山田浅右衛門単語

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ヤマダアサエモン
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山田浅右衛門(やまだ・あさえもんとは、江戸時代の試しり役である「御様御用(おためしごよう)」を務めた山田代々当の名跡である。
死刑執行人でもあった事から「首り浅右衛門という異名も持ち、後世の創作にも登場する。

概要

江戸時代、幕府には物奉行(こしものぶぎょう)」という役職が存在した。
これは将軍の佩や諸侯から献上されたを管理し、また将軍から諸侯に下賜されるについて差配する役職である。
そんな物奉行の仕事のひとつに、の価値を決める上で最も重要な「切れ味を試して記録する」という役があった。

様々な名手や流が存在したが、極めて高い技術がめられる上、跡継ぎの技量が伴わない場合には役を解かれる事もしばしばであった。
そんな中、初代・山田浅右衛門貞武により、元文元(1736)年、自らの技を伝える為にが子に継承したいと幕府に申し出て許可される。
これが山田の始まりであり、明治に入り御役御免となるまで、御様御用の役を拝命し続けた。
最後の当9代・山田浅右衛門吉

説明

山田は幕臣ではあるが旗本・御家人ではなく、浪人としての身分に留まった。
これには諸説あるが、技量不足の後継者に名跡を継がせない為とも、後述する副収入が得られなくなる為とも言われている。
歴代当は多くの子を取り、その中で最も腕の立つものを後継者に名した。実際に、9代に渡る名跡のうち、実子に後を継がせたのはたった1例である。
集まった子には大名臣などの他に、旗本・御家人も多くいたと伝えられている。

浪人という扱いであった為、幕府からを食む事はなく、収入は御様御用の礼に留まっていた。
しかしその役割から様々な収入を得ており、一説には大名に匹敵するほど裕福であったという。

最大の収入「罪人の死体
当時は試しりの際に罪人の死体を使う事が一般的で、御様御用は死刑執行人としての役められていた。
山田浅右衛門は斬首や磔刑など、死刑執行後の死体を引き取る権利を有しており、これを用いた試しりの結果を記した明書折紙(おりがみ)」を作成した。この折紙や鑑定書に基づいての価値が決まる事から、物奉行ばかりか大名からも、試しりの依頼が多数寄せられた。
時には依頼死体の数が追い付かず、何度も傷を縫い合わせて試しりを行ったという話が伝えられている。また、自分で試しりをやりたい武士に対して死体を売るという事もあったという。

こうした試しりの積み重ねの結果、鑑定としても活躍し、本も出版。武の他にも(多くは商)からも鑑定の礼を受け取っていた。
また、顧客である大名の人脈を生かしての購入の世話を行い、その礼の他にも歳暮として鰹節などを拝領していた。
このような縁から山田には名が多くあった。中でも楠木正成の佩とされる太刀」は幕末山田に伝来した後、人手を介して明治天皇に献上。でもある明治天皇はこれを気に入り、軍拵にして用した。定を受け、現在東京国立博物館所蔵となっている。

更に、死体から得られる肝臓・胆嚢などを原料にした丸を製造・販売していた。
当時は結核の特効として人が利くとされており、丸「人肝丸」「浅山丸」などの名前で販売され、大な収入であったという。
他にも、遊女が客に心を見せる為に自分の小を切って送るという習わしがあったのだが、死体から切り取った小も立売れ筋商品だったらしい。意味は解るな?
おかげでには小が何本もある」だの「切った小が生えてくる」だのいう笑い話があったとか何とか。
ちなみに、こういった副収入は、フランス死刑執行人一家・サンソンとも共通している。

そうした一方で山田浅右衛門は、死んでいった者の供養の為、惜しみなくを使ったという。
東京・祥寺には、6代山田浅右衛門が寄進した慰霊が今に伝わっている。

明治維新後、山田浅右衛門は政府により東京府役」という役職につくが、新法により試しりや死体の取り扱いが禁止された上に、死刑執行斬首刑から絞首刑へと変わる。
こうして「首り浅右衛門の9代に渡る名跡は絶える事となった。

