椎(橘型駆逐艦) 単語

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椎(橘型駆逐艦)とは、大日本帝國海軍が建造した改/駆逐艦6番艦である。1945年3月13日工。椎の名を冠する艦は本艦が初。終戦まで生き残った後、ソ連に引き渡されて再就役。1959年11月に退役となった。

概要

駆逐艦とは改とも呼ばれ、ただでさえ簡略化されているを更に簡略化。建造期間3ヶして様々な改良が加えられている。工期削減のため艦首シアを直線にしてフレアを小さくし、ブロック工法と溶接を多用。対と対潜性に重点を置いており、工時から22号電探と13号電探を装備。ソナーには新式の四式水中聴音機と三式探信儀を搭載し、戦況に即した性を獲得。色々と装備した結果、排水量の増加を招いて速力が27.3ノットに低下している。

量産で培われたノウハウは、戦後の造技術を強く支えたという。

艦歴

マル戦計画で改丁駆逐艦として建造が決定し、1944年9月18日に舞で一等駆逐艦第4811号艦の仮称で起工。三交代制による兼行の突貫工事で建造が進められた。12月8日に椎と命名され、1945年1月13日に進3月13日工して舞鶴鎮守府に編入された。実に起工から僅か半年で工に至っており、工員の努力と苦労がえる。だが検をした時に俯仰を伝える電線があべこべに繋がれており、ハンドルを回すと逆に動いたというエピソードがある。工と同時に訓練部隊の第11戦隊へ編入。椎が誕生した頃には既に連合艦隊は壊滅し、本土近ですら敵の魔手が迫りつつある危機的状況であった。

第11戦隊がいる瀬戸内海へ向かうため3月19日を出港予定日としていたが、発電機の不具合で翌20日の出港となった。危険となりつつある日本海を単独で突破し、3月21日に下関峡を通過。22日に徳山で燃料補給を受けるが、積載した重チリやホコリだらけの不良品であり、予定外の積み替え作業や清掃で足止めを強いられた。3月26日駆逐艦や萩とともに徳山を離れ、半にへ到着。乗組員は、軍港の入り口に停泊していた戦艦大和の威容をにして気圧されたという。その後、に入渠して整備を受ける。4月1日、第11戦隊は第2艦隊に編入。4月6日沖縄に向けて出撃する大和率いる第1遊撃部隊の援護を行うべく出港。死出の旅に向かう仲間を送り出した。4月18日、八を出発して出動訓練に従事。4月20日、第1遊撃部隊の壊滅により第2艦隊は解隊され、第11戦隊連合艦隊に所属。4月25日に二度の出動訓練に従事。燃料不足の深刻化により頻繁な出動訓練は出来なかった。更にB-29の機雷投下により下関峡、広島瀬戸内海西部等が機雷封鎖され、行動に制限を課した。

5月10日三度の出撃訓練を行い、5月15日へ入港。5月20日に椎は第11戦隊から除かれ、第31戦隊(旗艦:花月)第43駆逐隊(、槙、、榧)に転属。ようやく訓練部隊から実戦部隊へ配属される事になった。まずは僚艦との編隊航行に慣れるべく、6月4日を出港して駆逐隊の訓練に参加。椎は艦隊の最後尾を航行していた。ところが翌5日、右舷の至近距離で突如水中爆発が発生。B-29が投下した磁気機雷に触れてしまったのだ。乗組員2名が死亡、11名が負傷した。損傷自体は小破で済んだものの機に問題が発生し、戦闘が出来なくなった椎は片舷低速航行でに向かった。6月6日に入港。調の結果、キングトン弁開閉不能、揚錨機や四式射撃装置に破損が認められるなど意外と重傷であった。前のに繋がれ、修理が開始された。続いて機関機の開放修理作業に入った。修理と並行して艦後部に回天1基分の搭載設備を新たに増設している。

