柿谷曜一朗(Yoichiro Kakitani, 1990年1月3日 - )とは、日本のサッカー選手である。
J2リーグの徳島ヴォルティス所属。元サッカー日本代表。
ポジションはFWまたはMF。176cm68kg。利き足は右足。
概要
大阪府大阪市出身。4歳の頃からセレッソの下部組織に所属し、2006年にクラブ史上最年少の16歳でトップチームとプロ契約を結び、同年11月26日のJ1第33節 大宮アルディージャ戦で公式戦初出場を果たす。
翌年2007年8月、U-17ワールドカップ・ナイジェリア戦で、出場時間900分に達し、プロA契約を結ぶ。また同大会のフランス戦ではセンターサークル付近からの超ロングシュートを決めた。そのことを受けて、金子達仁が以下のポエムを残した。
その言葉を安易に使うことの虚しさも危うさも、十分にわかっているつもりではある。 いや、わかりすぎていたがゆえに最近では、使おうという思い自体が浮かばなくなってきていた。 それでも、彼のプレーを初めて見たとき真っ先に浮かんできたのはあの言葉だった。
中田英寿に対しても、 小野伸二に対しても、 中村俊輔に対しても浮かんでこなかったあの言葉だった。
ジニアス--天才。
世界で「プレーする」日本人選手ではなく、 世界のスーパースターとなる日本人選手が誕生したのではないか、と。 メッシにも、ボジャンにも負けない至高の才能が現れたのではないか、と。
柿谷曜一朗。
いま、わたしを最も興奮させる男の名前である。
現在もこのポエムは”前俊を諦めない”、”大迫半端ないって”等と同様に、ある種の決まり文句としてサッカーファンから愛されており、柿谷がジーニアスと呼ばれるきっかけともなった。
セレッソ入団当初は香川真司よりも評価が高く、森島寛晃は2008年10月の引退会見にて、柿谷について次のように述べている。
「曜一朗はセレッソというより、日本サッカー界が生んだ天才だと思っていますし、あいつが本当に化けてくれれば、セレッソは優勝できると思います」
と振り返る。
当時の指揮官・レヴィー・クルピは香川と柿谷について、2009年J2第3節・セレッソ大阪対栃木SC戦の試合後の記者会見で次のように述べている。
「シンジは本当にプロフェッショナルな選手で、常に前向きにベストを尽くす気持ちを持っている。その点がヨウイチロウと違うところ。ヨウイチロウはもっと責任感を持ってプレーしなければならない。ヨウイチロウは今年だけで練習に5回遅刻している。シンジとヨウイチロウは対照的で、シンジの場合はプロフェッ ショナルとして責任感が強いがゆえに、ミスを恐れてしまうところがある。逆にヨウイチロウは責任感がないがゆえに、時として非常に勇気あるプレーができ る。対照的な二人だが、そういったところを変えていけば、2人とも間違いなく将来日本を代表する選手になる」
監督からも才能については高く評価されていたが、しかしながら天才には挫折が付き物である。
2008年にマリノスから乾貴士が移籍。香川・乾とのポジション争いに割って入れずに出場機会が激減したことに加え、2009年6月8日の練習で6度目の遅刻をしてしまう。このことが監督の逆鱗に触れ、一週間後には島流しが決定。徳島ヴォルティスへレンタル移籍となり、2011年のクルピ監督退団までセレッソに戻ってくることはなかった。
当時の徳島の監督だったポトフこと美濃部直彦は柿谷の精神的な幼さ、無責任さの修正を行うべく、何度も粘り強く対話を繰り返した。徳島でプレーした3年間を通して、柿谷は精神的に大きく成長した。特に3年目の2011年は副将を任され、昇格には一歩及ばなかったもののチーム躍進の原動力となった。
2012年、遂にセレッソに復帰。シーズン開始直後こそ控えに回ることが多かったものの、2トップの一角としてスタメンに定着。セルジオ・ソアレス解任後のクルピ体制ではトップ下でプレー。シーズン成績はリーグ戦で11得点(チームトップ)、カップ戦で4得点と好成績を残した。
