伊29とは、大東亜戦争中に大日本帝國海軍が建造・運用した伊15型/巡潜乙型潜水艦10番艦である。1942年2月27日竣工。通商破壊で連合軍船舶7隻(4万4776トン)を撃沈し、遣独潜水艦作戦を成功寸前まで持っていったが、1944年7月26日にバシー海峡で待ち伏せされて沈没。
概要
大日本帝國海軍に所属する潜水艦の中で、最も多く量産された巡潜乙型の10番艦にあたる。
ロンドン海軍軍縮条約脱退後、帝國海軍は旗艦用の巡潜甲型と、量産用の巡潜乙型の二本柱を以って、乏しい潜水艦戦力の拡充を図った。設計自体は巡潜甲型をベースにしているが、不必要な旗艦設備を撤去し、艦体を小型化して量産性を向上。しかし燃料搭載量が減少して航続距離が1万4000海里に減じた。また小型化したと言っても排水量は2000トン以上あり、更に水上偵察機の運用能力も有するため、潜水艦の中では非常に巨体、下手な駆逐艦よりもずっと大きいのである。
設備をギチギチに詰め込んだ弊害で通路は兵員2名がギリギリ通れる程度の幅しかなく、よく突起物に頭をぶつけて屈強な乗組員が涙をポロポロ流すのは日常茶飯事。食糧庫が無いので糧食は隙間という隙間に詰め込まれ、通路に敷き詰めてその上に板を置くなど、徹底的に空間を活用している他、主計長がどこに何の食べ物があるのかを把握していないと献立が成り立たなくなってしまう。
艦名の29から“不朽”の愛称で乗組員に親しまれ、艦内誌にも不朽の名が使われていた。僅か二刊しか発行されておらず、長らく現物が存在していなかったものの、2014年に関係者の自宅から創刊号が見つかって防衛省に寄贈されている。基本的に巡潜乙型は明るい灰色に塗装されているが、伊29の場合、現存する写真から真っ黒に塗装されていた事が判明している。
伊29の艦歴はまさに特異そのものであった。通商破壊や航空偵察で活躍したのはもちろん、インドの独立家スバス・チャンドラ・ボースをドイツ潜水艦から受け取ってサバンまで輸送(2つの異なる海軍が民間人を輸送したケースは戦争の全期間を通しても伊29の例しかない)、遣独潜水艦作戦で伊29がドイツより持ち帰った一部資料は日本初のロケット戦闘機秋水とジェット戦闘機橘花の開発に使われた。兵器開発の観点から見ても伊29は重要な役割を果たしている。
要目は排水量2198トン、全長108.7m、全幅9.3m、最大速力23.6ノット(水上)/8ノット(水中)、搭載重油量774トン、乗員96名、安全潜航深度100m。武装は40口径14cm単装砲1門、25mm連装機銃1基、53cm艦首魚雷発射管6門、魚雷17本。零式小型水上偵察機1機の運用能力を持つ。
艦歴
1939年に策定された海軍軍備充実計画(通称マル四)において、乙型一等潜水艦第140号艦の仮称で建造が決定。1939年9月20日に横須賀海軍工廠で起工。当初の艦名は伊33であった。1940年9月29日に進水し、対米英開戦が迫る1941年11月1日に伊29へ改名、そして開戦後の1942年2月27日に無事竣工を果たした。初代艦長に伊豆寿一中佐が着任、呉鎮守府に部署するとともに第6艦隊第14潜水隊へ編入された。
1942年
2月27日、竣工及び引き渡しを終えた伊29は横須賀を出港。3月1日に瀬戸内海西部へ到着し、姉妹艦の伊28より第14潜水隊の旗艦を継承、慣熟訓練に従事する傍ら、潜水学校の教務に協力した。戦況は伊29に十分な訓練期間を与えてくれず、3月10日、第14潜水隊は第1、第3潜水隊とともに伊10が旗艦を務める第8潜水戦隊へ転属、同じ日に本土東方沖で発見された敵機動部隊を捕捉するため、準備出来次第出撃するよう命じられる。
3月11日18時、僚艦3隻とともに呉を出撃して東進。16日にL散開線へ到着して索敵を行うも敵情を得られず、18日午前6時に撤哨を下令されて退却、21日に呉へ帰投して補給を受ける。3月27日、ベルリンのドイツ海軍本部からインド洋での通商破壊要請を受け、3月31日に第8潜水戦隊へ海上交通破壊が下令。インド洋には連合軍の主要補給路があり多くの敵船舶が行き来していたのだ。
4月10日、連合艦隊第二段作戦第一期作戦兵力部署により、伊29の作戦海域はインド洋及びオーストラリア東岸に定められた。何故オーストリア東岸も作戦海域に含まれていたのかと言うと、5月上旬に行われるポートモレスビー攻略作戦の支援任務も帯びていたからである。
