カリン(封鎖突破船)とは、オランダの小型貨物船コタ・ノパンを第二次世界大戦中の1941年8月17日にドイツ海軍が拿捕したものである。封鎖突破船として日本の勢力圏に赴き、東南アジア産資源を満載してヨーロッパに向かっていたが、1943年3月10日に南太平洋で米軽巡サバンナの攻撃を受けて沈没。
カリンの前身は、オランダのロッテルダムに本拠を構えるシェロイド社が発注した7323トンの小型貨物船コタ・ノパン(Kota Nopan)。船名の由来はオランダ領スマトラ島北部マンダリン・ナタール区の地名から。
姉妹船8隻のうちコタ・ノパン、コタ・ラジャ、コタ・バロエの3隻はデ・スシェルデ造船所で建造され、ズルザー式ディーゼルエンジンを搭載。機関室の両側には容量1600トンの燃料タンクを持つためオランダとジャワを往復するのに十分な燃料を積載可能である。ディーゼル機関という事で補助機械は全て電力駆動だが、暖房用にガソリンで動くローバーエンジンも搭載していた。
貨物積載用に40トンデリック2基、5トンウインチ8台、3トンウインチ4台を持ち、4つの主要船倉には1600トンの植物油を搭載出来る8つのタンクを有し、小さいながらも冷蔵庫もあったので生鮮食品の運送も可能。船底の二重底にはバラスト用の水と飲料水が積まれている。
要目は排水量7323トン、全長139.14m、最大幅20.32m、5000馬力のスルーザー製8気筒ディーゼルエンジン2基により最大速力14ノット(25.92km/h)、船員51名。
ロッテルダムから東インド諸島を往来する高速貨物サービスを提供するためシェロイド社は8隻の貨物船を新たに発注。
1929年9月19日にネバダ州にあるロイヤル・マーチャッピジ社のデ・スシェルデ造船所で起工、1931年2月8日に進水してコタ・ノパンと命名され、オランダにて工事を続行。そして1931年7月1日に竣工を果たした。
第二次世界大戦勃発後の1940年5月10日、ドイツ軍はフランスに侵攻するため親連合中立国だったオランダへ雪崩れ込み、僅か1週間でオランダ本国は降伏。ウィルヘルミナ女王がイギリスで亡命政府を設立した。戦火を免れたコタ・ノパンは亡命政府の指揮下に入り、連合国の戦争遂行に必要な資源を輸送する任務に就く。本国は陥落したが、東南アジアにある東インド諸島の植民地は健在であり、ここで得られる豊富な燃料や資源を連合国やアメリカに輸送していた。1941年1月18日から23日午前3時までコタ・バロエ、コタ・チャンディとともに太平洋で軽巡ジャワの護衛を受けた記録が残っている。
1941年中頃、オランダ領東インド諸島のバタビアで錫、生ゴム、マンガン鉱石を満載したコタ・ノパンは、パナマ運河経由でニューヨークに積み荷を送り届けるべく太平洋を東進し始めた。積み荷は非常に貴重なものでアメリカは100万ドルの保険金を掛けていたとか。当時日本はまだ参戦しておらず、欧州から遠く離れた太平洋には独伊軍の艦艇もいない事から平穏な航海が約束されている、はずだった。
1941年8月17日早朝、南米に程近いガラパゴス諸島沖にて副操舵士が当直の見張りに就いていたところ、日本の国旗を付けた未確認船舶を発見。しかし、船内ではキリスト教の祈りの時間だったため副操舵士はハーテンボーア船長への報告を遅らせたのだが、これが悪手となってコタ・ノパンの首を絞める事となる。対応が後手に回っている間にも正体不明の船はグングンと距離を詰めてゆく。
ようやくハーテンボーア船長に不審船の報告が届き、彼は回頭しながら全速力で逃走するよう指示。すると不審船が突如としてドイツのハーケンクロイツが描かれた戦闘旗を掲揚。謎に包まれた船の正体――それはドイツ海軍の仮装巡洋艦コメートだったのだ。通商破壊のため遥々太平洋まで長駆し、パナマ運河から出てくるであろう英冷蔵船ロホモナーを待ち伏せていたところに、偶然コタ・ノパンが通りがかってしまった訳である。直ちにコタ・ノパンの砲手が10.5cm船尾砲にしがみついて2発の砲弾を放つもコメートは射程圏外にいて命中しない。逆にコメートから威嚇射撃を受け、コタ・ノパンは敵襲を伝えるSOS信号を送信し始めるが、再びコメートからの威嚇射撃が飛んできて黙らせようとする。速力では圧倒的にコメートが上なので逃げ切るのは不可能。観念したハーテンボーア船長はコメートに降伏して船を停止させた。コメートから臨検隊が来るまでに暗号表や機密書類を重しのある箱に入れて海へ投棄する。
