「スティーブ・ウォズニアック」(Stephen Gary Wozniak 1950 ~ )とは、世界的に知られるコンピュータの大企業「Apple」の創業者の一人である。本名は「ステファン・ゲーリー・ウォズニアック」。
パソコンの歴史に残る大偉業である世界初のパーソナルコンピュータ「Apple I」とその後継機「Apple II」の生みの親であり、大学時代からの友人でAppleの共同創業者でもあるスティーブ・ジョブズにとってのドラえもん的存在である。通称「ウォズの魔法使い」。
概要
1950年、アメリカ・カリフォルニア州のサンノゼに生まれる。
小さい頃からユーモアのセンスのあるいたずらッ子で有名だったらしいが、口ベタなところもあった。電子工作が得意で、6歳の頃にはアマチュア無線の資格を取得して無線機を自作したり、13歳の頃にはトランジスタを用いてパソコンの様なものを自作したりと、幼い頃から筋金入りのエロクトロニクスマニアであった(たぶん日本に生まれていたら秋葉原の住人になったのは確実)。
21歳の時に出会ったスティーブ・ジョブズと意気投合し、ブルーボックスと呼ばれる不正に電話をかける機械を共に製作して長距離電話をかけまくった。このとき、ウォズニアックは作れただけで満足したのだが、ジョブスはこの違法アイテムを売りさばいて大儲けしたらしく、銃を突きつけられる憂き目に遭ってようやく止めたという。
ここらへんから既に、技術屋のウォズニアックと経営者のジョブズの違いは現れていたが、妙に二人は気があったらしい。
大学を「研究用のコンピューターをひとりじめしすぎて他の学生が使えない[1]」事などを理由として中退した後、ヒューレット・パッカード社に入る。
時に、アタリ社から請け負った「ブレイクアウト」の基盤の部品減らしが自分の手に余るために「ドラえも~ん」とばかりに泣きついてきたジョブズを手伝い・・・と言うかほぼウォズニアック一人で基盤設計をやりなおして、結果、ジョブズにも理解できないレベルの高度な基盤設計を成し遂げ、アタリからもう一度作業を命じられる程にパーツ減らしを成功させたり [2]、家庭用電卓の基盤設計などを仕事にしながら、ジョブズと共に電子工学マニアが集まるサークルに参加していた。
そして、その仲間達に自慢する為に、20ドルのマイクロプロセッサを使って生み出したのが「ガレージで生まれたパソコン」こと名機「Apple I」である。
HELLO OUR FOUNDER
ウォズニアックがほぼ独力で設計・開発・製造したこの「Apple I」は、基盤むき出しではあったが、本体は持ち運べる程に小さく、BASICのプログラムが組めた他、発光ダイオードが出力装置の標準だった時代にテレビを表示装置として接続可能にしていた。キーボードとテレビさえ繋げばどこでも使える、画期的なパーソナルコンピューターの始祖であった。
ヒューレット・パッカード社には製品化を断られたため、地元のコンピューターショップに納品したところ、これが大ヒット。ウォズニアックはジョブスと一緒に、ひたすら手作業で「Apple I」を生産し続けたという(ちなみに制作費は、ジョブスが車を売ったりウォズニアックが電卓を売ったりして捻出した)。
この大ヒットで得た資金を元手に、ジョブズやマーク・マクラと共に「Apple」を立ち上げ、栄誉ある社員番号「1」をゲットする。
「Apple」設立と共にヒューレット・パッカード社を退社したウォズニアックは、基盤むき出しの「Apple I」の商品レベルをより高める為に、処理能力アップ・TVへのカラー出力・拡張スロットの追加・記録用カセットレコーダを装備した、当時の大型コンピュータと同等の性能を持つパーソナルコンピュータ「Apple II」を制作。
1977年に市場に現れたこの革命的な商品は、爆発的な売れ行きを記録し、アメリカ国内に「パーソナルコンピューター」の概念を定着させた。今なお、電子機器史上に残る名機として有名である。 [3]
しかし、「Apple」の設立に際して尻込みしていたところに、
一度くらい失敗したっていい。
それよりも、俺は一度会社を作ったことがあるんだぜといえることのほうが大切さ。
といってジョブズから説得されたり、後年、自身の信条として
「私の第一の目標は一生エンジニアとして働くことでした。ですから昇進はしない。管理職にはなるまいと誓ったのです。そして実際、管理職になったことはありません。なぜみんなが肩書きを欲しがるのか、いまだに理解できません。今でも私はアップルの一員で、給料をもらっています。でも組織図ではずっと最下部にとどまっています。部下を持ったこともありません。私はただ好きなことをしていたい。それは会社を経営することでも、他人に命令することでもない。私はほとんどの人よりもずっと素晴らしい人生を送ってきました。おそらくエンジニアの成功というのはこうしたことなんでしょう。」
と語った程、会社経営には興味が無い技術者だったウォズニアックは、「Apple」のメインがMacintoshになっていくにつれて、技術者として表舞台で活躍する事がなくなっていった。
現在
現在は、「Apple」の肩書き無し社員でありながら大株主のまま、コンピュータや通信施設を小学校に設置したり、教えたりする活動に従事している。
ジョブズがアレなだけかもしれないが名誉や金にこだわらない性格や人柄を慕う人物は多く、「Apple II」で育った技術者の中には「ウォズニアック大学卒」と履歴書に書く者もいたらしい。
現在パーソナルコンピュータ関連の話題でウォズニアックの名前を見る事はない。
しかし、彼がコンピュータの歴史上、革命を起こした人物である事は今後永久に記録されるであろう。
※その他「スティーブ・ウォズニアック」の詳細についてはWikipediaの該当記事参照。
余談・その他
- ウォズニアックが社員番号1番になったのは、ジョブズに「1」を与えると調子にのる増長する事が予想されたため、根っからの技術屋で経営に興味の無いウォズニアックを「1」番とし、ジョブズは「2」番が与えられたということらしい(しかし、後にジョブズの抗議により結局「0」番もジョブズに与えられる事になった)。
- 「Appleシリーズ」をないがしろにしているとして退社したとの話もあるが、ウォズニアックの持ちネタは今でもAppleストアで社員割で商品を購入する際に社員番号を聞かれて「1」と応える事である。
関連動画
関連商品
関連項目
関連リンク
脚注
- *当時はコンピューターはあまりにも高価だったため、レンタルが基本で、料金内で使える時間が決まっていたりした。
- *ギャラはジョブズにピンハネされたらしい。しかしウォズニアックはどんなにギャラが安くても協力したと述べている。
- *「Apple II」は、回路図や基本OSの中身を公開し、第三者(いわゆるサードパーティ)が「Apple II」対応機器や対応ソフト開発を積極的に行える環境を用意していた。そのため、プリンタやジョイスティック、グラフィックタブレット等の周辺機器や「ゾーク」「ウルティマ」「ウィザードリィ」といった名作ゲームタイトル、「アップルライター」や「ビジカルク」等のエディタ類が登場し、これがさらにシェアを広げることになった。
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