4月16日に呉を出港。まず前進拠点のトラック諸島に向かっていたが、4月18日に敵空母ホーネットより出撃したB-25が本土各地を空襲(ドーリットル空襲)、逃走する米機動部隊の追撃と捜索を行うべく急遽北上する。しかし発見出来なかったので翌19日に予定の航路へ戻り、4月24日にトラック基地へ入港。そして連合軍の重要拠点ポートモレスビー攻略を企図したMO作戦を支援するべく、4月27日、伊21とトラックを出撃。珊瑚海に出現した敵機動部隊の退路を断つためガダルカナル島西方150~250海里にあるC散開線についた。
5月1日、この日から艦内新聞が発行され、記念すべき創刊号には赤道を南下した時に行われる赤道祭の様子が書かれていた。とはいえ今は戦時中なので、伊豆艦長がビール1瓶を海中へ奉納するという簡易的なものであったが。以降は乗組員から募った漫画、所感、俳句、詩歌、漫文等が掲載。
5月8日、珊瑚海海戦により退却を図る敵機動部隊の追撃命令を受け、伊29は南下を開始したものの発見出来ず、5月10日にMO作戦そのものが中止となってしまった。代わりに甲標的によるシドニー攻撃を支援する目的で偵察任務が命じられる。伊29は散開線を抜けてオーストラリア東岸方面に向かう。
5月13日にシドニー沖へと到着して港内を偵察。翌14日午前3時、シドニーに入港する蘭軽巡洋艦トロンプと豪駆逐艦アランタを発見し、追跡するも雷撃できず。伊29はウォースパイト級戦艦1隻、駆逐艦1隻と報告した。5月15日からは毎晩ニューカッスルに対する航空偵察を敢行。
5月16日午前8時34分(日本時間20時28分)、ニューカッスル東方30海里で、ソ連極東船舶公社所属の武装商船ウエレンを発見。ブリキと羊毛を積載してウェリントンを発ちペルシャ湾に向かっている途上だった。すぐに魚雷2本を発射する伊29だったが命中せず、浮上して砲撃戦を仕掛ける。伊29に追跡されている事に気付いたウエレンは遭難信号を発しながら遁走、それを伊29が甲板砲や機銃を撃ちかけて追い回し、2時間に及ぶ追跡劇の末、14cm砲弾7発を発射して上部構造やウィンチを破壊し、船長と乗組員2名を破片で負傷させた。しかしウエレン側も機銃掃射で激しく抵抗、右舷前部の上部構造物に直径15cmの破孔が生じる。幸い潜航には支障が無かったので伊29は潜って退避。その間にウエレンは逃走した。やがて、信号を受けた米駆逐艦パーキンスや豪駆逐艦アランタ等からなる対潜掃討部隊が出動してきたものの、敵艦が到着する前に離脱成功。損害こそ与えられなかったが、潜水艦を警戒した連合軍はニューカッスル・シドニー間の海上交通を24時間停止させた。
5月23日未明、搭載機によるシドニー航空偵察を実施し、シャーク島東方500mに大型艦1隻、同島造船所東岸に駆潜艇1隻、西岸に大型艦1隻の在泊を、ガーデン島西方に軽巡2隻と駆逐艦3隻、ハーバーブリッジの奥に多数の商船の在泊を報告。後に続く甲標的攻撃に重要な情報を与えた。しかし着水時に水偵が大破してしまい搭乗員のみの回収となった。そして5月31日、伊22、伊24、伊27による甲標的攻撃が開始され、宿泊艦クッタブルを撃沈。伊29は6月3日までシドニー沖に留まって甲標的の帰投を待っていたが、出撃した甲標的は1隻も戻ってこなかった。その後は通商破壊を行うべくブリスベーン沖に移動。
6月4日、モートン島近海で浮上航行中に豪華船キャンベラと遭遇、敵船に発見されるも潜航退避に潜航して難を逃れた。獲物に恵まれなかったので、6月10日に哨区を離れ、7月4日よりブリスベーンの監視を実施、しかしこちらも敵影を一切見ず、7月10日に沖合いから撤収してヌーメア方面に向かう。ヌーメアに対する航空偵察を行ったのち、7月10日にマーシャル諸島の潜水艦基地クェゼリンへ寄港、同日中に出発し、7月21日に横須賀へ帰投した。最初の戦闘航海を終えて修理を受ける。
6月中に行った伊10、伊16、伊18、伊20、愛国丸、報国丸によるインド洋通商破壊作戦で計22隻(10万3496トン)の大戦果を挙げた事で、軍令部は第1、第2、第8潜水戦隊にインド洋での通商破壊を命じた。
インド洋での通商破壊
7月29日、インド洋での通商破壊作戦に備えて横須賀を出港、8月5日20時にインド洋を臨むマレー半島ペナン基地へ到着した。8月8日16時30分にペナンを出撃して狩りを始めるが…。同日早朝、アメリカ軍がガダルカナル島とツラギに来襲、予想よりも早く反攻作戦が開始されたため、投入予定の潜水艦の大半がインド洋から引き抜かれ、5隻にまで戦力が減ってしまった。
