貴乃花光司(たかのはな・こうじ 本名:花田光司)とは、大相撲の元力士(第65代横綱)である。
後に一代年寄『貴乃花』となり、日本相撲協会の理事を務めたが退職し、現在はタレント・評論家。
概要
1972年8月12日生まれ。東京都大田区出身。
父は元大関・貴ノ花(故人)。伯父は元横綱・若乃花(初代)、兄は元横綱・若乃花(3代)でタレントの花田虎上(花田勝)。
相撲を始めたきっかけは、父・貴ノ花が引退したことから。少年時代は、後の貴闘力(元大嶽親方)となる少年と、兄の勝(後の若乃花)に慕われていた。
1988年春場所に兄の勝と共に、藤島部屋(後の二子山部屋)に入門した。当時の四股名は『貴花田』。同期には曙や魁皇らがいる。
1989年九州場所に一気に十両に昇進し、1990年5月場所に、入門から2年で新入幕となる。
1991年5月場所初日に横綱千代の富士を破り、引退を決意させたことは、今も伝説として語り継がれている(ちなみに、千代の富士は、貴花田の父である貴ノ花を引退させた相撲を取っていた)。
この時より「若貴フィーバー」と呼ばれる90年代の相撲ブームが始まる。
平成の大横綱
1992年に初の幕内最高優勝を果たす。1993年1月場所後に新大関となり、四股名を『貴ノ花』と改名する。この年の5月場所を14勝1敗で優勝した。しかし、9月場所に曙に優勝を許し、曙が先に横綱に昇進した。11月場所では、7勝8敗と負け越して史上最年少のカド番大関となってしまい、足踏み状態となった。
しかし、1994年に復活。カド番の1月場所で14勝1敗で優勝し、5月場所で優勝、9月場所では自身初の全勝優勝を飾り、11月場所で『貴乃花』に改名。横綱昇進が期待される中、千秋楽で曙を下し、2場所連続全勝優勝という快挙を成し遂げ、翌場所(1995年1月場所)、横綱に昇進。「不撓不屈の精神」「不惜身命」という名言を残した。
横綱時代も着々と優勝を優勝を重ねていき、1996年9月場所にかけて、実に8場所も優勝を成し遂げた。曙、武蔵丸、若乃花と豪傑揃いの中で確実な強さを示し、「平成の大横綱」と称された。
1995年11月場所では、兄である大関・若乃花と優勝決定戦を行い、若貴兄弟対決が実現。しかし下手投げで若乃花に敗れ、優勝を逃した。
1996年11月場所に肉離れを起こし、さらに急性腸炎にかかってしまい、休場を余儀なくされる。その後、成績に陰りが出始め、相撲が強引になっていき、角界から批判されてしまう。体重を増やし、大型力士戦に対抗しようとするが、結果はいまいちだった。1997年はどうにか3度優勝、1998年に2場所連続優勝で優勝を20回に伸ばしたものの、その後は肝機能障害や怪我などもあり、1998年後半以降は大きく優勝から遠ざかることとなった。
同年、兄の若乃花が「整体師洗脳騒動」を起こし、若乃花とは絶縁状態となった(後に和解に至るものの、父の死をきっかけに一時期、騒動が再燃した)。
最後の優勝、そして引退
2001年1月場所、初日から14連勝して、ついに復活優勝を遂げた。
翌5月場所は初日から13連勝し他をよせつけない強さを見せたが、14日目の武双山戦で右ひざ半月板を損傷し、立つのがやっとなほどの重傷を負ってしまう。
千秋楽の武蔵丸との本割では仕切りの時点で足を引きずり、外れた関節をはめようと右ひざをぐるぐると回すしぐさを見せた。当然立会いは勝負にならず、優勝決定戦にもつれ込む。
誰もが決定戦は辞退し、武蔵丸の優勝が自動的に決まると思われたが、親方や関係者の制止を振り切って出場。立ち合いの直前に偶然関節がはまり、痛めているはずの右足を軸に武蔵丸を投げ飛ばした。勝利を決めた瞬間の表情は、普段あまり感情を表に出さない貴乃花からは想像もつかないような凄まじいもので、「鬼の形相」「鬼神」と評された。
当時の総理大臣である小泉純一郎が「痛みに耐えてよく頑張った!!感動した!!」と表彰式で発言したこともあり、相撲史と人々の記憶に残る名一番となった。
しかしその代償は大きく、手術とリハビリのために『7場所連続休場』という、連続休場のワースト記録を打ち立ててしまう。世間の目も冷ややかとなり、相撲協会からも苦言を呈されるなど、土俵人生に危機が迫る。
2002年9月場所にようやく土俵に復帰し、12勝を上げ、復活を成し遂げたかと思われたが、翌11月場所は全休。
