魔女狩りとは、主にヨーロッパで15世紀から18世紀に発生した迫害である。魔女とされた人々が告発され、裁判にかけられ、拷問にかけられ、時に死罪となった。大規模な集団ヒステリーや、モラルパニックの例ともされる。
概要
魔女は元来キリスト教の用語である。英語のWitch、ドイツ語のHexeなどに相当する。魔女という訳語であるが、女性だけというわけではなく「男性の魔女」(英:Warlock、独:Hexer)」も15%ほど存在した。アイスランドにいたっては告発された90%が男性であったらしい。
魔女狩りの最盛期は16世紀後半から17世紀半ばまでである。よく間違われるが、いわゆる「中世」時代には魔女の概念は未発達であった。15世紀後半から形成されていったこの概念は、中世伝承の魔法使いとは異なっている。すなわち魔女とは、悪魔と契約した人間のことを指していた。悪魔との契約によって人間は不思議な能力や、特別な知識を得るが、その代わり悪魔に唆されるがまま邪悪な所業を行うようになる、これが大まかな魔女の概念である。魔女の能力は空中浮遊や瞬間移動など現代的な「魔法」に近いものから、ペストを流行らせる、ペストを治す、異性をたぶらかす、恨み節で呪う、人より多く収穫するなど何でもござれであった。このためどんな相手であっても、魔女の嫌疑をかけることは容易かったのである。
現代では魔女は老婆のイメージが強いが、当時告発された割合から見ると多くはない。占い師や産婆、あるいは精神障害者などは魔女とみなされやすかったが、大多数は一般の中小階級に過ぎなかった。その告発も、聖職者や知識人ではなく周囲の一般人によるものが大半なのである。魔女狩りを扇動する知識人は多く存在したが、主体となって現れたのは都市部よりも農村であった。農村での魔女狩りは、厳格な手続を踏まない民衆裁判で即制裁できたのである。
整備された裁判においては、告発が受理されるのは珍しいことだった。特にカトリック教会の主導する教会裁判においては魔女が実刑を課されることはそうなかった。教会には厳格なカノン法があり、そこでは教義的根拠の乏しい魔女を真剣に扱ってはいなかったからである。ただし、その辺の下級聖職者や修道士たちは好き放題に魔女を弾劾していた。そうした修道士が書いた『魔女に与える鉄槌』など、各地で発刊された魔女狩りハンドブックは各自治体による裁判で参照された。その裁判にしても多くは、被告者には被告者の当然の権利として弁護士や証言者を呼ぶことが許されていた。また刑は必ずしも死刑でなく、むしろ軽微で済んだ場合も多かった。
しかし、中には無理矢理にでも魔女狩りを推し進める司法官や取調官も存在した。イングランドのマシュー・ホプキンスに代表される彼らは、容疑者を超法規的に連行し、監禁し、拷問にかけ、否が応でも自白させ、共犯者の名前を引き出した。こうした手段でホプキンスは1644年から46年にかけてのわずか三年間で、300人の魔女を処刑することに成功し、これはイングランド全体の魔女処刑者の3分の1にも登った。ホプキンスは不正を暴かれて失脚したが、彼がこのようなことをできたのは社会的な後押しがあってのことである。
また、フランスのピエール・ド・ランクルも同様に峻厳な裁判官であり、約600人の魔女や魔法使いを死に追いやったと豪語しているが、その著書である『堕天使および魔神変容の図』に描かれた夜宴(サバト)の淫らでグロテスクな図は、いわゆる魔女に対する幻妖にして性的、尚且つ一方的なイメージを叙述したものである。フレッド・ゲティングスには「硬直した視野の狭い信条」と一蹴され、澁澤龍彦には「忠実な裁判官という仮面で取り繕っていたが、魔女達の夜の世界に心魂を奪われた男」と揶揄されている。
地域によってもばらつきがあり、特に目立つのがドイツである。この時代のドイツは統一された地域ではなく、各領邦によってもばらつきが大きいが、宗教混乱のただ中にあったこの地では、カトリック・プロテスタント双方が激しい宗教的憎悪と恐怖に支配されていたためか、記録上残っているだけでも8000人の魔女が処刑されている。かの有名な「ヴァルプルギスの夜」の、魔女と悪魔による暗黒サバトという伝承もドイツゆかりのものである。他にはポーランドやスイス、スコットランドなどで激しい魔女狩りが見られた。
大西洋を隔てたアメリカではほとんど関係がなかったが、突発的に浮上したセイラム魔女裁判に関しては魔女狩りの中でも特に怪異で、おぞましい事件として知られている。1692年、友人間での降霊会を開いた少女たちが、悪魔憑きと診断された奇怪な言動を取るようになった。そして彼女らは詰問されるがままに「犯人」の名前を挙げていったために、200名近くが魔女の嫌疑にかけられ、22名が死に追いやられた。少女たちの言動については集団麦角中毒や、降霊会による自己洗脳、あるいは示し合わせたいたずらであったとも言われているが、その正当性はアメリカ随一の神学者コットン・マザーに保証されていた。結局裁判は州によって差し止められ、少女たちの一人は悪魔のせいにして謝罪、コットン・マザーはいつまでも正当性を主張し続けた。
魔女狩りは熱病のように流行して過ぎ去ったが、その根本的要因は諸説あって定かではない。魔女狩りでどれほどの魔女が処刑されたかも無数の異説があるが、最近では3万人から6万人という線で落ち着いているそうである。上述のように魔女は恐怖と憎悪の対象であったが、今さっき英語版でググったらイタリア産プリキュアみたいなのがトップだった。
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