エミュー戦争とは、1932年11月2日から12月10日にかけて行われたオーストラリア陸軍vsエミューの戦いである。なおオーストラリアが負けた。
エミューとは鳥綱ヒクイドリ目ヒクイドリ科エミュー属に分類される鳥類で、ダチョウのように二足歩行するが飛べない鳥の一種。体長2メートル、鳥類の中ではダチョウに次いで大きく、主に平地の砂漠地帯や林を住処とし、舞台となるオーストラリアにも全域に渡って生息していた。
時は第一次世界大戦後の1920年代。戦争が終わり、帰郷したオーストラリア出身の在郷軍人や、イギリス人退役兵は、オーストラリア政府が実施した、平均1500エーカーの農地を無利子で貸与する制度を利用し、西オーストラリア州の辺境地域で農耕をして生計を立てていた。しかし1929年に世界恐慌が襲来。彼らが生産していた小麦価格が暴落し、政府の助成金を以ってしても価格は下がり続けて農家の生活は一気に苦しくなる。
そこへ追い討ちをかけるように、冬の繁殖期(オーストラリアでは6月から8月頃)に合わせて、2万羽にも及ぶエミューが内陸部から西オーストラリア州に大移動。高い生命力と俊敏な足を武器に、手入れが行き届かない畑、特にキャンピオン地区とウォルグーラン地区の畑を次々に荒らし、防護柵を破壊して、農作物を片端から食い尽くしていったのである。家畜用の水まで飲み干す徹底ぶり。農家にとってはまさに泣きっ面に蜂の事態で、想像を絶するエミューの大群を前にただ茫然とするしかなかった。
そこで農家たちは代表者を立て、国防大臣ジョージ・ピアース卿と面会。農家は自身の従軍体験から機関銃が有効だとし、カンガルーの駆除に実績を持つ機関銃部隊の派遣を要請した。ピアース国防大臣はエミューが射撃訓練の良い的になる事、西部での分離主義者の動きを牽制する目的で、「部隊輸送の費用は西オーストラリア州が受け持つ」「農家は食糧、家、弾薬費用を提供する」「銃器は軍人が取り扱う」といった条件付きで部隊派遣を承認。
シドニーの軍本部から「軽騎兵隊員の帽子作り用にエミューの皮100枚を収集せよ」との命令を受け、オーストラリア陸軍砲兵隊重砲兵第7中隊グウィニッド・パーヴス・ウィン=オーブリー・メレディス少佐とS・マクマリー軍曹、J・オハローラン機関銃手、ルイス軽機関銃2丁、弾薬1万発が派遣された。ピアース国防大臣は、短期間で軍が目標を達成するだろうと自信を見せ、この勝利を記録するべく、キャンピオンにカメラマンを贈っている。
こうして軍隊vs鳥類という史上例を見ない奇天烈な戦争が幕を開けた。軍隊が動員されたため、一連の駆除行動はエミュー〝戦争〟と呼ばれる。
1932年10月末、メレディス少佐たちを乗せた2台のトラックがキャンピオンの麦畑に到着。ところが10月31日に突然降り始めた大雨のせいでエミューの群れが分散してしまったので作戦を延期。雨が止んだ11月2日に作戦を開始。さっそく50羽ほどの群れを発見し機関銃による一斉射撃でエミューを攻撃。
当時エミューは「世界で最も愚かな鳥」と呼ばれていて簡単にカタがつくと思われた。しかしエミュー側は銃撃を回避すべく、分散するように時速50km/hで逃走、まるで知能が備わっているかのような動きを見せてきたのである。加えてエミューの耐久力はとても高く、瀕死の重傷を負っていても機動力は衰えなかった。後にメレディス少佐は「エミューは機関銃に戦車の不死身さをもって立ち向かう事が出来る」と評している。この日はおよそ十数羽の射殺に成功した。
11月4日、伏兵を配置している地点に向かっている1000羽以上の大規模な群れを発見。獲物から近づいてきてくれる絶好のチャンスが訪れたのだ。機関銃手は十分に引き付けてから引き金を引く。が、天運に見放されたのか、12羽を射殺したところで機関銃が故障、その隙を突いてエミューの群れは離散し、これ以上の戦果は挙げられなかった。危険を察知したのかエミューの群れは姿を消した。