なお、現在日本における死刑執行は複数の刑務官が同時に担当する事が定められており、特定の個人のみが死刑に関わる事はない。
現代において特定の人物が死刑執行人を拝命しているのは、シンガポールマレーシアサウジアラビアなどに限られている。

創作として

時に死刑執行人、時にの達人。
様々な側面を持つ山田浅右衛門は、その特異なキャラクター性から、後世の創作においても様々な形で登場する。

TVドラマ暴れん坊将軍必殺仕事人シリーズでは、要人物の一人として登場、活躍する。
小説では、山田風太郎警視庁に、最後の山田浅右衛門が登場。死刑執行人としての最後の仕事を果たす姿が描かれている。
漫画でも小池一夫原作小島剛夕作画「首」(英語版Samurai Executioner)において役として描かれ、高い評価を受けている。
そのほか無限の住人」「子連れ狼などの著名作にも登場し、物語を添えている。

余談ではあるが、「子連れ狼」の主人公拝一(おがみいっとう)「幕府介錯人」というの役職についている。これは大名・御家人切腹に際して介錯を行うというものだが、モデルである山田浅右衛門はあくまでも一般人の処刑に携わっていた。

地獄楽では山田浅ェ門が一門として複数登場し、無罪放免をかけて挑む死罪人たちの監視役となっている。

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1 ななしのよっしん
2017/07/15(土) 12:06:06 ID: wubWGqUYOA
1コメになるのかな?記事乙です。
サンソンとべるとある程度社会的に認められていたってのが面い。
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2 ななしのよっしん
2017/11/04(土) 19:55:29 ID: JPztRrmMZZ
切腹の時首を切る役割は信頼できる臣に任せるのも多いみたいだし役割にあんまり忌み感がないのかな?
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3 ななしのよっしん
2018/01/16(火) 18:05:16 ID: WsZgrUzNkX
>>2
人間を一撃で叩きれる程の腕前を持ち、更に実際にった経験のある武士自体が太の世ではかなり少なくなってたから、それが現実に可な存在であり、しかもの生業として将軍から認められていたとしてむしろ羨望の的になっていた
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4 ななしのよっしん
2018/03/07(水) 21:59:03 ID: iPBiuMMccj
昔、歴史の授業で「人の死に関する役職に就く人は身分の低い人(穢多・非人)が多かった。」
という話を聞いていたので、こういう人もいたのか。と意外に思った。
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5 ななしのよっしん
2018/03/08(木) 15:38:03 ID: xTw7xLLqO2
>>4
死に関わる賤民(穢多・非人)に対する社会差別はあったけど、実際には
既得権益(中の清掃全般、屋番、物乞い取り締まり、皮革産業)を独占していたので
生活はそこまで悲惨じゃなかったみたいよ
特に穢多頭・弾左衛門や非人頭・善七は大名ばりの財を持っていたらしいね
貸し業も営んでいたくらいだから相当だろうな
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6 ななしのよっしん
2018/08/31(金) 15:34:30 ID: Y/U+r8v+HO
地獄楽って漫画から知ったけど試しりの役人とかおったのか
要人を何人も処刑したり処刑人一族だったりでなんとなくサンソンと似てるね
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7 ななしのよっしん
2018/08/31(金) 18:29:50 ID: O0w0Gy9hgK
>>6
処刑人は忌み嫌われる一方で特殊技が必要だったり副収入が得られたりで特定系や集団が独占状態というのは洋の東西を問わないんだろうね
そして気前よく寄付していたというのも共通しているのは自身の立場に複雑な感情があったんだろうか
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8 ななしのよっしん
2019/08/30(金) 12:51:52 ID: hs0jH88xwv
>>5
そして近代になって法の下の等で既得権益は失われ賤民も消滅する
…と思いきや因習としての差別だけが残るという闇
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9 ななしのよっしん
2021/02/11(木) 20:37:48 ID: kK5Es5/HxS
>>5
カネがあってもいざそれを使う時にイヤな顔されまくったんじゃないの
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10 ななしのよっしん
2021/11/14(日) 19:56:56 ID: h5uSOCg5GW
現代人は首り浅と呼ぶが人りという言い方のほうが古いようだし処刑より試し切りのほうが名誉のある仕事だったので人り浅と呼ぶべき
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