6月22日、工を狙ってB-29爆撃機192機が襲。ちょうど機の修理作業を行っていた椎は動く事が出来ず、恐怖の時間が始まった。1トン級の大爆弾のように落とされ、工からは火の手が上がる。もし狙いが外れて1発でも椎に当たれば、即死。乗組員は落ちてくる大爆弾が全て椎に向かってくるような錯覚に陥った。実際、椎の近くに停泊していた団が至近弾でっ二つに引き裂かれている。また至近弾で生じた波しぶきが椎に覆いかぶさる等、肝を潰すような事態も起きた。高分解していたため、椎は全く反撃できなかった。幸い椎に爆弾は落ちず、事に襲を切り抜けた。しかし工ど壊滅し、勤務していた女子挺身隊に多くの犠牲者が生じた。7月1日深夜B-29爆撃機166機が呉市爆撃に停泊していた艦艇は対空砲火を放ち、今度は椎も射撃に加わった。だが椎の奮戦むなしく、地の大部分が焼き払われて壊滅した。

7月20日を出港して瀬戸内海西部へ回航。駆逐艦萩、、樺とともに回天の射出訓練を行う。回天の発射を行い、椎が標的艦を務めた。7月24日地区に警報が発山口県生町にいた椎にもP-51戦闘機13機が襲い掛かり、交戦。戦死者2名と重傷者11名を出したが、艦への被害かった。対戦闘後、椎には偽装隠蔽の命が下った。本土決戦に備え、戦力を温存するためであった。屋代に回航し、「陸軍戦車のような迷彩塗装」を施して係留7月28日、再びに敵機が襲来。に隠れていた椎は難を逃れたが、西方を航行していた血祭りに上げられた。断末魔と思われる煙がの反対側から昇り、椎艦上からも見えたという。7月29日へ入港。前日の襲で要な艦艇は大破着底し、椎には防任務が下された。8月1日深夜、敵の輸送団が伊豆大島北上中との急報が発せられ、出撃準備が行われる。が、のちに誤報と判明した。防任務に従事するべく迷彩塗装から通常の軍艦色に戻す。毎日午前8時30分頃に敵戦闘機が2機1組で出現し、ぼしい獲物を見つけると機掃射を加えてきた。攻撃すると執拗な反撃を受けるため、積極的な射撃は控えられた。8月6日、艦内にいた乗組員は凄まじい大音と遅れて届いた爆にした。広島方向から巨大なキノコが立ち上っていくのが見受けられた。当時は敵の新爆弾とは思われず、「広島付近で弾薬庫が爆発した」と推測されていた。その後、を着用して肌を露出しないようにと特殊爆弾対策が示された。

戦後

8月15日正午にて終戦を迎える。ただ椎では玉音放送を受信出来ておらず、に集結していた残存艦艇が艦尾で一斉に軍艦旗の奉焼を行っているのを見て初めて終戦を知った。各艦から聞こえてくるラッパの音色は、とても悲しげに聞こえた。では徹底抗戦を訴えるグループ航空機からビラを撒いたり、潜水艦が抗戦を訴えるなど穏やかではなかった。彼らから小銃の譲渡をめられたが、砲術長が頑なに拒んで渡さなかったという。10月5日軍艦降下式を経て除籍。戦いは終わったが、まだ重大な任務が残されていた。外地に残る将兵及び邦人600万を内地へ帰還させなければならなかった。航行可の状態だった椎は特別輸送艦定され、復員任務に参加。10月25日を出発し、マニラへと向かった。12月1日、正式に特別輸送艦に任命される。タフパン、釜山、コロ上海沖縄父島などに向かい、1946年12月13日佐世保帰投までに20回以上の復員輸送に従事。多くの将兵を連れ帰った。12月21日に特別保管艦となり、抽選でソ連に引き渡される事になった。
 
1947年7月1日午前8時佐世保港外より出港。海防艦占守、第34号、第105号、第196号、第227号、駆逐艦、榧とともに引き渡し地のナホトカへ向かった。日本海濃霧に包まれていたが、7月4日にナホトカへ入港。在泊中のソ連艦艇は軍艦旗を半降させて敬礼を行った。ソ連側の回航要員が乗り込んできたが、シベリア抑留の話もあり日本側は大変警していた。幸い何事もなく引き渡し業務は進められ、7月5日の出動訓練を以って了。日章旗を降ろして椎は引き渡された。

ソ連海軍ではヴォルニイ(自由償の意)と改名されたが、1949年3月に標的艦TsLに改名。1959年11月に除籍となり、翌年解体された。

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