T-72とは、旧・ソ連軍(ソヴィエト連邦)の主力戦車(MBT)である。
125mm滑腔砲「2A46M」を装備し、V12気筒ディーゼルエンジン780馬力で機動する第2世代戦車。
41.5tと軽量であり、また車高も約2.2mと低い。最高速度は時速60㎞前後で、これも当時の戦車の中では最速に近かった。(ドイツのアウトバーンで、調速機を外して走行実験を行ったところ、時速110㎞の路上最高速度を計測したとされている。)
制式採用後も改良が続けられ、1980年代には爆発反応装甲(リアクティブアーマー)が装備された。
1970年代からソ連の崩壊までワルシャワ条約機構加盟国を始めとする旧東側陣営で数多く輸入、ライセンス生産され、現在も数多くが現役として使用されている。ただし、諸外国へ輸出、またはライセンス生産されたものにはスペックダウンが施されており、これらはモンキーモデルと呼ばれている。
また、派生型や各国で独自の改良を加えたものなどバリエーションも多い。(ただし、同じT-72でもこれら派生モデルの間では部品規格が違ったために、融通が利かなかった。またソ連末期には純正部品の供給も滞ったため、兵站上に深刻な問題を抱えていた。)
湾岸戦争とその前段階であるクウェート危機では、フセイン大統領麾下のイラク共和国軍、親衛隊の主力戦車として実戦に参加。
当初、多国籍軍側はT-72の持つ125㎜主砲の威力に脅威を感じていたが、その内実は威力・射程共にM1エイブラムス(M1A1)の120㎜滑腔砲に大きく劣るものだった。また夜間暗視装置の性能においても、西側戦車(M1エイブラムスは勿論のこと、英軍のチャレンジャー1戦車など)に大きく劣っていた。
その結果は惨憺たるもので、73イースティングの戦いなどで、T-72は多国籍軍戦車や装甲車に一方的に撃破されることとなった。その悲惨なまでの負けっぷりは、旧ソ連製兵器に対する国際的信用を失墜させることになった。(この時にイラク軍が保有していたのは、純正モデルよりも性能の低いモンキーモデルであったが、仮に純正モデルであったとしても結果は大して変わらなかっただろう。)
ソ連崩壊後のチェチェン紛争では、ロシア連邦軍のT-72(もちろん純正モデル)が紛争鎮圧に出動。だがここでもT-72は同じロシア製兵器であるRPG-7などに容易く撃破された。(これに対しては、ロシア軍の予算不足によって戦車兵の練度不足が慢性化していたためという見方もあるが・・・)
またいずれのケースでも、T-72は生残性における致命的な弱点・・・砲弾を車体下部に収納するという点を突かれて撃破されている。車体高の低いT-72は、どうしても砲弾を車体下部に、燃料の入ったドラム缶やジェリ缶を車体外部に搭載して運用しなければならなかったのである。
湾岸戦争においてもチェチェン紛争においても、T-72は撃破された際、砲塔が車体から大きく跳ね飛ぶことが多かったという。これは、車体内部に積載された砲弾や燃料が、被弾により爆発したものである。撃破された際のT-72の模様を、多国籍軍兵士は『ジャック・イン・ザ・ボックス(びっくり箱)』と呼んだ。
だが、こういった生残性における大きな欠点を残したまま、T-72シリーズはT-80やT-90といった発展改良型に姿を変えて、現在も生産されている。(生残性や居住性よりも、その他の性能を優先させるところは、T-34から連綿と続くロシア製戦車開発の伝統でもある。元々、人命が糞よりも安いお国柄なので、仕方ないことだが。)
かつて赤軍機甲部隊を質量の両面でリードする存在だったT-54/55であるが、その実態は数々の欠点を抱えた問題兵器でもあった。また、西側諸国もT-54/55に対抗して次々と新戦車を開発しつつあり、その能力向上を急務と考えた軍は、この任務に向けたプロジェクトチームを組織する。そのメンバーの中に、ウラル設計局を率いるレオニード・カルツェフというちょっとマッドの入った技師がいた。この男、戦車技術者として有能なことには疑いのない人物なのだが、一方で目的のために手段を選ばない所業の数々で知られた問題児溢れる行動力で有名なやり手でもあった。彼はT-54/55の最大の問題点の一つであった主砲を新型に換装する改修プランをぶち上げると、それに合わせた新型砲塔と新車体を作ってしまったのである。