伊29と伊27は、航続距離の長い巡潜乙型なのでアラビア海及びアデン湾方面へと長駆し、旧式の海大型で編成される第30潜水隊(伊162、伊165、伊166)は、ペナンと距離が近いセイロン島方面に向かった。8月29日にセーシェル諸島の航空偵察を行った後、ディエゴスアレス、ソコトラ、ザンジバル、モンバサ、セーシェルの海上輸送路を攻撃するべく行動を開始。
9月2日午前7時44分、アデン湾の入り口で見張り員が英貨物船ガスコン(4224トン)を発見。数本の魚雷を発射し、そのうち少なくとも1本がガスコンに命中、たやすく撃沈して見事初戦果を得た。翌朝、英貨物船ブリティッシュ・ジーニアスに向けて雷撃を行うも外れ、追跡の末に再度雷撃を試みたが、やはり効果は得られなかった。
9月9日23時20分、ソコトラ島沖で英商船ハースフィールド(5299トン)に魚雷を命中させる。だが沈没の速度があまりに遅かったため伊29側は囮船を疑ったという。翌10日午前0時25分に再び魚雷を命中させたがそれでも沈まず、20時に浮上、14cm砲弾29発を叩き込んで、ようやく撃沈に至った。
9月16日にソコトラ島西方で英商船オーシャン・ホナー(7174トン)を捕捉。14cm甲板砲で撃沈する。沈没の際に水兵15名と砲手5名が死亡、生き残った26名が小島へ漂着してイギリス空軍に救助された。
9月22日23時2分、米武装蒸気船ポール・ラッケンバック(6606トン)をマンガロール南西780海里で捕捉。魚雷をポール・ラッケンバックの左舷側に命中させ、船首全体が浸水した敵船は頭から徐々に沈み始める。翌23日午前0時40分、二度目の雷撃を実施してトドメを刺し、積み荷のB-25爆撃機10機や戦車18輌もろとも海底へと沈めた。船員61名は4隻の救命ボートに分乗して脱出。
10月2日にペナンへと帰投。10月5日、シンガポールに回航され、第101工作部で整備を受けた。此度の通商破壊で伊29は4隻を撃沈、全艦合わせて計11隻(5万4554トン)を撃沈しており、前回の通商破壊と比較すると少なくなったものの、まずまずの戦果と言えた。10月23日にシンガポールを出港してペナンへと移動。翌24日、再びアフリカ東岸沖での通商破壊を命じられる。
11月11日にペナンを出撃、モルディブ諸島南方を西進し、狩り場のアラビア海へ進出する。
11月23日午前5時39分、モルディブ諸島北西にて、ボンベイからモンバサに向かっていたイギリス・インド会社所属の英武装貨客船ティラワ(1万6トン)を捕捉し、追跡を開始。222名の船員、732名の乗客、砲兵4名、6712トンの物資を抱えた大物であった。伊29が放った魚雷はティラワの巨体に命中。パニック状態に陥った乗客たちは救命ボートに乗って我先に脱出していった。船は一旦放棄されたものの、1万トン級の巨体だけあって魚雷1本では中々沈まず、復旧の希望を見出した乗客と船員の一部は船に戻り始める。しかしその直後、伊29にトドメの魚雷を撃ち込まれて努力むなしく撃沈。船員28名と乗客252名が死亡した。生存者678名は英軽巡バーミンガムに救助されている。
12月2日23時、ソコトラ島南南西で石油9000トンを積載したノルウェーの艦隊給油船ベリタ(6232トン)を発見。翌3日午前11時14分と15時に行った雷撃は命中せず、12月4日午前11時の雷撃でようやく魚雷を命中させて大破炎上へと追いやる。燃え盛るベリタは放棄となり漂流する無人船と化す。19時50分から20時45分まで水上砲撃を加えてベリタを撃沈した。
1943年
1943年1月4日にペナン帰投。今回の通商破壊では、伊29が挙げた2隻撃沈、伊166の1隻撃沈の計3隻(2万1661トン)のみと寂しい戦果となってしまった。1月27日、シンガポールに回航して船体の整備と乗組員の休養に従事する。2月5日に第14潜水隊は南西方面艦隊に編入。インド洋での通商破壊任務が言い渡された。2月7日にシンガポールを出港し、ペナンに移動。寄港中の2月11日、乗組員が作戦勤務の暇を見て作成された艦内誌「不朽」の第1号が刊行。この「不朽」は乗組員の家族にも配布する目的があったという。
2月14日にペナンを出撃、ベンガル湾方面で遊弋するも、第14潜水隊の司令官が人事異動となったため、3月7日に一旦ペナンへ戻り、新たな司令である寺岡正雄大佐が乗艦。
