後藤信康単語

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ゴトウノブヤス
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後藤信康(ごとう のぶやす 1556~1614)とは、性勇猛果敢にして知略あり、のためにを尽くし、いささかも私心なしと称されたバトルマニア武将であり、原田宗時刎頚の友である。通称孫兵衛肥前後藤など。

檜原在陣まで

1556年湯の次男として生まれる。
は秀次事件に際して伏見津田の原にて豊臣秀吉へ決死の直訴を行い、伊達政宗の関与疑惑をらした功績により、津田の姓を賜った重臣・湯康を輩出したことで有名な一族である。

信康は次男であったため、跡継ぎのいない後藤へ養嗣子入りした。
後藤藤原実遠後裔の越前守護後藤基雄の子を称する後藤基末が、室町幕府成立前後に州へ移り伊達行朝に仕えたのが始まりでこちらも名門のである。

合戦では常に黄色衣(矢弾避け用に丸くたなびかせる衣)をってを駆り、敵から後藤と呼ばれ恐れられたという。

1584年政宗は当が幼少でを失いつつあった名を攻めることを決断したが、の檜原伊達輝宗の治世より何度も攻略に失敗していた難所中の難所であった。
ところが丁度よく、当時大衆娯楽であった風呂屋が檜原に一座を設けるとの報が舞い込んできた。これ幸いと兵1500で攻め入り、遊に耽って油断していた穴沢一族を追い落とすことに成功する。

1585年さらに会津侵攻を続ける政宗は、檜原にを築きながらも次なる一手はないかと談合を開く。そこで原田宗時臣・平田太郎衛門に内応者を作らせる策を献じ、計略が成功したため合戦へと至った(関合戦)
しかしながらへ兵を進めて館に火をかけたところ、事態を察知した名方の将が急襲を仕掛けたため原田隊は大混乱の内に敗走してしまう。
平田が裏切って名へ立てを知らせたためとも言われる。
さらには宗時自身も攻め寄る敵の旗を味方と誤認する大失態を犯し、全く先の体を成さず敗戦の決定的要因となってしまった。
この時の伊達勢は山を彷徨って餓死する者、具足を脱ぎ捨て一散に逃げ出す者と散々な有様であったという。
また名方から内応した松本備中は孤立援に陥り討ち取られ、その長門充は齢90の老翁ながら裏切り者のとして捕らえられ、黒川下にて無惨にも刺し刑となって殺された。

戦況が不穏になったと判断した政宗は檜原を築き終えると米沢に撤退する。
そこでに任命されたのが信康である。
は厳寒となる山の中で、敵の襲来に緊迫しつつもを守るのは相当の務であり、配下に逃散が相次いだ。
この苦難に対し信康は政宗へ向けて「(番が)退屈で配下が逃げ出したので番の任を解いて戦場へ戻してほしい」などとなんとも放磊落な報告をしている。

刎頚の交わり

このような事態を招いた宗時は先の失態を恥じたが、そもそもの原因として信康と理に功を競う嫌いがあった。
そこで信康は事ある毎に宗時の悪口を言いふらして回る。
たまりかねた宗時は果し合いを申し込みに来たが、信康はを打ちながら黙して答えなかった。

さらに決闘を促す宗時に対してを打ち終えた信康は静かに答える。
「(武士として)死することは世の常であり既に決意していることなのにおは何故そうも死に急ぐのだ、そもそもどうやって死を決するつもりだ」
を抜いて互いにり合って決着を付けん」と宗時はなおも急かす。
信康は一笑すると「それで互いに死んだらが勝ち負けを判断するのだ」と問う。
宗時が答えに窮していると「小で股を刺し合うのが良いだろう、死ななければまた刺し、それを交互に繰り返す」と信康の言。
続けてく「だがそれでどちらが先に死んだとしても、怯弱者であるとは言えんのう」
宗時はその胆さにすっかり打ちのめされ「、卿の大勇には遠く及ばず、ここに二人が駄死にするよりは御のため、事のために死のうと決意を新たにし申した」と言って頭を下げた。

以来二人の関係は善し、互いに正しく切磋磨するようになったという(大日本人辞典より意訳)
※信康が「このような私闘でおのような勇を失うのはもったいないこと、こんなことより御のために命をかけようではないか」と説諭したとの逸話もある。というかそっちの方が有名。

1589年摺上原の戦いにおいても檜原にて耐えんでいたが、政宗に直訴してまで援軍にやってきた宗時が奮戦して見事に戦線を打ち破り、大勝へと繋げた。
すること丸4年、この功績より耶麻北方となった。

1591年秀吉の惣違反によって政宗が易処分になり、従って坂元となる。
また、前年から発生していた葛西大崎では各地で奮戦し、佐沼攻めでは旧大崎臣・山上一騎打ちに下している。
宮崎攻めでは中にこっそり抜け駆けをして軍功を得ようとしたが、に潜入したところ「えらい駆けじゃのう」とをかけられ振り向くと宗時が既に居り、二人で門を破って味方を引き入れを落としたという。

1592年文の役では「伊達者」として宗時とともにきらびやかな軍装に身を包み、長さ一間半(2.7m)もの大太刀の鎖でり下げての町を練り歩いた。
後に宗時が土病にかかり、対馬まで引き返したものの息を引き取ると、悲しみに暮れた信康は政宗に嘆願して件の大太刀を貰い受け、宝にした。

晩年

1600年慶長出羽合戦では白石攻めに参加。
同年栗原宮沢となる。

1601年仙台城普請の責任者である惣奉行の一人に任命される。

1602年大森となる。

1605年突如易の憂きに遭う。一説によると宮崎攻めの抜け駆けが軍規違反だったためだとも言われている。

1611年ようやく許され江刺三照に500石を与えられる。
同年2700石へ加増、遠田不動堂を与えられに復帰。

1612年流罪になっていたキリシタン後藤寿を義に迎える。

1614年死去。

宮城県仙台市青葉区蠣崎神社には、信康が献じた政宗の五島が年老いたことを理由に大坂の陣の選に漏れた悲しみの余り仙台城の崖下へ身投げしたとの伝説が伝えられている。まで好戦狂であった。

墓所は岩手県奥州市江刺区の照峯山正寺。享年59。

戒名:覚定院殿心居士

補足

信長の野望」(PCシリーズにおける後藤信康の力一覧。

軍事 内政
戦国群雄伝(S1) 戦闘 政治 野望
武将風雲録(S1) 戦闘 政治 野望 教養
覇王 采配 戦闘 智謀 政治 野望
天翔記 戦才 156(A) 智才 110(B) 政才 40(C) 54 野望 44
将星 戦闘 智謀 政治
烈風 采配 48 戦闘 67 智謀 42 政治 17
世記 采配 59 智謀 28 政治 8 野望 66
蒼天録 統率 63 知略 32 政治 8
下創世 統率 63 知略 32 政治 8 教養 27
革新 統率 70 武勇 72 知略 66 政治 9
統率 70 武勇 72 知略 66 政治 9
創造 統率 64 武勇 73 知略 61 政治 24

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