メレディス少佐はエミューを探して南方へ移動。それから数日間駆除を行うも戦果は限定的だった。エミューの機動力は想像以上のものであり、機関銃の連射ですら上手く当たらないのだ。更に言えば、羽毛の豊富さから巨体のように見えるエミューだが、実際は人間の肩幅程度の体しかなく、当たり判定が見た目以上に小さい。
敵の機動力についていくべく、機関銃の1丁をトラックに載せて銃撃を試みるも、巻き上げられる砂塵や振動に阻まれ、またエミューも狙いを定めにくいよう群れを小分けにして逃げたため、命中率は一桁台にまで転落。弾薬ばかりがむなしく空費されていく。そうこうしているうちにエミューの反撃で機関銃トラックが破壊されてしまった。
学習し始めたのかエミュー軍団は何とゲリラ戦法を展開。群れは幾つかの小グループに分かれ、あちこちで農作物を食べ始めたのだ。最も背が高いエミューが指揮官となってオーストラリア軍を警戒し(エミューの視力は1km先まで見える)、群れが攻撃を受けたら、その群れを囮にして、他の群れが麦畑を蹂躙して農作物を食い荒らす。動物とは思えない戦略的行動にオーストラリア軍は次第に疲弊・戦意を喪失していった。
この珍妙な戦争は世界中に知れ渡った。先述のとおり当時エミューは「最も愚かな鳥」と認識されており、勝って当然と思う人々の意識とは裏腹に、オーストラリア軍は思うように戦果を挙げられていなかった。弾薬の消費に見合わないしょっぼい戦果のため、11月8日の連邦議会本会議では、費用対効果の低さを追及され、地元メディアも否定的に報道、中には戦果が「僅か数羽のみ」と報じるものもあり、ピアース国防大臣は作戦の一時中止を決め、翌9日に部隊を撤収させた。
その間にもエミュー被害は拡大。農家から嘆願が寄せられ、これを西オーストラリア州のジェームズ・ミッチェル首相が支持したので、再び部隊が派遣される事に。
11月13日にルイス少佐率いる部隊が「戦場」に到着。最初の2日間で約40羽のエミューを殺害した。第二次作戦では比較的順調に戦果を挙げられ、約1ヶ月で約500羽を射殺。部隊が帰投する12月10日までに銃弾9860発で986羽を殺害、また銃撃で負った傷が原因で、後に2500羽が死亡したと言われる。
とはいえ、2万羽を駆除するには到底見合わない戦果であり、国防費の無駄遣いにしかならなかったからか、連日野党が政府を追及、イギリスのロンドン・タイムズ紙は「世界で最も愚かな戦争」と揶揄し、エミュー戦争は(悪い意味で)流行語となった。そのせいか以降農家の要請があっても政府は軍を送らなかった。農家は半ば見捨てられる形となり、エミュー被害から立ち直れなかったキャンピオン地区は後に廃村化したという。1953年、サンデー・ヘラルド紙は「西オーストラリアのエミュー戦争は、オーストラリア軍の最も悲しい失敗の一つ」と締めくくっている。
こうして勝者となったエミューだが、それは一時のものに過ぎなかった。1934年、政府は農夫に駆除用の弾丸を支給し、第二次世界大戦以降は政府が賞金制度を導入した事で、1960年までに28万4000羽が駆除される。その後も彼らは個体数を減らしていき、2018年には絶滅危惧種を意味するレッドリストに入ってしまった。現在でもエミューによる食害が発生しているものの、野生の個体は法によって保護され、中にはステーキ肉にするため家畜化されているエミューもいる。
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最終更新:2025/12/24(水) 03:00
最終更新:2025/12/24(水) 02:00
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