ヒシスピードとは、1974年生まれの日本の元競走馬、種牡馬。黒鹿毛。同期の「スーパーカー」ことマルゼンスキーにハナ差まで迫った馬にしてマルゼンスキー被害者の会第1号。
主な勝ち鞍
1976年:北海道3歳ステークス(現:札幌2歳ステークス)
1977年:京成杯、東京4歳ステークス(現:共同通信杯)
概要
血統
父 ヒシマサヒデ、母ヒシハクギン、母父*タリヤートス。
3代父は2023年12月現在でもいまだにJRAの産駒勝利数10位に名を連ねる大種牡馬*ライジングフレーム、父父はその代表産駒にして種牡馬としても期待されながら有刺鉄線に絡まるアクシデントで早世を余儀なくされた初代ヒシマサル。ヒシマサヒデはそのわずか3世代しか残せなかった産駒の1頭で、親子で安田記念を制覇するなど活躍し種牡馬入りを果たした。
外国産の種牡馬が圧倒的だった時代(ライジングフレームにしても、本馬が生まれた時点で既に*パーソロンや*テスコボーイといった新たな外国産種牡馬に押されて直系は衰退の一途をたどっていた)には珍しい、内国産3代目の血統である。
母は21戦5勝の条件馬、母父は9戦1勝だが父にエプソムダービーやKGVI&QESなどの大レースを制したTulyarを持つ。
馬主は冠名からも分かる通り「ヒシ」の屋号でおなじみ阿部雅信氏、全てのレースで小島太が鞍上を務めた。
戦績
デビュー ~ 初重賞制覇
6月に札幌競馬場のダート(そもそも当時の札幌競馬場はダート専用であった)1000mにてデビュー。ここは6着に敗れたが連闘した2戦目で2着を9馬身ぶっちぎる圧勝。3戦目は初の重賞挑戦となる北海道3歳ステークス(現:札幌2歳ステークス)。ここではダートの1200m、しかも重賞で6馬身ぶっちぎる圧勝劇。ついでにレースレコードも樹立。
早くも重賞ウィナーとなり世代の主役に…はならなかった。というのもこの世代にはとんでもない化け物がいたからである。そう、マルゼンスキーである。父に英国3冠馬ニジンスキーを持つこの馬は脚部不安で満足に調教できないにもかかわらず新馬戦(中山芝1200m)を大差勝ち、続く条件戦(中山芝1200m)も9馬身差勝ち。とにかく次元の違う走りをしていたのである。
府中3歳ステークス
そんな両馬が初めて顔を合わせたのは府中3歳ステークス(当時OP、現東京スポーツ杯2歳ステークス)。マルゼンスキー相手で勝てるわけがないとばかりに回避が連発して5頭立ての少頭数レースになった。1番人気はマルゼンスキー1.4倍、ヒシスピードは初の札幌以外のレース(=初の芝レース)ということもあって8.9倍と離された2番人気。例によって脚部不安を抱えていたうえに控える競馬を試したマルゼンスキーに対し、本馬は単独2番手から直線半ばで並びかけると馬体を合わせての叩きあいに持ち込む。そのまま2頭並んだままゴール板を通過。その結果は…ハナ差及ばずの2着。とはいえ3着は10馬身ちぎっており世代屈指の実力であることは示されたのであった。
…ただ、この好走が相手陣営に火をつけてしまい、次走の蹂躙劇の引き金となってしまったのである。
朝日杯3歳ステークス
次走は朝日杯3歳ステークス(現:朝日杯フューチュリティステークス)。マルゼンスキーも出てきたので東の3歳チャンピオン決定戦なのに7頭立て。1番人気は例によってマルゼンスキーだが、本馬はそれに次ぐ2番人気、オッズも3.7倍まで低下。3番人気で19.2倍なのだからマルゼンスキーの対抗馬としての評価は揺るがないものとなっていた。
レース本番。ヒシスピードは早々と馬群の先頭に立つとそのまま後続を突き放しての逃げに入る。そのまま最終直線に入り、最後後続に詰められたものの3馬身半差をつけての…2着。
1着はいうまでもなくマルゼンスキー。前走の辛勝で本気になった陣営は強めの調教をかけ、騎手も本気の騎乗を敢行。その結果ヒシスピードのさらに3馬身ほど前を悠々と走り、最終直線ではさらに突き放し、最終的についた差は2.2秒(13馬身以上)。この一戦でさらに評判が高まったマルゼンスキーの、まさに踏み台にされてしまったのであった。
