劉璋単語

リュウショウ
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劉璋りゅうしょう、? - 214)とは、中国後漢末期(三時代)にいた群雄の101ひとり。字は季玉。

益州(中国西部)を劉焉から引き継いで治めていたが、後に劉備に領土を奪われた。

生涯

益州を継ぐ

劉璋の劉焉皇室に連なる血統にあり、地方に独自勢を作る野心を秘めて益州に出向した人物であった。中央の政局混乱を予期して、地方に地盤を移そうとしていた劉焉であったが、都には範・誕・劉璋の息子らを残していた。案の定、霊帝が亡くなった直後から朝廷は大混乱に陥る。

劉焉張魯宗教を使って中を封鎖し、中央との連絡網を遮っていた。このため、劉璋は朝廷よりの使者として益州に赴くが、そのまま劉焉に留め置かれ、以後長安に戻ることはなかった。また、この頃に劉焉の親戚であった羲(ホウ羲)もまた益州に身を寄せている。

192年、中央政権をっていた董卓が暗殺され、紆余曲折あって董卓配下であった李傕李カク)が長安の支配者になると、劉焉はその政権転覆を狙って長安にいる息子らに示を出した。しかしこれが露見してしまい、範・誕は処刑されてしまう。これにより、劉焉の子は劉璋だけになってしまった。

194年に劉焉が病没する。劉焉は半ば中央政権から独立するような形ではあったが、仮にも朝廷から益州牧の役職を拝命して益州を治めていた。つまり名上、かが益州牧を継いでこの地を治める必要があったのだ。ここで劉焉配下の閣僚であったイ(イは是+)という人物が、劉焉の跡継ぎである劉璋に益州牧も引き継がせるよう、朝廷に上奏していた。これは劉焉の政権を温和な劉璋に引き継がせることによって、自身の既得権益を守りつつ、また先代の頃よりも動きやすくなることを狙ったものだという。

獅子身中の虫

かくして朝廷の命を受けて、劉璋は益州牧を継承、劉焉の基盤をそのまま引き継ぐことができた。しかし、先代の劉焉が有者の粛清をするなどの恐怖政治を行っていたのに対して、気弱で優柔不断な劉璋では増長する配下を抑えることが難しかった。

初めに不従の態度を示したのは張魯であった。張魯はもとより宗教団体・五斗米道教祖であり、劉焉の密命で中を制圧、裏で劉焉と通じながら独自の基盤を中に築き上げていた。劉璋への代替わりで、もはや従う必要はないと感じたのだろう。対する劉璋も報復のために、張魯を処刑している。劉璋は羲に命じて張魯を攻めさせたが、いずれも失敗に終わった。その後、張魯への警のために羲を西太守に任命した。しかし、この頃から劉璋は羲とも仲違いするようになる。

次に動いたのは、劉璋を擁立したはずのイであった。劉璋の軍には「東州兵」という、劉焉時代に結成された軍団が存在した。イはその東州兵を手懐けて、劉璋に不満を持つ民衆・族らを巻き込んで反乱を起こした。この挙兵に多方面で呼応があり、劉璋は成都に籠ってひたすら防戦を続けていた。しかししばらく後、東州兵の間にイに対する疑心が沸くようになり、東州兵は劉璋側に寝返ってしまう。これにより一転してイは敗走、その後殺された。

しばらく後、劉璋のもとにも曹操が荊州制圧に入ったという情報が伝わる。これを聞いた劉璋は陰溥を使者として送り、曹操への敬意を示した。これに対して、曹操も劉璋に将軍の位を贈った。この曹操のお返しに相当気をよくしてしまったのか、なぜか劉璋はその後も特に意味のない使者を、粛、張松と二度も出している。張松が来た頃にはすでに劉備を荊州から追い出した頃で、曹操にも「使者とかさすがにもういいよ」と適当にあしらわれてしまった。これにより、張松は恨みを抱いたという。

劉備の入蜀

赤壁の戦いによって曹操が破れたという情報が益州にも伝わると、張松は劉璋に「曹操ダメですよ、絶交したほうがいいです」と曹操の悪口を述べた。また、「それよりも劉備殿と誼を交わすべきです。あの方は劉璋様と同じ血族です。信用できます」と劉備を取り込むことを進言した。

この頃、劉璋の治める益州の北には敵対する張魯がおり、一方の内も羲をはじめとした、劉璋にいつ反旗を翻すかわからない族が少なくなかった。味方がほしかったであろう劉璋は、この張松の提言に賛同し、法正孟達に数千人の兵をつけて劉備の護衛をさせた。この張松法正孟達こそが本当の敵であったのだが…

一方でこの案に反対する臣下もおり、簿の黄権はその利を述べて諫言し、また従事の王累門に逆さりになるという決死のアピールで諫めようとしたが、結局劉璋の意は変わらなかった。

211年、劉璋は3万の兵を率いて涪(フ)に赴き、そこで劉備と会談した。そして劉備に物資を与えて、張魯を攻撃させる約束をさせた。劉備は最初は約束通りに張魯と交戦したが、212年に突如南に転進、劉璋との戦端を開いた。各所で打ち破られた劉璋は成都に籠劉備軍も214年に成都の包囲を完成させた。

当時、成都には3万の精兵をえており、また食料も1年分確保されていた。しかし劉璋は簡雍の説得によってついに諦め、

子で州を治めること20年余り百姓に恩徳を与えることはなかった。その百姓らが交戦すること3年、草野を血糊に塗れさせたのは(この)劉璋の責任だ。どうして心を安んじていられようか。

