基本データ | |
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名称 | 自由インド仮政府 आर्ज़ी हुक़ूमत-ए-आज़ाद हिन्द عارضی حکومتِ آزاد ہند Ārzī Hukūmat-e-Āzād Hind Provisional Government of Free India |
公用語 | ヒンドゥスターニー語 |
首都 | ポートブレア |
国家主席 | スバス・チャンドラ・ボース |
首相 | スバス・チャンドラ・ボース |
最高顧問 | ラス・ビハリー・ボース |
自由インド仮政府とは、1943年から1945年まで存在した、イギリスの支配下にあったインドの独立を成し遂げるために樹立した亡命政府である。ヒンディー語:आर्ज़ी हुक़ूमत-ए-आज़ाद हिन्द ウルドゥー語:عارضی حکومتِ آزاد ہند
概要
インドの独立運動家であるスバス・チャンドラ・ボースが、同志であるラス・ビハリー・ボースと共に協力を求めた大日本帝国の全面的な支援の下、イギリス領インド帝国としてイギリスの植民地支配下にあったインドの即時独立をめざし、自身を指導者として当時日本の統治下であった、東南アジアのシンガポールにおいて樹立させた暫定政権である。
誕生経緯
ボース日本へ
当時のインドはイギリスの植民地であった。国民の多くは独立を夢見、イギリスの支配から脱するべく民族運動が盛り上がっていた。1939年、第二次世界大戦が勃発しドイツと英仏が戦争を始めた。敵の敵は味方という事で、独立運動の急先鋒だったスバス・チャンドラ・ボースはドイツへ移動。ナチスの支援を受けながら、ラジオでインド国民に決起するよう扇動した。1941年12月8日には大日本帝國が参戦し、イギリスに宣戦布告した。ところが、インド国民の反応は冷淡だった。日独は「信頼できる相手」ではなかったのだ。やがて援蒋ルート遮断のために日本陸軍第15軍がビルマに上陸すると、「陸伝いでインドに侵攻してくるかもしれない」と警戒する。一方、当の日本はインド侵攻を全く考えていなかった。
マレー方面の戦いでイギリス軍を破り、大量のインド兵を捕虜にした日本軍は、1941年12月31日に藤原岩市少佐率いる特務機関『F機関』によってインド国民軍を編成。その最高司令官にボースを据える。独立運動の協力を求めドイツに身を置いていたスバス・チャンドラ・ボースは、「今や日本は、私の戦う場所をアジアに開いてくれた。この千載一遇の時期にヨーロッパの地に留まっていることは、全く不本意の至りである」として、日本行きを希望して大使館と接触するようになった。この状況下において、イギリスはインドを連邦自治領として、日本とインドの接近に楔を打とうとしたが、それまでボースの今が独立の好機であるという訴えかけに、曖昧な態度であったインド国民会議派は、マハトマ・ガンディー指導のもと1942年8月8日に、「イギリスよ、インドから撤退せよ」という強固な決議を出した。宗教家兼政治指導者として、インド国民に絶大な支持があったガンディーの影響力を危惧したイギリスは、1942年8月9日にガンディーを検挙し、2年間拘留した。
その後ボースは、日本軍に協力していたビハリー・ボースやモハンシン大尉の強い要請もあり、大本宮はボースの受け入れを決定し、マダガスカル島沖でドイツの潜水艦・U180から日本の伊号潜水艦(伊29)に乗り移り、1943年5月5日に日本占領下のマラッカ海峡のサバン島に到着し、休む間もなく東京へ飛んだ。
ボースは東條英機首相と会見し、その会見において、「インド独立のため、日本は無条件で援助してくれますか。政治的なヒモがつかぬことを確約してくれますか」と要請し、初め東條首相はボースをあまり評価しておらず、ボース側の会見申し入れを口実を設けて拒絶していたが、しかしボース来日から一ヶ月後に実現した会見で、東條首相はボースの人柄に魅せられ、一ヶ月後の再会談を申し入れた。
再会談でボースと東條首相は、日本とインドが直面している問題に関する意見を一致させ、ボースの要請を確約してその後食事会にボースを招待し、東條首相はボースの影響でインドに対する考え方を新たにした。
またボースの東亜解放思想を自らが提唱する大東亜共栄圏成立に無くてはならないものだと考え、ボースに全面的に協力することを約束した。こうして東條首相の確証を得たボースは、本格的にインド独立に向けて始動する。