ちなみにこの敗北を受けて阿部雅信氏の息子である阿部雅一郎氏は強い外国産馬を購買する方向にシフトした…といわれているが真偽は不明である。ひょっとしたらこの敗戦がなければヒシアマゾンやヒシアケボノを日本で見ることは叶わなかったのかも。
4歳春 ~クラシックの頂を目指して
さて、通常ならばマルゼンスキーはクラシック路線へと歩を進めるのであろうが、当時マルゼンスキーのような持込馬(母馬が受胎した状態で日本に輸入され、日本で誕生した馬)は外国産馬と同じ扱いを受けていたのでクラシックには出走できない規定であった。一方まぎれもない内国産馬である本馬は当然クラシック路線に向かう。
まずは京成杯(中山・ダート1600m)。ここには同年のダービー馬ラッキールーラ、同年の菊花賞馬にしてマルゼンスキー被害者の会第2号プレストウコウも出走していたが、この両馬をアタマ差抑えて重賞2勝目を挙げる。続いて東京4歳ステークス(現:共同通信杯、東京・芝1800m)。再びラッキールーラ・プレストウコウと顔を合わせたが問題なく勝利。重賞3勝目。
好調を維持したままトライアルのスプリングステークスに臨んだが3着。まあこんなこともあるよねと本番皐月賞。レースでは外目を回って最終直線で先頭に立つ構えを見せた…がそこから失速して7着。続く東京優駿も4番手で進めるも大外枠(27番!)に当たったこともあり最終直線で失速して13着惨敗。要するにこの馬、父父・父同様のスプリンターだったのである。クラシックには合わなかったのだ。
それから
次走は自身が最も得意とするダートマイル戦(札幌・1800m)。古馬混合戦だったが1番人気に推されると5馬身差つけてきっちりと勝利する。
次いで選んだのが短距離ステークス(札幌・ダート1200m)。ここには半年ぶりのあいつが出てきた。そう、マルゼンスキーである。上述のとおりクラシックに出られず、鞍上が「28頭立ての大外枠でもいい。賞金もいらない。他の馬の邪魔もしない。だからマルゼンスキーを日本ダービーで走らせてくれ。そうすれば、どの馬が一番強いかわかる」と述べる中、その実力を日本短波賞(現:ラジオNIKKEI賞)でいかんなく発揮した同馬が、何を思ったか初古馬戦をダートで迎えたのであった。
その結果はというと…マルゼンスキー、10馬身差の圧勝。ヒシスピードは例によって2着。なんだこいつ。
マルゼンスキーはこのレースを最後に引退。結局3戦全敗に終わった。本馬も短距離とマイルで各1戦したが勝てずに引退した。
ライジングフレーム系の後継として種牡馬入りはしたのだが、競走馬になれないレベルの虚弱体質の馬ばかりが生まれてしまった結果失敗に終わる。残念ながらライジングフレームの血統はここで途絶える形となってしまった。
当時は種牡馬引退後の余生という観点は薄い時代だったが、幸いにも本馬は2004年に30歳で亡くなるまで天寿を全うした。
血統表
ヒシマサヒデ 1962 黒鹿毛 |
ヒシマサル 1955 鹿毛 |
*ライジングフレーム | The Phoenix |
Admirable | |||
カツター | 月友 | ||
セフトマス | |||
ハルヒメ 1957 黒鹿毛 |
*ブラックウヰング | Balladier | |
Taj Bibi | |||
*ベリストリーム | Midstream | ||
Cigarette | |||
ヒシハクギン 1964 黒鹿毛 FNo.19 |
*タリヤートス 1957 黒鹿毛 |
Tulyar | Tehran |
Neocracy | |||
Certosa | Prince Chevalier | ||
Arctic Sun | |||
*エレジー 1953 栗毛 |
Persian Gulf | Bahram | |
Double Life | |||
Verse | Epigram | ||
themis | |||
競走馬の4代血統表 |
クロス:Nearco 5×5×5(9.38%)、Blandford 5×5(6.25%)
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関連項目
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