クルピ監督の三度目のセレッソ復帰の際に、柿谷はクルピ監督に謝罪。クルピ監督は復帰初戦であるアルビレックス新潟戦で決勝点を決めた柿谷について以下のように述べた。
「ゴールの瞬間、思いがよぎった。彼がプロ2年目のときに私が監督に就任した。かわいい息子だ。それがゆえに、過ちを犯したときには正しい道に導いた。今日は一皮むけて成長したプレーをみせてくれた。技術だけでなく、戦術面も理解してピッチで表現してくれた。再び彼と同じチームで働くチャンスがきてうれしく思う」
2013年からはセレッソのエースナンバー”8”を継承。フォーメーションの変更に伴い、FWとしてプレーすることが多くなった。シーズン成績は21得点でリーグ3位。
2014年にスイス・スーパーリーグのFCバーゼルへ移籍するも、レギュラー争いに敗れて控え、またはベンチ外の日々が続き、約1年半の在籍でリーグ通算18試合出場4ゴールという期待外れの結果に終わる。
2016年よりJ1復帰を目指す古巣のセレッソ大阪に復帰。シーズン半ばに右足靭帯損傷によって長期離脱を強いられるが、終盤に復帰すると昇格プレーオフの京都サンガF.C.戦で先制ゴールを決めるなど、チームのJ1復帰に貢献。
2017年はリーグ戦では全34試合に出場。JリーグYBCルヴァンカップでは4試合に出場し、クラブ史上初のタイトル獲得に貢献。さらに、天皇杯では準決勝のヴィッセル神戸戦の延長戦で勝ち越しゴールを決める。そして、決勝の横浜F・マリノス戦にもスタメンで出場し優勝。この年にクラブでカップ戦二冠を達成し、自身のプロキャリアに足りなかったタイトル獲得を果たす。
2018年は開幕当初こそ好調だったものの、7月に右内転筋を負傷した影響で戦列離脱を繰り返し、リーグ戦21試合4得点でシーズンを終える。2019年はミケル・アンヘル・ロティーナ監督の綿密な組織的守備戦術へのフィットに苦しみ、徐々に出場機会が減ってしまう。一時はC大阪U-23としてJ3の試合に出場するなど厳しい立場に追いやられる。それでもシーズン終盤に入って適用するようになり、第30節の清水エスパルス戦では見事なバイシクルシュートを決めている。だが、2020年後半戦には再びベンチ外になることが増えてしまい、幼少の頃から在籍していたC大阪を離れることを決断する。
2021年より名古屋グランパスへ完全移籍。トップ下で起用され、シーズンを通して攻守に渡る戦術眼・試合観・ハードワークで絶大な存在感を発揮。第37節では古巣C大阪を相手にまさに"ジーニアス”の異名にふさわしいオーバーヘッドキックによるゴラッソを決めて見せる。
2022年は怪我による長期離脱もあってチーム内での立場が微妙なものとなり、21試合でノーゴールに終わってしまう。
2023年にJ2リーグの徳島ヴォルティスへ完全移籍。第二の故郷として愛着のある徳島へ12年ぶりに戻ることとなった。1年目からチームの中心として高い技術を見せ奮闘するが、チームはあわやJ3降格の危機に直面するほど低迷してしまう。
日本代表
幼い頃から天才として注目されたこともあり、15歳で年代別の代表に選出されると、U-17日本代表ではエースとして期待されていた。2007年に韓国で開催された2007 FIFA U-17ワールドカップでは、チーム内で唯一のプロ選手として出場。初戦のハイチ戦でチームの3点目を決めると、第3戦のフランス戦ではセンターサークル付近からの超ロングシュートを決めてみせる。チームはグループリーグで敗退となったが、この柿谷の活躍は世界中の関係者から注目され、レアル・マドリードやFCバルセロナへの入団の噂が浮上するほどだった。
2008年にはU-19代表としてAFC U-19アジア選手権に出場するが、準々決勝で韓国を相手に完敗し、世界への切符を逃している。
