ヨハン・クライフ 単語


ニコニコ動画でヨハン・クライフの動画を見に行く

ヨハンクライフ

5.3千文字の記事
これはリビジョン 3397560 の記事です。
内容が古い・もしくは誤っている可能性があります。
最新版をみる

ヨハン・クライフ(Johan Cruijff, 1947年4月25日 - 2016年3月24日)とは、オランダの元サッカー選手、元サッカー指導者、サッカー界の辛口ご意見番。元サッカーオランダ代表。

ポジションはFW、MF。178cm65kg。利き足は右足。

概要

オランダ・アムステルダム出身。リヌス・ミケルス監督が考案した「トータルフットボール」の体現者としてサッカー史にその名を残す名選手である。フランツ・ベッケンバウアーと共に1970年代を代表する選手であり、バロンドールを3度獲得。名言が多いことでも知られる。相手のタックルを柔軟なボールタッチやフェイントで飛び越えたプレースタイルに由来する「空飛ぶオランダ人(フライング・ダッチマン)」という異名を持つ。

アヤックスのユース出身で1964年にトップチームにデビュー。2度のエールディヴィジ3連覇、1971年から1973年のUEFAチャンピオンズカップ3連覇を果たす。1973年にFCバルセロナに移籍。カタルーニャが気に入ったようで息子にジョルディというカタランの名前をつけている。
その後アメリカやオランダでプレーし1984年に引退。

1986年から1988年までアヤックスで監督を務め、1988年から1996年までFCバルセロナを率い、とくに1991年から4連覇を達成している。バルセロナ以降は監督業からは離れている。

オランダ代表としては1966年にデビュー。FIFAワールドカップには1974年の西ドイツ大会のみの出場となったが、この大会でこれまで目立った成績を残していなかったオランダを決勝まで導いており、優勝は逃したものの与えたインパクトは大きく、後のサッカー界の潮流に変革をもたらしたと言われている。

選手としても監督としても攻撃的サッカーの信奉者であり、ジョゼップ・グアルディオラなど彼の思想の影響を受けた指導者も多い。現代に至るまでバルサの哲学に多大な影響を与えた人物であり、その育成組織である「ラ・マシア」の概念に深く関与し<ている。

2016年3月24日、肺がんとの闘病生活の末に、スペインのバルセロナで家族に見守られながら、息を引き取った。68歳だった。

なお、日本では2014年から2016年まで「ビッグコミックスピリッツ」においてクライフの哲学を題材としたサッカー漫画『夕空のクライフイズム』という漫画が連載されていた。

経歴

生い立ち

1947年4月25日、アムステルダム東部のベトンドルプという労働階級の多い街で次男として生まれる。実家は青果店を営んでいたが、生活は困窮しており恵まれた環境ではなかったが、2歳年上の兄や近所の友人達と毎日のようにストリートサッカーに興じてテクニックを磨いていた。

100mほどの場所にアヤックス・アムステルダムのホームスタジアムや施設があり、遊び場として頻繁に施設の中を出入りしていた。試合があるときにはボールボーイを務め、トップチームの選手たちのスパイクを磨き、自ら率先して使い走りをしたりしているうちにアヤックスの選手やスタッフたちから可愛がられ、マスコット的な存在となっていた。なお、後に恩師となるリヌス・ミケルスとは彼がまだ現役だったこの頃に出会っている。

サッカーの技術は日に日に向上しており、少年時代は華奢な体格で実際の年齢より幼く見られたほどだったが、ストリートサッカーで身に付けたテクニックはこの当時から話題となっていた。

10歳の誕生日である1957年4月25日、兄の後を追う形でアヤックスの下部組織に入団。当時入団するには合格率1%といわれた入団テストを合格しなければならなかったが、クライフの実力を知っていたユースチームの監督の推薦という形でテストなしでの入団となった。当時の憧れの選手だったアルフレッド・ディ・ステファノやファース・ウィルクルスをお手本に練習に励んでいた。

12歳となった1959年7月8日、父親が心臓発作によって45歳の若さで急死。家族全員が突然の出来事にショックを受け、クライフも立ち直るまでにかなりの時間を要したといい、父の墓前に語り掛けるようになり、架空の対話を通じて父の魂とともにあり見守られているのだと確信していたという。母や青果店を手放し、アヤックスの施設で清掃員として働いたり、家政婦を勤めて家計を支えていた。その後、母親はアヤックスの用具係である男性と再婚。この男性は幼少の頃から交流のある人物で、彼の存在が一家の家計と共に落ち込んでいたクライフを救う存在となっていた。