仮政府樹立
1943年6月19日、記念すべき記者会見が、それまで着けていた覆面を脱ぎ、帝国ホテルで行われ、その後6月27日、黒山のインド人群衆が押し寄せていたシンガポールの飛行場に到着し、山下奉文大将指揮下のにあった、F機関の藤原岩市機関長とモハンシン大尉が組織化した、インド国民軍の儀仗兵一個大隊に出迎えられる。そして10月21日、自由インド仮政府の樹立が宣言された。二日後、日本政府は自由インド仮政府を正式に承認する。この自由インド仮政府は、イギリスのインド植民地支配以来、初の独立政府であり、日本政府は将来インドが真に解放される日まで、各般にわたり全面的に支援することを決定した。チャンドラ・ボース首班は、10月24日に正式にアメリカ・イギリスへ宣戦布告した。11月5日。東京で大東亜会議が行われ、ボースはオブザーバー(準資格参加者)として参加する。この会議で彼は雄弁に演説を行い、日本の協力を要請した。これに感銘を受けた東條首相は「一緒にインドへ参りましょう」と言ったという。大東亜会議では、東條首相からアンダマン諸島とニコバル諸島を自由インド仮政府に譲渡する約束を取り付けた。ボースはそのカリスマ的魅力で、国民軍の募兵を積極的に行った結果、総兵力は3万人に達した。
自由インド仮政府の初閣議において、インド民族の結束を強めるべく、インド人同士が交わす挨拶の全てを「ジャイ・ヒンド(インド万歳)」に統一し、ボース首班を「ネタージ(総領)」と呼ぶことに統一された。
そして『自由インド仮政府樹立』宣言において
「……インド独立政府は成功への諸条件を獲得した。いまや最終的闘争決行のみが残された問題である。それは国民軍がインド国境を越えて、デリーへの歴史的進撃に乗り出すときにはじまり、独立旗がニューデリーの総督官邸の上に掲揚されるときに終わる」
と演説し、最後に壇上から「チェロ・デリー チェロ・デリー(征け、デリーへ)」と呼びかけ、インド国民軍とインド民衆二万人が唱和し、地鳴りのように轟いた。ボースの尽力による、自由インド仮政府の樹立にインド国民は熱狂し、国民の怒りは支配するイギリスに向けられていった。
日本軍とともに
自由インド仮政府の悲願は、日本軍とともにインドへ突入する事だった。インドに辿り着いて、ようやく「政府」に昇華できるのだ。
1944年1月7日、大本営はインパール作戦を発令。これに伴って自由インド仮政府の事務所がビルマのラングーンに設置され、インド国民軍は兵舎を調達し始めた。仮政府の進出に、ビルマ国のバー・モウ元首は難色を示したが、沢田大使が仲裁に入って渋々首を縦に振った。こうしてラングーンには国民軍の兵士がよく見受けられるようになった。自由インド仮政府との連絡機関として、新たに光機関を設立。機関長は、在ベルリン時代にボースと親交があった山本大佐が据えられた。3月からインパール作戦が開始され、インド国民軍も参加。第33師団とともに進撃を続けたが、イギリス軍の逆襲にあって大敗。インド国民軍は後方に配置されていたが、かなりの損害を出してしまっている。1944年末、外務省は自由インド仮政府に公使を派遣。しかし事務所のあるラングーンは独立国のビルマ国内にあり、勝手に公使館を設置する事は出来なかった。
ビルマ戦線は次第に戦況が悪化し、インド突入は夢のまた夢になりつつあった。戦線は崩壊し、日本軍はタイに向かって敗走を続けた。1945年初頭にはラングーンへの空襲が激しくなり。2月以降は電灯が消滅。3月22日には水道まで停止した。市内の治安も悪化し、3月27日にはビルマ国が寝返り、更なる戦況悪化を招く。ついに4月23日、仮政府はラングーンを放棄し、モールメンへ向けて逃避行を開始した。ちなみにボースはラングーンを枕に討ち死にする気だったが、部下に説得されて撤退に応じた。しかし残していくラングーンを気にかけ、5000名の国民軍に「イギリス軍が来るまで治安維持をせよ」と命じている。5月になると、もはやインド独立の夢を断たれたも同然だった。日本は、ボースに日本との友好関係を続ける条件でソ連へ亡命するよう薦めた。
そして8月15日、日本の降伏によって後ろ盾を失った仮政府は事実上解体された。
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関連項目
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