2003年1月場所、2日目に雅山戦による二丁投げで怪我を悪化させ(この相撲は取り直しとなり、結果、貴乃花の勝ち。)、2日間休んだ。しかし、「このままでは終われない」と言わんばかりに、5日目から再出場。2連勝はしたものの、7日目、中日と連敗。中日の安美錦戦を最後に現役を引退した。引退後の記者会見では、「非常にすがすがしい気持ちです。」などと発言し、一時流行語となった(モノマネタレントの松村邦洋が、貴乃花の物真似をする際によくこの発言を用いていた)。
親方として
場所後「大相撲の力士として、偉大な功績を残した」として、貴乃花は日本相撲協会から『一代年寄・貴乃花』を贈呈された。2004年5月場所後には父・二子山親方から部屋を継承し、『貴乃花部屋』の親方として、弟子たちの指導にあたっている。貴ノ浪の引退以後長らく関取不在であったが、2012年7月場所で貴ノ岩が十両に昇進し、貴乃花が部屋を継承してから入門した力士として初めての関取誕生となった。
2008年に審判部副部長、2009年に巡業部副部長・警備本部副部長を歴任。2010年1月、日本相撲協会の理事選に立候補し、貴乃花を支持する6人(間垣、音羽山、阿武松ら)とともに二所ノ関一門から破門された。2010年2月1日、厳しい理事選となったが、10票を獲得し、理事に当選した。
破門された4部屋(貴乃花部屋、間垣部屋、大嶽部屋、阿武松部屋)6年寄は貴乃花グループを結成。2012年に立浪一門の本家であった立浪部屋が合流し5部屋に(それに伴い立浪一門は春日山・伊勢ヶ濱組合に名称変更、その後伊勢ヶ濱一門に再改称)。2013年には間垣部屋が閉鎖して伊勢ヶ濱部屋に移籍して4部屋に戻る。そして2014年には日本相撲協会から一門へ支給される助成金が支払われるようになり、一門として認められる立場になったことから貴乃花一門と名称が変更された。その後、2015年に千賀ノ浦部屋が合流して5部屋となった。
「貴乃花騒動」とその後
しかしこういった反面、兄である若乃花こと花田虎上とは絶縁状態でさらには近親者も亡くなっていた上、2010年代に入ってからは後見役で「将来的には貴乃花は理事長になるべき存在」と述べてきた大鵬、北の湖、千代の富士(九重親方)、また二子山部屋の兄弟子で側近格だった貴闘力(大嶽親方)、貴ノ浪(音羽山親方)が次々と協会からいなくなり、貴乃花は理解者を次々失っていった。また、土俵の伝統を取り戻しつつ協会の改革を図る考えも多くの親方からは理解されなかった。
そうした情勢の中、2017年九州場所中に弟子の貴ノ岩が横綱日馬富士から巡業中の宿舎で暴行された事件が判明。この事件に対して貴乃花は伊勢ヶ濱親方と日馬富士の謝罪や協会からの事情の聞き取りを拒否する一方、協会に連絡なく警察に被害届を出し、さらに被害届に添えた診断書も協会に出したそれと食い違っていたことが判明し、事態を混迷化させることになった責任を取る形でこの年の年末に理事を解任される。
さらに協会への不信感を強めた貴乃花は、協会の会合や本場所などを欠席欠勤する一方、一門の要請を無視し理事選に立候補、協会に連絡せずテレビ番組に出演し協会批判を展開、春場所2日前に公益認定等委員会への告発状提出などの独断的行動を繰り返し孤立を強めていた。
しかし、春場所8日目に弟子の貴公俊が付け人に暴行する事件を起こすと事態は急転直下。貴乃花は一貫して協会に接近したものの、この貴公俊の一件には被害届を出さず日馬富士の一件とは正反対の対応をとった。この掌を返すような言動や、「暴力反対」を訴えておきながら身内である弟子が暴行事件を起こしたことで、親方衆だけでなくファンからの批判が最高潮に達する事態に。場所後の親方衆の会合でも言動に対する説明などはなかった為完全に孤立した結果、元横綱でありながら平年寄となった上[1]、自ら一門を解散するという事態に発展した。結果的に秋場所後の9月25日に協会を退職。弟子は千賀ノ浦部屋に移籍することとなった。
退職後は相撲の普及活動の傍ら、CMへの出演や絵本作家としても活動しており、元弟子の活躍や不祥事に対しても度々コメントを出している。
通算成績
- 幕内通算勝敗数:701勝217敗201休
- 生涯通算勝敗数:794勝262敗201休
- 幕内通算優勝回数:22回(初優勝:1992年1月場所)
- 金星:1個(千代の富士)
- 三賞:殊勲4回、敢闘2回、技能3回
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関連項目
脚注
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