第1号輸送艦とは、大東亜戦争中に大日本帝國海軍が建造・運用した第1号型/一等輸送艦1番艦である。1944年5月10日竣工。輸送任務に従事するが、7月27日にパラオで空襲を受けて沈没。
開戦当初、本土近海での邀撃を想定していた帝國海軍には「輸送艦」という枠組みが存在しなかった。代わりに輸送船や駆逐艦、容量に余裕がある水上機母艦を使って物資を運んでいたが、ガダルカナル島争奪戦やソロモン諸島の戦いで敵に制空権を握られ、航空攻撃下での輸送を強行した結果、低速の輸送船は軒並み撃沈、駆逐艦は本来の戦闘能力を発揮出来ない問題が浮き彫りとなる。
ここに至り、帝國海軍は敵制空権下での高速輸送を目的とした輸送艦を建造しようと考え、1943年7月下旬から8月上旬にかけて打ち合わせを行って基本計画をまとめ上げ、9月29日に艦型を決定。建造主任には戦艦大和の建造にも携わった西島亮二造船中佐を据えた。
生産性を高めるため、ブロック工法と広範囲に渡る電気溶接を採用、機関は松型駆逐艦の一軸分とし、兵装も必要最低限分のみとされた。艦尾部分にはスロープが設けられ、揚陸作業の際はここから物資を満載した大発や内火艇を水上ないし地上へ発進させる。艦を停止させずとも発進可能という強みもある。また発進の際に傾斜の微調整が出来るよう喫水調整用タンク、注排水装置を持つ。船倉中にはチェーンコンベア式の揚貨装置を、荷役用に5トンデリック4本と13トンデリック1本、5トン蒸気式揚貨機4台を装備して急速揚陸にも対応可能している。
積載能力は補給物資220トン、大発用燃料5トン、大発積載貨物40トン、14m特型運貨船4隻の計310トン。第5号輸送艦を使った実験で甲標的の搭載能力があると立証されてからは甲標的・蛟龍・回天の輸送任務も担う。主砲や魚雷を持たないので対艦能力こそ低いが、戦況に適した十分な対空兵装・爆雷・ソナーは持っているため、輸送艦ながら一定の自衛能力を獲得し、時には護衛艦艇とともに爆雷投下を行う場合も。
要目は排水量1500トン、全長96m、全幅10.2m、喫水3.6m、最大速力22ノット、重油搭載量415トン、乗員148名。兵装は40口径12.7cm連装高角砲1基、25mm三連装機銃3基、同連装機銃1基、同単装機銃4丁、二式爆雷18個。22号水上電探、九三式水中探信儀、九三式水中聴音機を持つ。
1943年11月5日に三菱重工横浜造船所で建造番号550番船として起工、1944年2月5日に第1号輸送艦と命名され、2月8日に進水し、4月24日に阿賀野の元航海長新堀昌夫少佐が臨時艤装員長に着任、そして5月10日に無事竣工を果たした。横須賀鎮守府へ編入されるとともに連合艦隊附属となる。
竣工直後は新堀少佐が艦長を務めていたが、5月18日に軽巡鬼怒の航海長から転出してきた飯川尚介少佐と艦長を交代し、自身は雲龍の艤装員へ転出している。
悪化の一途を辿る戦局は第1号輸送艦に十分な訓練期間を与えてはくれなかった。去る2月17日、トラック島大空襲により同地の根拠地が壊滅した事を受け、大本営はマリアナ諸島での決戦に方針を転換。既に増派が決定している第14師団と第29師団に加えて、関東軍等からも戦力を抽出し、増援用の輸送船も商船から追加徴用して確保した。
5月26日、サイパン島守備隊の主力である第43師団の第二陣と第115飛行場大隊を送るため第3530船団を編制(船団長の大川大佐から取って大川船団と呼ばれていた)。この船団はサイパンに向かった最後の輸送船団だった。陣容は陸軍輸送船高岡丸、はあぶる丸、勝川丸、海軍輸送船たまひめ丸、鹿島山丸、香取丸、給糧艦杵埼、第1号輸送艦の8隻で、護衛兵力は第2海上護衛隊から抽出された水雷艇鴻、連合艦隊から応援に来た第21駆潜隊の第17号(旗艦)、第33号、第55号駆潜艇の4隻だった。小型の駆潜艇では船団護衛が難しいのだが兵力不足ゆえに護衛任務へ投じられた。
5月29日午前2時、第3530船団は横浜を出発。ところが間もなく「横浜港外に敵潜水艦出現」との報が入ったため一旦港内へと引き返す羽目になる。翌30日未明に再度横浜を出港、同日中に館山の燃料廠に寄港して燃料補給、ここで護衛艦艇の第21駆潜隊と鴻が船団と合流した。
そして5月31日にサイパンへ向けて館山を出港。マリアナ諸島への増援を防ぐため道中には米潜水艦が跳梁跋扈しており、対潜掃討を行いながら慎重に歩を進めていく。