この頃、インド洋通商破壊に潜水艦を5、6隻程度しか投入していない帝國海軍に、ドイツ海軍作戦部長は「敵の海上交通路破壊を軽視している」と非難。しかし帝國海軍には外洋作戦可能な潜水艦は約40隻程度しかなく、その過半数を艦隊作戦に投じている関係上、ドイツ側が望むような大規模通商破壊は困難であった。3月に入ると第30潜水隊が修理の目的で内地帰投してしまい、インド洋に残っているのは第14潜水隊の伊29と伊27の僅か2隻になってしまった。ドイツ側の要望とは裏腹に戦力は減り続けた。
U-180との邂逅、ボースを移送せよ
参謀本部はインド人の反英意識を高めるべく、ドイツに亡命中のインド独立運動家スバス・チャンドラ・ボースを日本へ招こうと考えた。在独中の大島駐独大使や山本敏陸軍大佐の働きかけにより、ヒトラー総統の同意を得て、ボースの訪日が決定。
しかし目下最大の問題はその移送方法だった。最初は空路での移送を考え、ドイツ空軍からの協力も取り付けていたが、ドイツが計画した北極海→ベーリング海→カムチャッカ半島東方→千島列島の日本軍飛行場に着陸させる飛行ルートは東條首相が難色を示した。というのも、ベーリング海を通過する際にソ連領空を侵犯する恐れがあり、日ソ中立条約を結んでいる日本にとって、ソ連との関係に悪影響を及ぼす危険性を孕んでいたからだった。日本側は代案としてインド洋を通過する飛行ルートを提案するも、今度は長距離飛行に耐えられる機体を持っていないドイツ側が難色を示す。ドイツ空軍は、北方飛行ルートを採用してくれるなら輸送に使った機をそのまま寄贈しても良いと譲歩案を提示したが、これも日本側が拒絶したため空路は完全に頓挫。
残された手段は潜水艦による輸送のみ。だが、ドイツ海軍には喜望峰を回ってインド洋まで長駆出来る潜水艦が無く、日本海軍も太平洋戦線が手一杯で大型潜水艦を回す余裕が無かった。いつまで経っても解決策が出ない現状にボースは失望感を露わにするも、ドイツ駐在海軍武官横井忠雄少将とドイツ海軍は妙案を生み出すため尽力し、その結果、一つの案が生まれた。
ドイツ海軍はUボートにボースを乗せてインド洋に向かい、これに呼応して日本海軍も大型潜水艦をインド洋に派遣、そして定められた位置で両艦は合流、ボースを日本側に引き渡すのである。この案はドイツ海軍の賛同を得られ、横井海軍武官と軍令部との間で暗号電文による打ち合わせが始まった。反英放送を執拗に続けるボースがドイツを出発すればイギリスは彼を捕らえるべく積極的に行動するだろう。そうした事態を考慮して輸送計画は極秘とされ、日独両潜水艦もその行動を秘匿する必要から、航行中の無電発信は一切禁止。また、今回の輸送作戦に便乗する形で人員と物資の交換も計画され、日本海軍からは潜水艦戦術の権威である江見哲四郎中佐と技術士官友永英夫技術少佐を訪独させようとした。友永少佐が生み出した「自動懸吊装置」と「重油漏洩防止装置」は実に画期的な技術であり、これをドイツに伝達させる目的があったのだ。
2月9日、U-180はキールを出港。ドイツ占領下フランスのブレスト軍港でボースと秘書ハッサンを便乗させた。U-180のブレスト出港は横井海軍武官からの機密電で軍令部の知るところとなる。ボースのインド洋到着は約2ヶ月後。大本営海軍部は直ちにU-180を迎えに行く艦の選定に入った。「第6艦隊所属の伊号潜水艦を派遣する」と艦隊司令の小松輝久中将に伝えると、彼は幕僚に命じて適切な艦を選ばせた。すると第14潜水隊司令艦の伊29に白羽の矢が立てられる(そもそも他の艦は本土に帰還あるいは整備中で、即座に動けるのが伊29だけだったとも)。
4月1日、第14潜水隊司令寺岡大佐はペナンの第8潜水戦隊司令部への出頭を命じられ、そこで石崎昇少将から「インド洋上でドイツ海軍潜水艦U-180と合流し、潜水艦建造技術を学ぶためドイツに向かう友永英夫技術中佐などの人員や機密兵器を託送せよ」と極秘任務を言い渡される。東京からドイツ側に引き渡す物資が厳重な警備のもと送られ、ペナン基地隊や第9特別根拠地隊と協力して八九式空気式魚雷、魚雷艇用二式魚雷2本、赤城型空母と甲標的の設計図、新兵器供与の対価としてドイツに支払う金の延べ棒2トンなど計11トンの物資が積載された。この極秘任務を知っているのは戦隊司令の寺岡大佐と艦長の伊豆寿一中佐だけであり、当初乗組員には知らされなかったが、厳重に梱包された幾つかの物資や大量の金塊が艦内に運び込まれ、特に士官室に収納された金塊はインド洋での作戦行動に必要になるとは思えず、言い知れぬ違和感を感じていた。