2013年7月、EAFF東アジアカップ2013に出場するメンバーとして日本代表に初招集される。7月21日の中国戦でフル代表デビューすると、この試合で初ゴールを決める。さらに第3戦の韓国戦では2ゴールを決める活躍によって日本を優勝に導き、大会得点王となる。この活躍がアルベルト・ザッケローニ監督に認められ、継続して代表に呼ばれるようになる。本田圭佑ら主力との相性の良さを買われ、一時は代表の1トップのレギュラーの座を掴む。
2014年6月に開催された2014 FIFAワールドカップ ブラジル大会のメンバーに選出。しかし、大迫勇也とのポジション争いに敗れてレギュラーを外れ、2試合にわずかな時間途中出場したのみで終わってしまう。
ハビエル・アギーレ監督が就任した当初も代表に呼ばれていたが、2014年10月14日のシンガポール開催のブラジル戦に出場したのを最後に代表からは遠ざかっている。
個人成績
シーズン | 国 | クラブ | リーグ | 試合 | 得点 |
---|---|---|---|---|---|
2006 | セレッソ大阪 | J1リーグ | 1 | 0 | |
2007 | セレッソ大阪 | J2リーグ | 21 | 2 | |
2008 | セレッソ大阪 | J2リーグ | 24 | 0 | |
2009 | セレッソ大阪 | J2リーグ | 6 | 2 | |
徳島ヴォルティス(loan) | J2リーグ | 27 | 4 | ||
2010 | 徳島ヴォルティス(loan) | J2リーグ | 34 | 4 | |
2011 | 徳島ヴォルティス(loan) | J2リーグ | 36 | 6 | |
2012 | セレッソ大阪 | J1リーグ | 30 | 11 | |
2013 | セレッソ大阪 | J1リーグ | 34 | 21 | |
2014 | セレッソ大阪 | J1リーグ | 14 | 1 | |
2014-15 | バーゼル | スーパーリーグ | 14 | 3 | |
2015-16 | バーゼル | スーパーリーグ | 4 | 1 | |
2016 | セレッソ大阪 | J2リーグ | 20 | 5 | |
2017 | セレッソ大阪 | J1リーグ | 34 | 6 | |
2018 | セレッソ大阪 | J1リーグ | 21 | 8 | |
2019 | セレッソ大阪 | J1リーグ | 23 | 3 | |
2020 | セレッソ大阪 | J1リーグ | 24 | 3 | |
2021 | 名古屋グランパス | J1リーグ | 36 | 5 | |
2022 | 名古屋グランパス | J1リーグ | 21 | 0 | |
2023 | 徳島ヴォルティス | J2リーグ | 37 | 7 | |
2024 | 徳島ヴォルティス | J2リーグ |
個人タイトル
- AFC U-17選手権 MVP(2006年)
- AFC優秀ユース選手:2回(2006年、2007年)
- Jリーグベストイレブン(2013年)
- Jリーグ最優秀ゴール賞:2回(2013年、2021年)
- Jリーグフェアプレー個人賞:2回(2013年、2017年)
プレースタイル
以前はずば抜けたボールコントロール技術と高い身体能力から繰り出される独創的なパスやドリブルが持ち味だったが、徳島へレンタル移籍した際にそういったものは全て捨てて、シンプルなプレーを心掛けるようになったという。とは言ってもドリブルの切れ味は今も鋭さを増しており、カウンターの際に見せる、トップスピードにおける正確なボールコントロールはJリーグでもトップクラスと言ってもよい。
現在ではプレーの中でトラップを最も重視しており、変態トラップから裏抜けという得点パターンが多い。
ライン際での駆け引きの技術は佐藤寿人のプレーを参考にしているとのこと。
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