首都圏国電暴動とは、順法闘争の結果生じた暴動であり、上尾事件の続きでもある。
概要
1973年3月13日の上尾事件後、国労と動労は順法闘争を一旦停止していたが、国鉄経営陣と折り合いがつかず4月に入ると順法闘争を再開。
この結果、騒動は上尾事件から1ヶ月少々経過した1973年4月24日に発生することとなる。
経過
序章・大宮駅
順法闘争によるダイヤの乱れと、ゼネストを控えていた事による順法闘争の強化の結果、東北本線と高崎線のダイヤは60分から90分の遅延が生じていた。
そんななか帰宅時間に差し掛かった16時30分に大宮駅ホームは乗客が溢れ出し、駅長室が怒りの利用者により占拠されるという事態が発生(なお、上尾事件時はホームが占拠された)。この時点では警察の出動と東武野田線への振替で沈静化した。この時点では。
騒動の起点・赤羽駅
大宮駅は沈静化したものの、根本的な問題(ダイヤ遅延)は解消しておらず、待てど暮らせど列車が来ない。20時の赤羽駅はまさにその状態であり、急遽青森駅行きの急行「津軽1号」を途中の宇都宮駅まで普通扱いにすることとした。だが、この津軽1号も始発の上野駅を40分遅れの20時15分に発車しており、その時点で超満員状態。そんな津軽1号は20時30分頃に赤羽駅に差し掛かった。
だが、運の悪いことに、その直前に赤羽駅停車中の上り中距離列車が待ちぼうけを食らっていた下り列車利用者により運転士を引きずり下ろして破壊作業を受けていた(1ヶ月前に上尾駅で見た光景)。津軽1号はそんな赤羽駅に到着してしまったのである。当然超満員のため乗車できず、機関車に詰め寄る乗客。機関士は逃亡し、動かなくなった列車は窓ガラスが破壊されはじめた。
現場では急遽京浜東北線へ誘導を試みるも、その京浜東北線も信号機故障で北行きが運転を見合わせ赤羽駅まで徒歩で移動しているという状態であり、21時の赤羽駅は6000人がホームで溢れかえっていた。
その6000人は当然ながら堪忍袋の緒が切れ、駅長室に詰め寄る事態に。怒り狂う乗客は機動隊にも立ち向かうと、21時30分には発煙筒が停車中の磯子駅行きの車内で焚かれ、その1時間後には運転室が燃やされた。
赤羽駅の機能停止により、首都圏の他路線へも影響は波及した。
燃える上野駅
上野駅ではしびれを切らした乗客が高崎線籠原行への投石を始めると、東北本線・高崎線の運転士を電車から引き摺り下ろして連行。ついでに7番線では3000人の乗客が発炎筒を炊いて窓ガラスを割り始めた。
結果、駅機能が麻痺し、警察もなすすべもない状態に陥った。暴徒化した乗客が改札や切符売り場も破壊しはじめたため、駅職員は職務放棄し逃亡。無人化した上野駅はその後も暴動が沈静化することなく、日付が変わった0時20分ごろにはコンコースで火災発生。列車の案内板をかき集め火に投げ込む様子もみられた(それを燃やすなんてもったいない)。
必死の新宿駅
上野駅の影響を受け、21時10分頃より雲行きが怪しくなり、21時30分頃に山手線の運行を停止した。運行停止に伴い地下鉄・私鉄各線への振替輸送の案内を開始すると、駅長室に乗客がなだれ込んだ。運行停止から30分後には新宿駅西口の精算所などが襲撃され、東口では鉄道公安室への放火騒ぎも発生。影響は翌日朝7時頃まで続いた。
ただし、上野駅と違い駅職員は逃げ出さなかったため、無人化しなかった。
その他の各駅
山手線の駅をはじめとする各駅で同時多発的に暴動事件が発生。前述の上野駅以外にも神田駅と有楽町駅はしばらくみどりの窓口が営業できないほどに破壊された。
また、発券前のきっぷの盗難なども相次いだが、発券前のきっぷは換金できない状態だったため、廃棄された。その一部は急行「八甲田」の車内から発見されている。
翌25日には(当時は代替路線がなかった)常磐線松戸駅で列車が来ないことに腹を立てた乗客が駅助役を拉致し綾瀬駅まで歩かせたほか、青森駅では青函連絡船からの乗り継ぎ列車が待てど暮らせど来ないことに腹を立てた乗客がバスを借り切って東京へ向かった。
それでも続く順法闘争とストライキ
暴動を受け、国労と動労は東京エリアでの順法闘争を21時すぎに中止したが後の祭り。しかも中止したのが東京エリアのみであり、他の地域では継続していた。
そして27日からのゼネストでは東海道新幹線も対象となり、東京駅ホームには0系が入線しているもののドアも開かれない状況に陥ると、高速道路は大渋滞となった。
その後の顛末
上尾事件から日も浅いうちに起こった暴動事件であるが、国鉄側は情報伝達手段の改善などに着手することとなる。
一方の国労と動労は陰謀論を唱えたりするなど相も変わらぬ姿勢を貫くこととなるが、利用者から愛想をつかされていることに気づけず2年後に手痛い敗北を喫することとなる。
関連動画
関連項目
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