4月5日18時、大勢の人々の見送りを受けながらペナン南端の潜水艦桟橋を出港。スマトラ島の北端を通過し、インド洋に入った伊29は西南方向へ一直線に突き進みながら、U-180との会合地点に向かう。ここで伊豆艦長から士官にのみ行動目的が明かされ、各士官から乗組員にも徐々に伝わっていった。伊29の行動は極秘なので無線はU-180との合流確認の1回のみ。敵船と出くわすと艦の目的が露呈する危険性があるため一般航路を大きく迂回。薄暮の定時に天測を続けながら慎重に会合地点へ向かった。今のところ敵船との遭遇こそ無いが、無線封鎖の影響でU-180の位置が分からず、また連合軍に暗号を解析されていれば会合時に襲われる最悪の展開も予想され、寺岡大佐と伊豆艦長の表情は日に日に険しさを増していく。
4月23日午前、マダガスカル島南東450kmの合流地点に到着して浮上、司令塔には見張り員が立って警戒を厳にしている。間もなくU-180と思われる艦から位置情報が送られてきたが、予定の合流地点より少し離れていたので伊29は北上。13時27分、左舷20度方向に正体不明のマストを発見し、敵艦に備えて砲手と機銃員が配備に就くも、艦の形を見て、13時35分にU-180と判断された。互いに僚艦と認めた伊29とU-180は150mほどにまで接近。全長87.6mのU-180なのに対し、伊29は108.5mと一回り巨体であった。しかし海上に吹き荒れる風速10mの風が大波を発生させ、艦の動揺の大きさから物資の移載は困難と判断、波が穏やかな場所を求めて伊29が12ノットの速力で北北東へ移動し始めると、U-180も斜め後方を追従。
4月24日18時30分、波が低くなったのを見計らって伊29は両舷停止。連絡用のゴムボートを降ろしてU-180に向かわせる。15分後、ドイツ海軍の中尉が伊29に移乗したのち、連絡員の独信号兵と交代。ここまでは良かったが時化が収まらず両艦は洋上での待機を強いられる。夜空に冴えた星が光る中、艦内に留まったドイツ人信号員は、ドイツ語が堪能な加納照民軍医大尉を通訳にして、カレーライスを美味しそうに食べていた。燃料補給のため伊29はU-180に対し一緒にサバンまで来るよう提案したが、謝絶されている。
夜が明けていくにつれ波は静かになっていき、寺岡大佐は交換作業の強行を命令。独信号兵が手旗でU-180に伝えた。
4月27日朝になってようやく移載作業の準備を開始。まずU-180の上甲板に物資を並べ、続いて接近してきたU-180に伊29側がロープを渡し、2隻を繋ぎ止めて位置を固定、そして午前11時より作業が開始された。伊29は小型潜水艦設計図、対戦車用特殊砲弾、キニーネ約2トン、ドイツ大使館向けの郵便文書、吸着機雷1発、ソナー欺瞞用デコイ432個入り木箱3個を受領。この作業は夕方頃に完了した。次に人員の交換が行われ、伊29に滞在していた信号兵がU-180に帰り、U-180からはインドの独立家スバス・チャンドラ・ボースと秘書のハッサンが伊29に来艦、全身に波しぶきを浴びながら甲板に上がり、笑顔とともに寺岡大佐と握手を交わす。それが終わると友永中佐と江見哲四郎中佐がU-180へ乗り移り、20時30分に全ての工程が完了。
伊29はドイツ人が好物とするジャガイモを贈ろうとしたがU-180は「十分に持っている」と謝絶。伊豆艦長は「兄等の親愛なる潜水艦乗組員より。我々は世界新秩序の建設に対し、兄等の努力を希望し、さらに、別れに臨み安全なる航海と多幸を祈る」と挨拶を送り、U-180艦長ムーゼンベルク少佐から「日独両潜水艦の協力により、インド独立運動の志士を本国に送還し、これによりインド国民が英国の不法なる支配より脱せん事を切に祈る」と返礼した。
やがて南北への移動が始まり、次第にU-180と伊29の距離が開いていく。甲板上の乗組員たちは、帽子や手を振ったりしてU-180を見送り、やがて南の水平線下に没して姿が見えなくなった。大任を終えて帰路に就く伊29の入港先はペナンの予定だったが機密を優先してサバン島に変更。
5月6日午前10時30分にサバンへ到着。ドイツ駐在から帰って来た山本敏陸軍大佐が背広姿で出迎え、ドイツからアジアへの渡航に尽力してくれた山本大佐をボースは感激しながら抱擁した。この時、乗組員一同とボースが記念撮影を行っており、現在も見る事が出来る。その後ボースとハッサンは空路で東京に移動。伊29はドイツから授かった機密兵器と設計図を全てサバンに揚陸し、5月8日に出港、ペナンを経由して5月14日にシンガポールへ入港、整備を受ける。整備を終えて5月29日にシンガポールを出港、翌日ペナンに戻った。
