粘り強く戦った。夕方頃、オーストラリア軍第27旅団を撃破してジョホール水道を突破。シンガポール島へと足を踏み入れた。後続部隊の進入を防ごうと、イギリス軍は橋を破壊して後退して行ったが、工兵によってたちまち修復された。
英第18軍と第11英印師団が救援に向かったが、戦車を前面に押し立てて日本軍は進撃を続けた。日本軍としては2月11日の紀元節までにシンガポールを攻略したい思惑があり、攻撃は性急になりつつあった。
両軍は標高180mブテキマ高地と標高130mのマンダイ高地を巡って激しく戦った。高所を押さえた方がこの戦いを制すると理解していたからだ。英印軍の砲火は非常に強力で、日本軍を釘付けにした。そうこうしているうちに2月11日が経過し、紀元節までに占領したい思惑は失敗に終わった。インド第44旅団と第1マレー旅団を南方のタンリンにまで撤退させたが、イギリス軍は頑強に抵抗を続けた。
2月11日、山下中将の司令部はテンガー飛行場に移設された。市街戦になれば多くの市民が巻き込まれるし、何より第25軍の弾薬や食糧が尽きかけていたので、一度敵将アーサー・パーシバル中将に降伏勧告をしてみる事に。飛行場を飛び立った日本軍機はイギリス軍の司令部に通信筒を投下。中には降伏を勧める手紙が入っていた。しかしパーシバル中将はこれを蹴り、戦闘は続行された。一方でイギリス軍も苦しい戦いを続けており、士気の低下から部隊の統率が困難になりつつあった。パーシバル中将は極東連合軍司令部のウェーベル大将に決断を仰いだが、帰ってきたのは継戦であった。
2月13日、イギリス軍は指名した約3000名の人員をジャワ島へ脱出させようと試みた。その中にはプルフォード空軍少将とスプーナー海軍少将の姿もあった。シンガポールから約80隻の船舶から出港していったが、道中には日本海軍の艦艇が待ち受けていた。必死に抵抗したものの大半が討ち取られ、ジャワにたどり着くことは無かった。プルフォード少将とスプーナー少将は何とか助かって小島へと漂着したが、マラリアに罹患して死亡した。この日、シンガポールの維持を絶望視したイギリス本国の上層部はパーシバル中将に降伏するよう命じたが、従わなかった。2月14日、シンガポール市街では日本軍に奪われないよう様々な砲台が破壊され、機密文書が焼き捨てられた。セレター軍港では浮きドックを沈めたが、完全ではなかった。
戦況は日本側有利で進んでいたが、ここで思わぬ事態が起きる。2月15日、日本側の弾薬が尽きてしまったのである。依然として英印軍は元気に砲撃を加えてくる。軍司令部は一度後退し、弾薬の補給が来るまで攻撃を中止すべきだと考えていたが、山下中将は賭けに出た。弾薬の欠乏を悟られないよう、わずかに残っている弾薬を全て使って一斉に砲撃した。同時に航空隊も攻撃に参加し、軍事施設へ爆弾を落とした。この賭けは成功した。パーシバル中将は日本軍の弾薬が豊富にあると勘違いし、ついに抵抗は無意味だと悟ったのだ。そしてイギリス軍から停戦の申し入れが行われた。どうやらイギリス軍もガソリンや弾薬、食糧が尽きかけており、これ以上の攻撃に耐えられなかったようだ。この日の20時30分、戦闘行為は全て停止した。
イギリス軍はパーシバル中将を代表に立て、ブテキマのフォード自動車工場で山下中将と会談。イギリス軍の降伏を迫る山下中将は「英軍は降伏するのか?イエスかノーで答えよ」と伝え、パーシバル中将は降伏を受け入れた。この瞬間、シンガポールの戦いは終結した。
シンガポールは昭南島に改名し、日本の軍政下に置かれた。ちなみに昭南島は「昭」和に手に入った「南」の「島」の意味である。降伏したイギリス兵の数は(増援を含み)約13万名に上り、ウィストン・チャーチル首相にして「イギリス史上最悪の敗北」と言わしめた。ちょうどこの頃、ドイツ海軍のケルベロス作戦でイギリス海軍の面目が丸潰れになっており、そこへシンガポール失陥の報が飛び込んできたので、イギリス国民は大いに落胆したんだとか。
シンガポールは東南アジア最大の軍港セレターを擁しており、日本海軍の行動に大きな自由を与えた。ここで多くの艦艇が修理・整備を受けていく事になる。イギリス軍は1945年9月頃にマレー半島に上陸してシンガポールを奪還する計画を立てたが、その前に終戦を迎えてしまった。
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