当時のアヤックスには野球部門があり、クライフも1番キャッチャーとしてサッカーがオフシーズンのときには所属していた。野球でも15歳以下のユース代表に呼ばれるほどの実力があり、将来メジャーリーグでプレーすることも考えるほどだった。15歳までは野球を続けていたが、オランダ国内においてサッカーのプロ化の機運が高まったことを受けてクラブが野球部門を廃止したため、サッカーに専念することになった。

15歳のときにユースチームに昇格。当時のクライフの体格は同年代のチームメイトと比べても華奢で細く、トップチームの監督だったヴィク・バッキンガムからはジムに通うように促されたり、必要な栄養を摂取するようアドバイスを受けていた。とはいえ体格のハンディを完全に克服することはできなかったが、ストリートで培った非凡なテクニックによってチームのエースとなり、センターフォワードとして1シーズン74ゴールという驚異の得点力を記録。1963-64シーズンにはユースの全国大会で優勝している。

アヤックス

16歳となった1964年、アヤックス・アムステルダムとプロ契約を交わす。クラブから寄せられた期待は大きく、プロ契約は当時アマチュアやセミプロが主流だったオランダサッカー界において2人目の事例であった。同年11月15日、アウェイのGVAV(現在のFCフローニンゲン)戦で公式戦デビューを飾ると、この試合で初ゴールを決める鮮烈なデビューとなる。さらに11月22日のPSVアイントホーフェン戦でもゴールを決め、勝利に貢献。これによってサポーターからはチームのアイドルとして人気を得るようになる。しかし、この頃のアヤックスは2部降格の危機に直面する創設以来最悪といえる低迷期に陥っていた。そのためバッキンガム監督は退任となり、後任となったのがリヌス・ミケルスだった。ミケルスはクライフの才能を「ダイヤの原石」と高く評価しながら、まだ17歳で精神的にも肉体的にも未熟なことを考慮してじっくりと育てる意向を持ち、スーパーサブとして起用していた。

2部降格という最悪の結果を回避したミケルス監督は、1965-66シーズンより自身が志向する「トータルフットボール」の導入に本格的に着手する。全員攻撃・全員守備をコンセプトに素早いボール回しで試合を支配し、頻繁なポジションチェンジを繰り返してチャンスを生み出すスタイルは選手に相当な運動量が求められるため、ミケルス監督は選手に厳しいサーキットトレーニングを課したのだった。クライフはこのトレーニングに熱心に取り組み、監督が求めるものを実現する存在となっていく。1965年10月24日、エールディヴィジのAFC DWS戦で途中出場からシーズン初ゴールとなる2ゴールの活躍を見せる。これによってレギュラーの座を手にすると、冬の8試合では7得点を記録。1966年3月のテルスター戦ではプロキャリア初のハットトリックを達成。4日後のフェーンダムとのKNVBカップでは4得点を挙げる。この年、アヤックスはリーグ優勝を成し遂げ、リーグ戦19試合16ゴール、公式戦24試合25ゴールという成績を残し、大きくブレイクした。

1966-67シーズンにはすっかりチームの顔といえる存在となっていた。ミケルスのトレーニングによって肉体的にも完成されるようになり、「トータル・フットボール」を遂行する上で、クライフは欠かせない存在となっていった。特にもう一人のエースである左ウイングのピート・カイザーと強力なコンビネーションを築き、いつしか二人は「ロイヤル・ペア」と呼ばれるようになっていた。当時革新的な戦術だったトータル・フットボールは他チームを寄せ付けず、シーズン122得点という圧巻の攻撃力を発揮したアヤックスはリーグ連覇に加えKNVBカップも制し、国内二冠を達成。クライフは30試合33ゴールという数字を残し、20歳にしてエールディヴィジ得点王を獲得。初出場となったUEFAチャンピオンズカップでは、2回戦でリヴァプールFCと対戦。濃霧の中での第1戦では奔放な動きで相手の守備を混乱に陥れ、アウェイの第2戦では2ゴールを記録し、合計7-3での勝利に貢献。結局準々決勝で敗れたが、リヴァプール戦での戦いぶりからミケルス監督とクライフの国際的な評価は急速に高まるのだった。

1967-68シーズンでもクライフ擁するアヤックスはフェイエノールトとの優勝争いを制してリーグ三連覇を達成。リーグ戦33試合25得点を記録し、1968年のオランダ最優秀選手に選出される。1968-69シーズンではリーグのタイトルこそ逃したものの、チャンピオンズカップではオランダ勢初の決勝進出を果たす。しかし、決勝ではジャンニ・リベラを擁するACミランの前に1-4で完敗。結局シーズン無冠に終わる。
1969-70シーズンは自身にとって二度目となる国内二冠を果たしている。