第14潜水隊には新たに伊37が加わり、伊10も戦線復帰した事で、インド洋方面の潜水艦は5隻に増加した。
続くインド洋での通商破壊作戦
6月8日にペナンを出撃。7月8日に狩り場となるアデン湾へと到着して通商破壊を開始する。この時、南方のモザンビーク海峡やマダガスカル島方面では、同盟国ドイツのU-181が通商破壊中であり、日独共同戦線が張られていた。更にインド洋を南北に分け、北側を日本、南側をドイツの担当海域とし、同士討ちを避けるため潜水艦は攻撃しない事を事前の日独協定で取り決めている。
7月12日17時40分、アラビア南岸にて英貨物船ラフマニ(5291トン)を発見。18時14分から雷撃を行ってラフマニを撃沈した。7月14日には紅海入り口付近で英貨物船シティ・オブ・ウインザーに対して雷撃を行うも不成功に終わる。8月2日にペナンへと帰投。
ペナン基地では小規模な修理と整備しか出来ない上、内地を出撃してから1年4ヶ月も経過していた事もあり、内地回航が下令され、8月9日に捕虜3名を乗せて出港。道中何事も無く8月18日に呉へ到着し、本格的な整備を受ける。ここで待ち受けていたのは空前絶後の重要任務だった。伊29は遣独潜水艦作戦の第四次訪独艦に選ばれたのである。
9月15日、長らく務めていた第14潜水隊の旗艦から外される。また対潜警戒が厳重な大西洋を突破するにあたって有能な艦長を充てる必要が出てきた。選抜されたのは伊19艦長時代に米空母ワスプを撃沈した殊勲の木梨鷹一中佐であった。10月10日、その木梨中佐が艦長に着任。
遣独潜水艦作戦
11月5日に呉を出港した伊29は前進拠点となったシンガポールへと向かい、11月14日に入港、ドイツ占領下フランスを目指す長旅に向けた準備を開始する。現地で14cm単装砲を降ろし、代わりに九六式三連装機銃2基を装備して対空能力を向上。これは対潜哨戒激しい大西洋での活動を見越した措置だった。
12月5日、第二次遣独艦として一足先にドイツへ向かい、そして帰国の途に就いている伊8がシンガポールに入港。木梨艦長は伊8を訪れ、内野艦長に大西洋での体験を尋ねた。得られた情報からレーダーの重要性を把握。宇垣纏参謀総長と連絡を取り、伊8が装備しているドイツ製電波探知機メトックスの譲渡を具申したところ、この意見が取り入れられ、伊29にメトックスを装備させるよう軍令部から命令が下った。こうして翌6日にメトックスを装備。12月14日、赴任する駐独大使館付海軍武官小島秀雄少将、永盛義夫技術少佐、田丸直義少佐、海軍大学ドイツ語教授鮫島龍夫ら計20名と、ドイツが求める生ゴム80トン、タングステン30トン、錫50トン、亜鉛2トン、キニーネ、コーヒー3トン等を積載。秘匿名として日本側は「松」、ドイツ側は「U-Kiefer」と呼称した。
そして12月6日午前11時、シンガポールを出港。長い旅路の第一歩を踏み出した。本来の予定ではペナンに寄港するはずだったが、第三次遣独艦だった伊34がペナン直前で英潜水艦に襲われて撃沈されたため、船の交通量が少ないスンダ海峡へと大きく迂回し、インド洋に直行した。いかに航続距離が長い伊29と言えどフランスまで無補給で行く事は叶わない。このため12月23日早朝、インド洋中央にてモンスーン戦隊所属のドイツ給油船ボゴダと合流し、6時間かけてディーゼル燃料120トンと食糧の補給を受ける。しかし伊29の行動は連合軍の暗号解析によって特定されてしまい、常時監視を受ける。
ドイツの勢力圏まで辿り着くには2つの難所が立ちはだかる。1つ目は南アフリカ南端の喜望峰で、この海域一帯にはローリング・フォーティーズと呼ばれる暴風圏、すなわち常に風速40mの西寄りの強風が吹きすさび、荒波が巻き起こっている。またイギリスの舎弟たる南アフリカ連邦空軍の哨戒機が常に目を光らせるので、哨戒圏を回避するには最低でも南方500海里を迂回しなければならなかった。
2つ目の難所はゴール直前のビスケー湾。ドイツ海軍のUボートが頻繁に往来する海域だけあって、連合軍の警戒が非常に厳しく、レーダーを備えた対潜哨戒機が跳梁跋扈する魔の領域。特に1943年以降はイギリス軍に制空権を完全に奪われており、出港したUボートが数時間後に沈められる事も多々あった。ゆえにUボート乗りからは「死の谷」と恐れられた。伊29の行く手には無数の困難が待ち構えていたのである。
