クラーラ(封鎖突破船) 単語

クラーラ

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クラーラ(封鎖突破船)とは、第二次世界大戦中に鹵獲したオランダ貨客コタ・ピナンドイツ海軍潜水艦補給に改装したものである。1941年10月3日、フィニステレ西方にて軽巡洋艦ケニアの奇襲を受けて自沈。最初の航から僅か6日の出来事だった。

概要

クラーラの前身となったのはオランダ貨客コタ・ピナン(Kota Pinang)。オランダ運会社コーニンクライケ・ロッテダムロイド社が保有するコタ・インテン級貨客8隻のうちの1隻である。名の由来はスマトに存在した小国スルタンの首都コタ・ピナンから。ロッテダムオランダ領東インド間で高速貨物輸送に従事していたが、東インドサウジアラビア間で運用される時は、メッカへの巡礼に向かうイスラム教徒を最大2000名収容する事もあった。ドイツに拿捕されてカリン(封鎖突破船)となったコタ・ノパン姉妹にあたる。

機関室の両側には1600トンの燃料貯蔵庫があり、オランダとジャワを往来するのに十分な容量を持つ。補助機械は全て電動だったが暖房用に蒸気で動くドンキーエンジンも取り付けられている。40トンり上げる事が出来るデリック2基、5トン用のウインチ8つ、3トン用のウインチ4つを装備し、倉は4つ、1600トン分の植物貯蔵タンク8つを内包。小ながらも貨物用に冷蔵庫も設けられていた。

ライン演習作戦から帰投した後は潜水艦補給(Zシッフ)に改装され、名をクラーラに変更。乗組員は民間人と軍人の両方で編成されており、魚雷、食糧品、運用資材、消耗品、予備部品、燃料、弾薬を積載、必要に応じてUボートに供給する。日本で言う特設潜水母艦である。クラーラドイツ海軍が運用した最初のZシッフだった。

排水量7275トン、全長141.61m、全幅18.5m、出力5200力、最大速力14ノット(26km/h)、乗客28名。

船歴

コタ・ピナン時代

1929年1月16日、アムステルダムのNVオランダシェープスボウ=マーチャッピ造所にて、ヤード番号201の仮称で起工。1930年1月7日に進し、同年5月29日工。ロッテダムロイズ社所属の船舶となり港をアムステルダムに定めた。

第二次世界大戦中の1940年5月10日オランダロッテダムに停泊していたコタ・ピナンドイツ軍の侵攻に巻き込まれる。降下猟兵によって南部に架かるヴィルヘルドイツ軍に奪取されるも、オランダ軍もしく応戦し、5月14日になってもなおロッテダムを堅持し続けていた。二度の降勧告に応じなかったオランダ軍を屈させるべく54機のハインケルHe-111爆撃機内を15分間に渡って猛爆。地と港湾部に甚大な被害が発生してロッテダムは陥落、オランダ政府も同日中に降した。コタ・ピナンは撃沈こそ免れたものの、進駐してきたドイツ軍によって逃げる間もなく拿捕され、その後はドイツ海軍の管理下に置かれた。

船長には巡洋戦艦グナイゼナウから転出したホルストハイネッケ中尉が就任。

一時はイギリス本土上陸作戦ことアシカ作戦に参加する事が決まっていたが、1940年9月期限延期となったため、参加は見送られた。

ライン演習作戦

1941年1月から3月にかけて行われた、巡洋戦艦シャルンホルストグナイゼナウによる通商破壊ベルリン作戦」は22隻(11万5622トン)撃沈の大戦果を挙げた。再び大戦果を挙げるため4月2日エーリヒレーダー大将が新戦艦ビスマルク重巡プリンツ・オイゲン大西洋への出撃命を下す。2隻の活動を支援する的でドイツ海軍部は西はラブドル、南はカーボベルデに至る広範囲に給油7隻と補給タンカー2隻を配備。その中にはコタ・ピナンも含まれていた。

1941年5月18日通商破壊作戦ライン演習作戦」に従事するべく戦艦ビスマルク重巡プリンツ・オイゲンがゴーテンハーフェンを出港。これに呼応してコタ・ピナンロッテダムを出港、一足北大西洋に進出し、シュピヘルンやゴンツェンハイムとともに西グループを編成しつつ、船舶交通状況及びを報告する偵察艦の役割を担う。もしもの時はビスマルク給油して作戦期間を延ばす任務も帯びていた。敵のを欺くため「コタ・ヌパン」という実在しない姉妹に偽装していたとされる。