クライフとトータル・フットボールがさらなる高みに到達したのは1970-71シーズンだった。シーズンの初めに鼠径部の負傷を負ったことで数か月の離脱となったが、1970年10月30日のPSV戦で復帰。この頃から背番号14を背負うようになる。チームにはヨハン・ニースケンスが加入したことでより試合の支配力を増していた。1970年11月29日のAZアルクマール戦では1試合6得点のダブルハットトリックを達成。リーグのタイトルは逃したものの、チャンピオンズカップでは準々決勝でセルティック、準決勝でアトレティコ・マドリードを破り、2度目の決勝進出を果たす。決勝のパナシナイコス戦ではニースケンスの欠場によって中盤でプレーし、悲願だったクラブ初の欧州制覇を達成。そして、1971年では2位以下に大差をつけてオランダ人としては初となるバロンドールを獲得。名実ともに欧州トップの選手となった。

1971-72シーズンはビッグイヤーを置き土産にミケルス監督が退任し、シュテファン・コヴァチが監督に就任。コヴァチ新監督はトータル・フットボールを引き継ぎながら、規律を重視したミケルス前監督と違って選手の自主性を容認していた。この方針によって選手のポジションの流動性はより活発となり、組織としての連動性がより進化するのだった。エールディヴィジでは32試合25ゴールを記録し、自身にとって2度目となる得点王を獲得。この年のチャンピオンズカップでも決勝まで進出し、当時アヤックス同様に黄金期を築いていたインテルと対戦。トータル・フットボールと対極のスタイルである「カテナチオ」戦術のインテルとの戦いは大きな注目を集めることとなったが、インテルの堅守を攻略して2ゴールを記録する活躍によりチームの連覇に貢献。国内二冠も果たしていたことからシーズン三冠(トレブル)の偉業も成し遂げるのだった。

1972-73シーズン、開幕直後のFCアムステルダム戦でキャリアでは唯一となるオウンゴールを献上する。それでも1週間後のゴーアヘッド・イーグルス戦では1試合4ゴールを記録。欧州王者として挑んだインターコンチネンタルカップでは、南米王者のインデペンディエンテを相手に勝利し、クラブ世界一のタイトルを獲得。チャンピオンズカップ準々決勝ではバイエルン・ミュンヘンと対戦し、初めてフランツ・ベッケンバウアーと顔を合わせることとなる。クライフとベッケンバウアーの初対決はヨーロッパ全土が注目する一戦となったが、トータルスコア5-2で勝利。準決勝ではレアル・マドリードを破り、決勝のユヴェントス戦でも自由度の高い流動したスタイルで相手を翻弄し、チャンピオンズカップ三連覇を達成。この年、自身にとっては2度目となるバロンドールを獲得

アヤックスで全てを手にした一方、クライフ自身は家族からの進言、さらには長年コンビを組んでいたカイザーとの関係が悪化していたことから移籍に気持ちが傾いていた。チャンピオンズカップ三連覇後、移籍に向けて交渉を進めるようになったことでクラブの会長と対立。さらに練習へのボイコットまでほのめかす強行手段まで見せるようになったことからチームメイトやサポーターとの関係まで悪化していた。

関連動画

クライフターン

関連項目

  • サッカー
  • サッカー選手
  • オランダ
  • サッカーオランダ代表
  • アヤックス・アムステルダム
  • FCバルセロナ
    • ジョゼップ・グアルディオラ
  • フェイエノールト
  • バロンドール
  • フランツ・ベッケンバウアー
関連記事

親記事

子記事

  • なし

兄弟記事

おすすめトレンド

ニコニ広告で宣伝された記事

記事と一緒に動画もおすすめ!
東ローマ帝国[単語]

提供: ritchie_star

もっと見る

急上昇ワード改

最終更新:2025/12/11(木) 07:00

ほめられた記事

最終更新:2025/12/11(木) 07:00

ウォッチリストに追加しました!

すでにウォッチリストに
入っています。

OK

追加に失敗しました。

OK

追加にはログインが必要です。

           

ほめた!

すでにほめています。

すでにほめています。

ほめるを取消しました。

OK

ほめるに失敗しました。

OK

ほめるの取消しに失敗しました。

OK

ほめるにはログインが必要です。

タグ編集にはログインが必要です。

タグ編集には利用規約の同意が必要です。

TOP