矢沢頼綱(やざわ・よりつな 1518 ~ 1597)とは、信濃の戦国武将である。
概要
真田幸隆の弟で、真田昌幸の叔父。昌幸時代には真田一門の長老格として活動し、沼田城代として後北条氏の侵攻を何度となく退けた名将。北条7万の大軍を2千の守兵で撃退したと伝えられる。愛用の槍は「小松明」(こたいまつ)。
矢沢頼綱でググると、関連ワードに真っ先に「チート」が出てくる程度の能力を持つ。
生涯
真田頼昌の子とされる。矢沢氏は諏訪氏庶流にあたり、真田氏とはお隣さんで幾度も小競り合いを起こしていたが、頼綱が養子入りする事で和睦となった経緯がある。
初めは諏訪系の「頼」と海野系の「幸」を合わせた「頼幸」を名乗ったとされ、その後は兄・真田幸隆(幸綱)の一字(あるいは戦国期真田氏の通字といわれる)「綱」をもらい「綱頼」に改名。そして武田勝頼が当主となった後にその偏諱を拝領し、「頼綱」に名前をひっくり返している。同様に名前をひっくり返す改名をした例としては羽柴秀長などが有名。「頼幸」の名は息子・矢沢頼康も一時名乗っている。
幼少の頃から、なかなかの暴れん坊で鳴らしていたらしい。
武田時代
1541年、海野平の戦いで滋野一族は壊滅的打撃を受け、幸隆も頼綱も領地を失い、一族はバラバラに四散する。頼綱は諏訪一族のツテを辿る形で武田氏傘下となり、別ルートで仕官していた兄・幸隆と同じく、旧領回復を目指して北信濃侵攻に参加する。実の兄弟ではあるが、この頃は全く別々に行動していた。
真田幸隆が仇敵・村上義清の砥石城を調略で落とした際、武田に内通したのは二人の弟である常田隆永であると言われているが、文献によっては頼綱がその役を担当している事もある。
村上氏を越後へ追い払って旧領へと戻ると、以降は幸隆率いる真田一門の一人として活動するようになる。上野吾妻攻略でも主力を担って、岩櫃城、沼田城と後々真田家にとって重要となる拠点を落としていった(この時、北条の沼田城代を務めていて敗れたのが、腐れ縁になる猪俣邦憲)。1580年には沼田城代に任命されている。
沼田城を巡って
1582年、武田家が滅亡し、真田家は独立する。既に兄は亡く、当主である甥・真田昌幸を引き続き補佐していった。武田時代と同じく沼田城代として、真田の東の守りを担当する事になる。既に65歳で、真田一門の中でも長老格となっていた。
沼田城は上野と越後を結ぶ交通の要所である。そして西から南にかけては利根川、北に薄根川、南東に片品川と、山・川・崖に囲まれた天然の要害だった。
天正壬午の乱では、初め北条に属していた真田家が徳川に寝返った為、沼田城も北条の攻撃を受けることになる。北条氏邦率いる総勢5000の兵が攻めてくるが、頼綱は500の兵で出陣し、支城を攻めている猪俣邦憲の部隊を叩くなど老練な戦を見せる。最終的には沼田での籠城戦になるが、あまりの堅さに氏邦が諦め撤退するところを再び叩き、守りきった。
ところがこの乱の和睦で、沼田を含む吾妻一帯は北条に明け渡すことになってしまった。しかも徳川家康が沼田の代替地を真田に対してなかなか提示しなかった事から、真田家は徳川を離反して上杉と結ぶ。これにより1585年、第一次上田合戦が勃発した。この時、呼応する形で沼田城にも北条氏邦らが率いる30000の大軍が攻め込んでくる。
真田昌幸は上田城で徳川軍を迎え撃っていたため、当然援軍は期待できない状況である。そんな訳でいつも通りのゲリラ戦で対抗する事になった。まずは野戦で伏兵を使って猪俣を叩き、沼田城下では火計を駆使して誘い込んだ敵兵を焼き、と昌幸顔負けの防衛を見せつけて北条軍を撃退した。
ふざけんな! 沼田は我々の物なんだ!と諦めきれない北条氏は、翌1586年にも沼田に攻めてきた。今度は総勢70000。城一つ攻めとるのにこの数は流石に盛ってる可能性も否めないが、とにかく二度もやられた北条は本気だった。
ところがこの年は長雨で周囲の川が増水していたので、頼綱は南の片品川にかかる橋をあらかじめ全て破壊することにした。これにより北条軍の進軍は停滞し、新しい橋をかけるための工事に手間取っていたのだが、そこに頼綱の矢文が届く。