1944年
1944年1月8日にマダガスカル島沖を南下。いよいよ荒天の喜望峰へ差し掛かった。荒れ狂う波と向かい風に抗いながら進み、1月10日に喜望峰南方600海里を通過、1月16日、遂に南大西洋に入った。ここまで来ると波はもう穏やかだった。1月27日、連合軍の待ち伏せ場所となっているセントヘレナ島近海を北上。順調に歩を進めていた。2月4日、ドイツ海軍から無線が入り、アゾレス諸島南方600海里でUボートと合流して新しいレーダーを受領するよう命じられる。
2月13日に合流地点へ到着したが、既に連合軍はボーグ級護衛空母クロアタンと駆逐艦4隻からなるハンターキラーグループを送り込んでおり、敵空母を発見してすかさず急速潜航。同日夜に敵艦上機から攻撃を受けるも被害は無かった。伊29と合流するべく指定海域に急行していたU-518もハンターキラーグループがうろついているのを確認し、雷撃を行ったが失敗。
敵の妨害を受けつつも2月14日午前8時にU-518と合流。ドイツ側の厚意でメトックスより高性能な電波探知機ナクソスとワンゼを受領して艦橋に装備、機器を扱うためのドイツ海軍のイェーニッケ中尉と下士官2名が移乗した。ナクソスは1943年9月に生産され始めたばかりの最新鋭逆探装置であった。任務を終えたU-518はカリブ海方面へと向かっていった。伊29にはドイツ人が好む黒パンやジャガイモを載せておらず、米が糊になるくらい煮詰めて鶏のシチューに混ぜるなど食事に気を配った。
大西洋は太平洋とは比べ物にならないほど対潜哨戒が厳しく、その厳しさたるやUボートですら被害が続出して大西洋中部から退却しなければならない程で、そのUボートより大型で騒音が大きい伊29は日中の殆どを潜航して進む必要があった。潜航が長引くとイェーニッケ中尉が真っ先に体調不良を訴える事から艦内汚染度のバロメーターに使用されたとか。
3月3日夜、フィニステル岬沖にてリー・ライトを装備した英哨戒機に発見されたが、早速ナクソスが真価を発揮、攻撃されるまでに1分間の猶予が生まれ、その間に急速潜航して難を逃れた。しかし艦橋の機銃員1名が逃げ遅れて行方不明となる。ドイツ海軍と空軍の勢力圏であるビスケー湾の奥までは気の抜けない旅が続く。
3月9日、予定より一日早くビスケー湾に到着したので潜航待機。翌10日朝、水平線の向こう側よりドイツ海軍駆逐艦Z23とZH1、水雷艇T27とT29が現れて伊29の護衛を開始。午後には5機のユンカースJu88が飛来して上空援護を行ってくれた。だが、暗号解析で逐一伊29の行動を掴んでいた連合軍はコーンウォールのポートリース基地から英第248飛行隊を出撃させ、ドイツ軍の勢力圏へ入られてしまう前に、ケープペーニャス沖で襲撃を仕掛けてきた。敵機はモスキート戦闘機のみ、しかし伊29を確実に仕留めるべく57mm砲を装備した2機が混じっており、機動力を活かして護衛のドイツ空軍機を引き離し、その間に57mm砲装備のモスキートが伊29に襲い掛かる。空戦の結果、ロタール・フォン・ヤンソン大佐が搭乗していたJu88が1機撃墜されてしまうも、伊29に被害は無かった。連合軍の猛攻は続き、17時以降にブリストル・ボーファイターとB-24で編成された10機以上の爆撃機が襲来、次々に投弾を受けたが幸い全て至近弾で済んだ。伊29の護衛に協力して戦死したヤンソン大佐は1944年11月2日に日本政府から勲章を贈られた。
そして3月11日午前7時にロリアン軍港へ到着。ここはドイツ海軍最大のUボート基地を擁する重要拠点である。現地の人々から熱烈な歓迎を受けながらU-190の隣に係留し、U-190の乗員が挨拶に訪れた。ここで便乗者と物資を揚陸した後、連合軍の空襲を避けるべく、伊29はUボートブンカーの中に入って整備を受ける。
3月14日、小島少将と木梨艦長は鉄道でベルリンに向かい、デーニッツ提督やヒトラー総統と謁見、ワスプ撃沈の功績から木梨艦長に三級十字章を授与された。この日、日独軍事協定により新鋭兵器メッサーシュミットMe163の製造権の取得許可が下り、伊29に積載される事に。同じく新型兵器であるMe262の資料も譲渡してくれるなど太っ腹なドイツ軍だった。伊29乗組員はシャトーヌフ・デュ・パプの小さな町で休養。ドイツ海軍はパリ行きの列車を手配し、一部はパリ観光を楽しんで心身を癒やす。