待たなくても新型車輌である。そもそもカルツェフが命じられていたのはT-54/55の改良であり、新戦車の開発ではない。T-54/55に代わる新戦車は、きちんと別の命令によって開発されていた。担当はハリコフ設計局。かつて救国の傑作機T-34を生み出したコーシュキン技師を開祖に仰ぐ、ソ連戦車開発の家元とも言うべき由緒正しい設計局だ。当然、相応のプライドも意欲も技術力もある。彼らは偉大な師の名声を汚すまいと、新戦車に画期的な新技術を次々と盛り込み、その優秀性をアピール。軍も大いに期待を寄せていた。しかしカルツェフが造ってしまった新戦車(と言うしかないだろう)は、このプランを見事に差し置く形となったのである。ハリコフ設計局の面子は丸潰れで、おかげでカルツェフは随分と恨まれることになる。
当然、この横紙破りは軍からも問題視された。カルツェフは業務を私物化した容疑で告発され、査問会に召喚される。が、このときカルツェフの特技の一つである口先八丁が炸裂する。彼は「T-54/55の小手先の改良は最早限界だ。私のプランによって、科学的・技術的・共産主義的に正しい姿になったのだ」と堂々主張し、この言い訳言い分が認められて、シベリア送りを免れるのである。
まあ、期待のハリコフ製新戦車が新技術の盛り込み過ぎで七転八倒を重ねて遅延しまくっていたため、軍、そしてソ連政府としてもT-54/55からの繋ぎとなる&同盟国への輸出供与用に手頃な見せ球改良型戦車は欲するところであった。何より、カルツェフの新戦車は既存のT-54/55用インフラ(製造ライン、予備部品、道路・橋梁設備、回収車など)が大幅に流用できるのである。非常に魅力的なプランだった。かくして共産党書記長までを巻き込んだ数々の政争を引き起こした果てに、この新戦車はT-62という名を与えられて制式採用の運びとなった。
七転八倒のハリコフ新戦車だったが、何とか完成のメドが立ちつつあった。革命的新型戦車T-64の誕生である。主に信頼性や人間工学の点で数々の問題は残していたものの、それらは政治のヴェールによって巧みに覆い隠され、ハリコフ設計局は何とか面目を保つ形となった。一方その頃、カルツェフは一つの命令を受け取っていた。
「やっと俺が認められる時代が来たぜ!」と喜び勇んで本気を出したカルツェフは、持てる技術と知恵の全てを注ぎ込んで新戦車の開発に取りかかった。ガスタービンエンジン駆動ウルトラスーパーデラックスガンランチャー搭載戦車・T-67である。
……んで、この小っ恥ずかしい能書きに違わず、新戦車開発は見事に失敗した。カルツェフの実力を以てしても、T-64と同じ路線のハイテク戦車を短期間でモノにすることはできなかったのである。ウラル設計局はこの責任を問われ、今後一切の新型戦車開発に関わることを禁止されてしまう(シベリア送りにならなかったのは、T-62を造りあげた功績が評価されたのかもしれない)。この処置は紛れもない左遷であり、「やったらシベリア送り。特にカルツェフ」と名指しで念まで押されるという徹底ぶりであった。
が、当然ながらこの程度のことで懲りるようなカルツェフではない。彼は当座与えられていたT-62の近代化改修という仕事にかこつけ、開発中の新型砲の実物をこっそり調達して、勝手に自動装填装置とそれを搭載する新型車体を造ってしまったのである。当然、これがバレればシベリア送りは免れない所業であった。
その頃、ソヴィエト中央政府のズヴェレフ輸送機械工業大臣は怒り狂っていた。期待の新戦車と軍が吹聴するT-64を視察に行ってみれば、よりによって目の前でエンコして動かなくなるという体たらくを目の当たりにしてしまったのである。腹の虫が治まらないズヴェレフは、ハリコフ設計局にカミナリ落とすついでに、いっちょ問題児達をシメてやる! と抜き打ちでウラル設計局に乗り込んできた。
すると、なんということでしょう! 「だからあんなのに頼っちゃいけないんだよ!」とばかりに、自動装填装置付きの新型砲システムを載せた試作車輌がスイスイと動いているではありませんか。激怒したズヴェレフ大臣はドヤ顔で出迎えたカルツェフに掴みかかり、ソヴィエト戦車行政のトップと当代一流の戦車技師による前代未聞の大喧嘩が勃発した。
……数時間後。年甲斐もなく拳で語り合った末に意気投合した二人は、颯爽とウォッカ片手に試作車輌を乗り回し、ヒャッハーと125mm滑腔砲をぶっ放していた。どうしてこうなった。
かくして本気でカルツェフをシメにウラルくんだりまで出向いたつもりが、ロシア式のハグを交わしてウォッカを酌み交わし、追加試作の許可まで出してしまったズヴェレフ大臣だが、意気投合したのもつかの間。数ヶ月後、怒髪天を突いてカルツェフをモスクワに召還した。