6月4日正午頃、ウルフパックを形成する第17.12任務群の米潜水艦シャークが第3530船団を発見し、僚艦のパイロットフィッシュやピンタドを呼び寄せる。シャークはゆっくりと雷撃位置と獲物を見定めつつ第3530船団の左側160mを通過。15時30分、大量の貨物を積んだ勝川丸に4本の魚雷を発射、このうち3本が右舷側へ命中して沈没、第43師団の将兵2884名のうち半数が海没した。沈没地点には救命胴衣を着用した遺体や木片が浮かび上がっていたが、敵潜からの更なる雷撃を防ぐため船団は海域より離脱。
第21駆潜隊の3隻がシャークを探し回ったが逃げられ、浮上したのち追跡を再開、翌5日16時45分にはサイパン島北西550km付近で再びシャークから雷撃を受け、歩兵第118連隊3272名を乗せた高岡丸に3本が命中して撃沈、その直後の雷撃でたまひめ丸も撃沈される。多数の弾薬類を積んでいたたまひめ丸は一瞬にして巨大な火の玉に変じた。第118連隊長が戦死してしまうも、連隊旗手の土井吉定少尉が海に浮かぶ連隊旗を確保した事で「万歳」の声が上がった。第1号輸送艦は爆雷を持っていたので第33号や第50号駆潜艇とともに対潜掃討を実施した。シャークは爆雷攻撃を回避したものの接触を失って第3530船団を取り逃がす。
6月6日午前10時10分、サイパン北西200海里で今度はピンタドが重なり合う2つの目標へ向けて6本の魚雷を発射、3本ずつが鹿島山丸とはあぶる丸に命中。煙と炎に巻かれながら船体をV字に折って2隻とも沈没した。船から漏れ出た重油にも引火して周囲の海まで燃える地獄絵図だったという。飛来した味方の対潜哨戒機と第1号、鴻、駆潜艇3隻が50発以上の爆雷を投じるも、ピンタドは何ら被害を受ける事無く離脱に成功。第3530船団は加入船舶10隻のうち5隻が撃沈される大損害をこうむった。
同日夜、はあぶる丸の生存者救助が行われたが、沈没時に火災が発生した影響で、生存者は総じて火傷を負ってしまっていたと伝わる。十数時間も海水に漬かっていた生存者たちは歯をガチガチ鳴らしながらボイラーに抱きついて暖を取る。翌朝にはせっかく助かったのに寒さで凍死してしまう者も散見され、一人ひとり袋に入れて水葬。
惨劇を生き残った第1号、香取丸、杵埼と護衛艦艇は6月7日にサイパンのガラパン新桟橋へ到着。担架を乗せた大発が港内を走り回って負傷者の収容にあたる。7000名以上の兵士が救助されたが、負傷者や火傷を負った者が多く、丸腰で疲れ果てた傷病兵の姿を見るや、接待に来た婦人会も目を背けた。第43師団の3分の1が輸送船とともに沈み、32cm臼砲16門、25cm臼砲26門、多数の弾薬を喪失した事でサイパンの防衛計画に悪影響が生じてしまった。
こうして目的地のサイパンまで辿り着いた第1号輸送艦だったが、この場所も決して安全な場所ではなく、6月9日、彩雲による敵泊地偵察を行ったところ、メジュロ環礁にアメリカ艦隊の姿が見受けられず、既に何処かへ出撃したものと判断。帝國海軍はマリアナ所在の船舶で臨時の輸送船団を編制して島外への脱出命令を出した。
本土へ直接向かう最大規模の第4611船団(サイパンから引き揚げる邦人も乗っていた)、奄美大島へ向かう杵埼船団、サイパンからパラオへ転進する第343航空隊を乗せた廣順丸船団の3個船団が作られ、第1号は廣順丸船団に属した。また、あまりに早い出港命令から船団の殆どは積み荷の揚陸作業が中途半端になってしまったものの、第1号は自前の揚収用デリックを持っていたためいち早く作業を終え、その甲斐あって、最も出発が早い廣順丸船団へ加入する事が出来た。この脱出船団に加入出来たかどうかで明暗が分かれるのだった。
6月11日午前3時、船団の出発に先立って第1号輸送艦は湾口を出発し、対潜掃討を行って前路の安全を確保。午前4時40分にサイパンから廣順丸、明島丸、特設駆潜艇第11昭南丸、第6号及び第16号海防艦からなる廣順丸船団が出発、湾口で合流して第二航行隊形を組む。船団の指揮は第1号が執った。午後12時25分、米機動部隊が大宮島90度300海里沖で活動中の情報が入り、舳先を西方に向けて退避行動を取る。
廣順丸船団は3個船団の中では最初に出港しており、これが功を奏した。グアム東方まで進出していた米第58任務部隊は奇襲とするため、普段は早朝より空襲を行う予定を13時まで遅らせ、定刻になると190機の敵艦上機がサイパンへ襲来、不意を突かれた基地航空隊は有効な反撃を行えないまま、アスリート飛行場に駐機していた航空機を壊滅させられた。脱出が早かったおかげで廣順丸船団は空襲から逃れる事に成功した訳である。