一方、Uボートブンカーでは伊29の九六式三連装機銃が取り外され、代わりにエリコン20mm四連装機銃とクルップ製37mm対空機関砲を装備。4月13日、帰国する小野田捨次郎大佐以下便乗者18名、メッサーシュミットMe163及びMe262の設計図とエンジン、ウルツブルクレーダー、エニグマ暗号機20台、ロケット式射出機、V1飛行爆弾の胴体などドイツ製兵器群を積載した。
4月16日午前8時45分、7隻のM級掃海艇に護衛されながらロリアンを出港。日本を目指して大西洋を南下し始める。しかし翌17日に早速イギリス軍哨戒機から執拗な爆撃を受けて前途の多難さを窺わせた。4月23日、潜航中の伊29の頭上を対潜哨戒機と思われる敵編隊が通過していった。
この時、欧州からは伊29と呂501(元U-1224)が、日本本土からは第五次訪独艦伊52が出発し、計3隻の潜水艦が日独間を行き来している状態だった。5月2日、ドイツ海軍作戦部が「敵空母が中部大西洋に出現した。松(伊29)と皐月(呂501)はドイツ海軍作戦部が定めた航路に厳格に従う必要がある」と発し、駐独海軍武官を通じて各艦に伝えられた。しかし5月13日、伊29より一足先にキールを出発し、日本本土を目指していた呂501がカーボベルデ北西で米護衛駆逐艦フランシス・M・ロビンソンのヘッジホッグ攻撃を受けて沈没。
伊29は、ビスケー湾・アゾレス諸島間の海域を長時間の潜航を以って無事突破、道中で何度も爆雷攻撃を受けつつも、6月2日に赤道を南下、アセンション諸島沖に向かう。6月11日、南大西洋にてドイツに向かっている伊52とすれ違い、ドイツから送られてきた伊52宛ての無線を傍受。互いに無線封鎖を敷いていたため通信は交わさなかった。この伊52も敵の対潜掃討部隊に捕まって間もなく撃沈されてしまった。6月21日に喜望峰を突破してインド洋に到達。出港から2ヶ月以上もかけてようやく危険地帯から脱する事が出来た。
7月12日、スンダ海峡にて味方の駆潜艇と合流、翌13日からは一式陸攻2機が現れて上空援護を行い、7月14日午前10時30分にシンガポールへ入港する。便乗者たちはここで退艦。便乗者の一人である巌谷英一中佐はいち早く新兵器の報告を行うため、持てるだけの資料をカバンに詰めて空路東京へ向かった。7月15日、連合軍の暗号解析班は伊29が前日シンガポールに入港したとの通信を傍受。7月20日には伊29が発信した詳細な予定航路を傍受・解析し、東京・ベルリン間でやり取りされた暗号で積み荷の内容をも解析、アメリカ海軍はルソン海峡で仕留めるべく、潜水艦ソーフィッシュ、タイルフィッシュ、ロックの3隻を航路上に忍ばせた。
そうとは知らずに7月22日午前8時、内地帰投する海軍士官候補生10名を乗せてシンガポールを出港。ところが7月25日午前6時30分、ルソン島西方にて浮上中のソーフィッシュをいち早く発見した伊29はこれを回避。この時は逃げ切る事に成功したが…。
最期
1944年7月26日16時45分、バリンタン海峡西口にて再びソーフィッシュに発見され、17時、速力17ノットで水上航行中の伊29目掛けて魚雷4本を発射。見張り員が伸びてくる雷跡を発見、すかさず木梨艦長が回避を命じるも避ける間もなく3本が命中し、ドイツから託された貴重な物資もろとも沈没。乗組員105名と便乗者1名が死亡。被雷の衝撃で3名の乗組員が船外に投げ出され、このうち恩田耕助兵曹長がフィリピンの小島へと泳ぎ着いて伊29の最期を報告したため、潜水艦にしては珍しく戦没日がハッキリしている。仕留めそこなった時に備えて付近にはタイルフィッシュも控えていたという。
総戦果は撃沈7隻(4万4776トン)だった。10月10日、除籍。
伊29が運んでいた資料や兵器は確かに失われたが、巌谷中佐が持ち出した資料だけは無事日本に到着、ここから秋水と橘花の開発が始まった。また遣独潜水艦作戦は成功目前で失敗してしまったものの、便乗者の輸送に限れば成功しており、伊29が輸送した小野田捨次郎大佐は後に重巡高雄の艦長に就任している。死後木梨中佐は二階級特進で少将となり、1945年4月25日に連合艦隊司令豊田副武大将によって武功が全軍に布告された。
ボースと関わった縁からインド映画『指導者スバス・チャンドラ・ボース:忘れられた英雄』にチラッと登場。銀幕デビューを果たした。
関連項目
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