と言って開した。この言にせぬものはいなかった。

その後

劉璋を降した劉備は、劉璋を荊州南に移し、またその財産と振威将軍の印綬を劉璋に返した。

その後、荊州は関羽が討たれたことにより孫権の支配下になり、劉璋も孫権に従った。孫権は劉璋を益州牧に任じたが、まもなく亡くなったという。

劉璋の子には劉循闡がいる。荊州陥落後も劉循に残り、とともに荊州にいた闡はに降っている。

評価

無能

同じくの地に降り立った2代目ボンクラ劉禅としばしば対されるが、劉禅には少なからず擁護する論調があるのに対して、劉璋にはあんまり肯定的見解がないのが哀れである。まぁ、無能だから扱いやすかろうと擁立されたんだけどね…

ニコニコ動画における劉璋

101匹くらいいる。単位は「匹」である。

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劉璋

24 ななしのよっしん
2019/05/30(木) 23:43:09 ID: v2t+dEbEct
なるほど益州のクソ田舎がイヤで都に帰りたかったんだな
25 ななしのよっしん
2019/06/25(火) 14:42:33 ID: Wc6pM4e+35
益州牧に推された経緯からして益州の族にとって都合のいい傀儡扱いが見え見えだったから
本心はそうでも何ら不思議ではないな

からしちゃ領土が荒れても自分の利権が確保できりゃそれでいいし
鎮圧に労割かなくて済むから余計な出費がない
ついでに法律ガバガバだから好き勝手振舞える
それでいて大衆の恨みや不満は劉璋が引き受けてくれるんだから
そりゃいろいろ好都合だったろうね
26 ななしのよっしん
2020/03/20(金) 20:30:36 ID: T90xd67b9a
三國志3のSFC攻略本の荊州4馬鹿シナリオではお勧め君ということで隠れた名君として紹介されてた
立地もよく配下もある程度っており、ゲーム上ではプレイしやすい君なのは確か
27 ななしのよっしん
2020/08/04(火) 23:49:49 ID: ZaoutogOlP
「親子でここに二十年いて百姓に恩徳なんぞ施したこともなかった」

この「自」を「謙遜」ととってしまうのも日本人がよくする誤解
少なくとも劉璋は1ミリの謙遜もなくそのとおりの君
28 ななしのよっしん
2020/10/04(日) 23:31:25 ID: t7FU1bVs38
無能ってあるけどかなり酷いな 当時の価値観と現代の価値観じゃ違いはあるけど曹操のような野心がないのを抜けとみるか田舎平和義というか
張松法正みたいな野心・向上心がある配下には合わないけど太の世なら難な人だとは思う

それに劉備が攻めてきた時も焦土作戦取れば一応は勝てたかもしれないけど民衆の事を考えて許可しなかったり最終的に領民を苦しめたくないで降伏だし 当時の価値観だと無能かもしれんが今の価値観なら結構評価してもいいと思う
29 ななしのよっしん
2020/10/08(木) 13:13:04 ID: skYUS916W8
と言っても、劉備を招き入れてを傾けたのは彼自身だし
降伏後に再評価できるようなエピソードがあるワケでもなし
為政者としてこれといった業績を残せたワケでもなければ同時代人の評価も微妙となると
やっぱ無能が妥当なんでないかな?
人としてマトモな事と君としてダメダメな事は矛盾せんし
30 ななしのよっしん
2020/10/08(木) 13:20:42 ID: Ccu2+ubinX
というか人間性なんて人間の評価に加えるなと
冷酷だろうが仕事できたら有能だし、菩薩の如き人間性であっても仕事できなきゃ無能
31 ななしのよっしん
2020/10/26(月) 17:54:35 ID: brTS8Vn7s3
平和義と平和ボケは明確に違っていて、何が違うかと言えば後者治安が維持できないので結果的に世紀末が到来する
その代表例が劉璋で、連れてきた兵がヒャッハー!地元民は消毒だー!してたので人に恨まれていたと正史にはっきり書かれ、果ては同時代の人間である孔明にさえ居なくなった方が喜ばれるとして名しされる始末
これでは平和な時期でもロクな事にはならない
32 ななしのよっしん
2021/05/24(月) 00:46:37 ID: 1yJ6HQm5kP
無能掲示板>>28みたいな逆張りが必ず湧くのなんとかならない?
33 ななしのよっしん
2021/06/07(月) 11:13:19 ID: ZTePd81mDp
劉璋が善良であるというのがそもそも誤解な感じ
では「性寬柔、威略、東州人侵暴民、不能禁、政多闕、益州頗」とある
優柔不断で威厳もないから自分の部下の兵が民に暴虐を働いても取り締まれないし、政もダメダメで、益州の民に恨まれた」とのこと

また若い頃は献帝のそばで仕えていて「親父をどうにかしろ」と益州に派遣されたがそのまま帰らず、曹操が荊州(同族が治める荊州)を征すると祝いの使者を送る始末
これは当時の「の忠臣」を誉れとする価値観でいえば
「太の世なら難」どころか私を肥やす部下をのさばらせるタイプだと思う
親父劉焉はもっとヤバい雄で劉表に「あいつマジで逆賊」と朝廷へチクられるレベル

このへんの事情を考えると、劉備の征もまったく大義がないというわけでもない(一応)