しかし敵の物量は凄まじかった。翌12日午前2時40分から5時間に渡って延べ1400機がマリアナ各島を徹底的に爆撃。一部が廣順丸船団付近に現れ、午前7時25分と15時40分にそれぞれ敵艦上機2機が発見されるも、幸い攻撃はされなかった、16時30分、第1号は船団に対し敵潜水艦への警戒を厳にするよう指示。
6月13日午前10時32分、ウルシーとグアムの中間、マリアナ南西部でF6Fヘルキャット21機に襲われて対空戦闘、第1号輸送艦は命中弾を受けて大破航行不能に陥る。伴走者の第11昭南丸も被弾、艇長以下8名が戦死すると同時に航行不能となったため、14時50分、第1号は第11昭南丸の曳航を廣順丸に依頼し、自身は明島丸に曳航を依頼、以降の指揮は第6号海防艦が引き継いだ。
6月14日17時30分、パラオ及びヤップに空襲の予兆が認められたため船団は西方へと退避。翌15日午前10時5分にパラオに向けて出発。6月16日午前9時10分、船団後方2万mに敵大型機2機が発見されるも幸い攻撃は行われず、同日夕刻にパラオから派遣されてきた第12号駆潜艇が合流、そして6月17日15時10分、パラオのヨオ水道に到着。第12号駆潜艇、明島丸、第1号輸送艦、廣順丸、第11号昭南丸、第6号海防艦、第16号海防艦の順に入港した。
ちなみにサイパンから脱出出来なかった海軍輸送船慶洋丸、睦洋丸、第10号特務敷設艇は熾烈な空襲で沈没してしまっている。
その後は在パラオ港務部に引き渡されたが、およそ3ヶ月前のパラオ大空襲で基地機能は失われ、工作艦も内地にいる白沙以外全滅という惨状だったため、現地での修理や内地回航はもはや絶望的と言えた。ここに第1号の命運は窮まった。こうして廣順丸船団が去った後もパラオに残留。
7月18日、アメリカ軍が掃海不能の感応機雷を大量に敷設した事で放棄されたガランゴル島マラカル湾の北側錨地へ移動。海岸線の一部に見えるよう樹木でカムフラージュを施しつつ敵上陸に備えた砲台となる。
アメリカ軍はパラオ攻略を企図したステイメイトⅡ作戦を9月に予定していた。本格的な攻略を開始する前に写真情報の更新と西カロリン諸島方面の日本艦船攻撃を行うべく、第58任務部隊によるスナップショット作戦を開始した。
7月25日午後12時15分、司令部より敵空母2隻を含む機動部隊がヤップ160度110海里沖で出現したとの通達があり第一警戒配備が下る。時置かずして第58任務部隊は艦上機を放ち、パラオ、ヤップ、ウルシー、コロールの広範囲に渡って飛行場と在泊艦船を攻撃。パラオには14時25分頃襲来した。空襲の中、第11昭南丸がマラカル湾に向けて退避しようとするも、水道上にて高さ3.5mの水柱が築かれるのを目撃し、磁気機雷が敷設されていると直感、マラカル退避を断念した。また15時10分、マラカル湾にも敵機の魔手が及び、特設掃海艇高砂丸が応戦した他、特設駆潜艇第5昭和丸が灯台付近で撃沈された。17時に空襲警報解除。
翌26日午前6時8分に空襲警報発令。間もなくマラカル湾にも敵機が襲来した。敵空母レキシントンⅡ所属のヘルダイバー6機が湾内で偽装中の第1号を発見して攻撃、対空射撃もむなしく直撃弾1発と至近弾5発を受ける。この時、ホール中尉の駆るヘルダイバーがマラカル港上空で撃墜されてパラシュート降下するも、そのまま消息不明となった(第1号輸送艦の戦果かどうかは不明)。17時35分に空襲警報解除。
一等輸送艦は上空から見ると巡洋艦と見間違われやすくアメリカ軍は第1号輸送艦を過大評価。第二波攻撃に打って出た。
1944年7月27日午前5時56分、マラカル湾上空に敵編隊が出現。当初は地上の船渠や工作部ばかり狙って銃爆撃を行っていたが、やがてレキシントンⅡとバンカーヒルから出撃したヘルダイバーとアベンジャーが第1号輸送艦に襲い掛かり、4発の2000ポンド爆弾を叩き込まれ、艦体が真っ二つにへし折れて撃沈される。生存者・戦死者ともに不明。
9月10日除籍。1番最初に誕生して1番最初に喪失した一等輸送艦であった。
第1号輸送艦の残骸は2015年の時点でもマラカル湾に沈んでおり、艦内に信管15個と薬莢25個が残されている事が外務省の調査で判明、写真情報を含むデータをパラオ政府に提出している。
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