なんとカルツェフは、試作車輌の制作許可(あくまでT-62の改修が名目)にかこつけて、大臣の名前で新型エンジンとトランスミッション、サスペンション、履帯、転輪の開発にGoサインを出してしまったのである。「今度という今度はシベリア送りだ!」と息巻いて査問会を招集するズヴェレフ大臣。さしものカルツェフも、どう考えても年貢の納め時かと思われた。
しかし、この関係者全員のシベリア送りが懸かった査問会の席上で、カルツェフは一世一代の大演説をぶちかます。彼は居並ぶ軍高官や党幹部の御歴々の前で、T-64の要素開発に始まり生産体制全般に至るまでの不良箇所とその隠蔽の事実、それにまつわる政治的スキャンダルの洗いざらいを逆に告発したのである。その上で、自分が開発中の新戦車とT-64の信頼性データの比較結果を突きつけて査問委員達を説得し、シベリア送りの筈が正式な試作車輌の製造許可を取り付けてくるというダカールの日もかくやの逆転大勝利を収めてしまったのだ。
T-72誕生の瞬間である。
なお、上記を含めてT-72量産型がロールアウトに漕ぎ着けるまでの間に、カルツェフとズヴェレフ大臣の間には、
「カルツェフ、貴様またやったのか! 査問会だ! シベリアだ!」
↓
拳での語り合い
↓
「ハラショー同志! 試作車出来良いな! また撃ちに行くか!」
というイベントが最低でも都合10回に渡り繰り広げられたことを付け加えておく。誰か何とかしろこいつら。
かくして大逆転勝利をつかみ取ったカルツェフに、ある日一通の辞令が届いた。
ハリコフ設計局と言えば、ソヴィエト戦車開発の花形部局。普通に考えれば紛れもない栄転であるが、考えてみればカルツェフとハリコフ設計局は不倶戴天の仇敵である。何の嫌がらせかと思うような人事だった。
流石に気が引けたか、カルツェフはこのポストを辞退。T-72の開発も、以後は弟子のベネディクトフ技師に任せることとなる。そこに飛び込んだ二通目の辞令。
何考えてやがるソヴィエト政府、気は確かか。今度はそうツッコミが入りそうな人事ではあるが、この辞令の主犯は誰あろう、あのズヴェレフ輸送機械工業大臣であった。
実はズヴェレフ大臣は、このときプロジェクトが乱立し過ぎて収拾が付かなくなりつつあった試作戦車開発を一気に整理統合しようとしていた。独断専行と横紙破りの常習犯ではあるが、そうであるが故に有能さと行動力は確かで気心の知れた(何せ拳で語り合った仲だ)カルツェフは、そのための右腕としてうってつけの人材だったのである。
かくして、幾度ものシベリア送りの危機を口先八丁と強引なまでの行動力で切り抜けたカルツェフは、見事に大逆転を果たして出世街道を上り詰めることとなった。ちなみに、ズヴェレフ&カルツェフのコンビによるガスタービンエンジン戦車開発の一本化を受け、ハリコフ設計局がカルツェフに学べを合い言葉に、T-64の信頼性向上改修にかこつけて、似たような手管でT-80を開発してのけるのだが、それはまた別の物語である。
……と、波瀾万丈のサクセスストーリーのもとに開発されたT-72ではあるが、見方を変えれば変人一人のために超大国の主力戦車開発がモノの見事に翻弄されっぱなしということでもある。ひょっとしてKGBが守り通していた鉄壁の軍事機密とは、恥ずかしくて外に出せたもんじゃない身内の恥を断じて漏らさぬための、血の滲むような奮闘の成果だったのかもしれない。
掲示板
387 ななしのよっしん
2024/05/08(水) 15:54:00 ID: GtPDCjRaRd
>>383
それくらいできる国ならアフガニスタン侵攻の死傷者9万程度屁でもなさそうなのにどうしてああなった…
388 ななしのよっしん
2024/05/08(水) 15:57:39 ID: xSqK7dNq6U
>>333
T-62やT-55は近代化したところでドローンにも勝てないというな…
これからはゲリラ兵相手にもキツイかもしれない
389 ななしのよっしん
2024/09/29(日) 15:54:13 ID: fsq+ELjVvh
>387
アフガンは何人死んだ以前に、足かけ9年続いたことの方が大問題なんだよ
ダラダラと戦費垂れ流した事が致命的だった
急上昇ワード改
最終更新:2024/12/01(日) 04:00
最終更新:2024/12/01(日) 04:00
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