しかし5月27日ビスマルクイギリス艦隊の猛追を受けて沈没。かろうじてプリンツ・オイゲンのみ虎口を脱してドイツ占領下フランスへと逃走していたが、下の問題は燃料であった。このためアゾレス北西にいるタンカーシュピヘルンとエッソ・ハンブルクのもとへ移動。万が一合流出来なかった時に備えてコタ・ピナンゴンツェンハイムもアゾレス方面に向かうよう命じられた。エッソ・ハンブルクから給油を受けたプリンツ・オイゲンは単艦で通商破壊を続行しようとしたものの、機関に重大な異常が認められたため作戦を中止し、ブレストに帰投した。結局ライン演習作戦戦艦フッドの撃沈だけで終わってしまった。そしてイギリス軍の牙は大西洋に点在するコタ・ピタンら支援にも向けられた。

補給を済ませて体勢を整えたイギリス艦隊は大西洋に大規模な捜索網を敷いて支援狩りを開始。ライン演習作戦前に拿捕した気観測ミュンヘンU-110から得ていたエニグマ暗号機を駆使して線通信を傍受し、支援の位置を割り出す。

6月3日グリーンランド南方デイビス峡でU-93に補給中だったベルヒェンが巡洋艦ケニアオーロラに撃沈されたのを皮切りに、翌4日に大西中部でタンカーダニア、エッソ・ハンブルク、補給ゴンツェンハイムが拿捕、6月5日にエゲルラントが重巡ロンドンに発見されて自沈した。狭まる包囲網の中、6月12日にコタ・ピタンはフランス西部の要港ラ・パリスまで逃げ延びる事に成功。その後もイギリス艦隊の狩りによりタンカーフリードリヒ・ブレーメとロートリンゲンが中部大西洋で沈没

9隻中、イギリス艦隊の魔手から逃れられたのはコタ・ピナンと補給エルムランド僅か2隻のみだった。この大損によりドイツ海軍の洋上補給計画に大きな支障が発生。以降水上艦による大規模通商破壊が出来なくなってしまった。

封鎖突破船クラーラ

ラ・パリスに帰投した6月12日より非武装の潜水艦補給(Zシッフ)への改装工事を開始。これに伴ってクラーラというコードネームが与えられた。ヴィシーフランス政府許可を得てダカールに配備する予定だったが7月に中止となり、代わりに極東の同盟日本派遣する封鎖突破に選ばれる。

9月27日、機雷原啓開に偽装したクラーラはジロンド河口ル・ヴェルドンを出港。この時、ロリアンから来たU-129が伴走者としてクラーラに追随しており、敵の軍艦と遭遇した際は非武装のクラーラに代わって攻撃する手はずとなっていた。敵の警しいビスケー湾は何事もく突破する事に成功するも、ボルドーを発った封鎖突破リオグランデを捜索していた軽巡洋艦ケニア艦載機スーパーマリン ウォーラスによってアゾレス北方で発見されてしまう。

不運にも連合軍の監視システム1941年の時点で既に完成されていたのだ。

最期

1941年10月3日18時2分、フィニステレで12里先のスコールの中から突然軽巡ケニアが出現。敵艦の存在に気付いたクラーラは、イギリス貨物船だと示す偽の信号を出して左舷後方を走るU-129の射線上に引き寄せようとするも、18時28分、ケニアから火を浴びてく間に大破。勝ちいと悟った船長18時43分に総員退を命じ、その2分後に機関室に仕掛けられていた自沈用の爆弾を起爆。それでもまだ沈まなかったため19時ケニアから2本の魚雷を撃ち込まれて9分後に沈没した。U-129がいたためケニア生存者の救助を行わずに逃走。全乗組員119名はU-129に救助された。

10月4日U-129は「ベルファスト級による遠方からの撃でクラーラが撃沈された」と部に報告。いかに大IXCと言えど120名近い生存者を一気に収容したため潜航力に支障が生じ、このままでは警厳重なビスケー湾を突破出来ないと判断、スペインエル・フェロルで生存者を降ろせるようスペイン側と調整を行った。そして10月6日スペイン海軍タグボートに引き渡し、エル・フェロルに移送。またU-79にはクラーラを南大西洋まで護衛するよう命が出されていたという。

コタ・ピナンアトランティスパイソン1941年末に立て続けに失った事により、ドイツ海軍上層部は水上タンカーを使ったUボートへの補給作戦を断念した。ちなみに外洋へ出たZシッフはクラーラパイソンの2隻だけだった。

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