「大軍で攻めてくるって聞いてるけどまだなの? ねえ、まだなの? 兵士も退屈してるよ?」
この挑発を受けた北条氏邦は怒りに燃えながらも橋を完成させ、7万の兵で沼田へと突撃する。が、その後ろでせっかくかけた橋が破壊されてしまう。あっさりと退路を失った北条軍に鉄砲を撃ちかけるなどして敵兵の混乱を誘い、またまた少数の兵で防衛に成功した。
翌1587年。またまた猪俣が攻めてくるが、適当にあしらって撃退する。1588年にようやく豊臣秀吉が代替地の仲介を行うことでこの長い長い沼田争奪戦は終わり、頼綱は沼田城を去った。この前後に隠居した模様。
こうして再び沼田城には猪俣邦憲が入るのだが、支城の一つ・名胡桃城だけは諸事情により真田領のまま残り、これが後の火種になるのだが、それはまた別の話。
1597年、80歳で死去し、子孫は松代藩の家老として真田家を支え続ける。
関連動画
創作作品
大河ドラマ「真田丸」
演:綾田俊樹。主人公・真田信繁から見て大叔父にあたる、真田一門の長老格…というかタカ派筆頭。特に沼田城に対する愛着と執念は凄まじく、沼田明け渡しを求める北条の使者を問答無用で突き殺すほど(※史実通りです)。
北条が滅亡し、秀吉の天下が訪れた後も血気盛んな性格は相変わらずで、沼田城主になった真田信幸の寿命をガリガリ削る。秀吉の死期が迫り、再び戦乱が起こるかもしれないと聞かされるとますます殺る気を燃やすが、次のシーンで往生した。
やる夫真田
やる夫シリーズのひとつ、「やる夫が真田家に生まれたようです」(やる夫=真田信之)での配役はDIO様。勝てる気がしない。毎回懲りずに攻めてくる北条の大軍を単騎で蹴散らして食料にしている。
信長の野望
いっぱしの戦闘能力の持ち主だが、武田家や真田家の強烈な面々と比べるとかすみがち。それでも1582真田ではやっぱり貴重な戦力。何故か毎度政治がそこそこ高い。
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||||
戦国群雄伝 | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||||||
武将風雲録(S3) | 戦闘 | 78 | 政治 | 31 | 魅力 | 61 | 野望 | 55 | 教養 | 33 | ||||||
覇王伝 | 采配 | 76 | 戦闘 | 70 | 智謀 | 52 | 政治 | 54 | 野望 | 55 | ||||||
天翔記 | 戦才 | 142(B) | 智才 | 110(B) | 政才 | 118(B) | 魅力 | 69 | 野望 | 60 | ||||||
将星録 | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | ||||||||||
烈風伝 | 采配 | - | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | ||||||||
嵐世記 | 采配 | 42 | 智謀 | 43 | 政治 | 57 | 野望 | 17 | ||||||||
蒼天録 | 統率 | 64 | 知略 | 69 | 政治 | 62 | ||||||||||
天下創世 | 統率 | 63 | 知略 | 63 | 政治 | 61 | 教養 | 39 | ||||||||
革新 | 統率 | 74 | 武勇 | 70 | 知略 | 71 | 政治 | 68 | ||||||||
天道 | 統率 | 74 | 武勇 | 70 | 知略 | 61 | 政治 | 68 | ||||||||
創造 | 統率 | 73 | 武勇 | 67 | 知略 | 61 | 政治 | 66 | ||||||||
大志 | 統率 | 71 | 武勇 | 66 | 知略 | 61 | 内政 | 65 | 外政 | 64 |
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