コメートはコタ・ノパンをシェロイド社所属の貨物船と正しく認識。臨検の結果、ドイツから見ても貴重な積み荷を運んでいる事が分かり、コメートのロベルト・アイセン船長は撃沈ではなく本国に回航したいと考えた。ところがコタ・ノパンはニューヨーク行きだったため大西洋を越えてドイツ占領下フランスまで行くには燃料が足りなかった。アイセン船長はベルリンの司令部に燃料補給出来る可能性があるかどうかを尋ね、また一部だけでもドイツに持ち帰るべくコタ・ノパンから積み荷を引き取る事にした。
数隻のボートを使ってコタ・ノパンから物資を移送していた8月19日、コメートは新たな獲物である英貨物船デボンを発見して拿捕。積み荷に価値を見出せなかったので持っていた燃料をコタ・ノパンへ移したのち撃沈処分された。その後、司令部から仮装巡洋艦アトランティスや独補給船ミュンスターランドとトゥアモテ諸島で合流するよう命じられ、9月1日に合流地点へ到着する。
予定日を過ぎてもパナマ運河に到着しなかった事で連合国は「ドイツの襲撃艦により9月12日に沈没した」として報告書をまとめた。
9月20日、ニュージーランド東方でアトランティス、ミュンスターランド、拿捕船シルヴァプラーナ(後にイレーネ(封鎖突破船)となる)と合流。十分な燃料補給を受けたコタ・ノパンは、9月24日にコメートやアトランティスとともに出発。太平洋を東進して南米のホーン岬を回り、南大西洋へと進出してフランスを目指す。燃料を節約しなければならない仮装巡洋艦とは対照的にコタ・ノパンは身軽だったため、10月10日、2隻の前を先行するように進む。そして11月17日にボルドーへ入港。ハーテンボーア船長と船員51名は捕虜となり積み荷は没収された。
1942年4月、コタ・ノパンに配備されたドイツ人乗組員の大部分が到着し、ヴェルナー・ジッペが船長に着任。一時は防諜のためパッサウという偽名を使っていたが、船名をカリン(Karin)に正式変更するとともに、極東の同盟国日本へ派遣する封鎖突破船に指定された。
5月初旬にサン・ナゼール港へ回航され、造船所にて機関のオーバーホールや拡充、調理室及び冷凍庫の新設、10.5cm砲1門と20mm高射機関砲4門の搭載、灰色の船体に白い螺旋状の縞模様を加えた迷彩の塗装、煙幕に使用する酸を入れた4つのドラム缶の積載、自沈用として50kg爆薬3個と25kg爆薬1個の装備など、徹底的な改修を実施。緊急時に備えてUボートへの給油能力、仮装巡洋艦が収容した捕虜を大量に引き受けられる居住性も持たされた。ボルドーを出発する前に乗組員の教育もしっかり行われ、操船する乗組員と兵装を運用するドイツ水兵との間で協議を行って捕まった時の対処法を共有した。士官11名、水兵21名、船員40名の計72名がカリンを動かす血肉となる。
1942年11月6日、カリンはボルドーを出港。日本の勢力圏である東南アジアを目指す。ところが出港当日、ビスケー湾を通過中に敵機に発見され、アメリカ艦隊が迎撃に向かったが幸い捕まる事は無かった。カリン以外にもアンネリーゼ・エスバーガー、コルテラッツォ、ゲルマニアが出発していたが、暗号解析や航空偵察を駆使して連合軍が妨害を試み、迎撃を受けなかったカリンを除いて3隻全てが撃沈という大損害を受ける。この大損害によりドイツ海軍司令部は12月と1月に新たな封鎖突破船を派遣する計画を断念した。
連合軍の妨害を掻い潜ったカリンは大西洋を突破、そのまま喜望峰とインド洋を通過し、マラッカ海峡北口に位置する日本占領下ペナン基地へ到着。桟橋に横付けして錫2000トンと生ゴム2000トンを積載した。続いて12月22日にバタビアへ入港。かつてオランダが支配していたバタビアは現在日本の占領下にあった。
1943年2月4日早朝、カリンはドイツに帰国するため、大量の積み荷を抱えながらシンガポールを出港。マラッカ海峡を通ってインド洋へ出たのち西進し、喜望峰を回って南大西洋の中央を北上する。
1943年3月10日朝、身元を偽るためコタ・ノパンが持っていたオランダの信号旗を高く掲揚。ブラジルのラシフェとアセンション島の間で米護衛空母サンティーの艦上機がカリンに近づいてきた時、裏でこっそり大砲の操作をしつつも信号を点滅させて味方だと偽り、乗組員にあたかも仲間であるかのように手を振らせた。しかし敵機は騙されなかった。パイロットはカリンの位置を、ドイツの封鎖突破船を捜索中の第23.1任務部隊に報告し、軽巡サバンナと駆逐艦エベールが分派される。
16時33分と35分にサバンナから威嚇射撃を受け、砲弾がカリンの船首を飛び越えて海面に水柱を築く。同時にサバンナの艦載機SOCシーガル水上機が飛び立ち、カリンに機銃掃射を浴びせながら、航路上を縫うように旋回して威圧してくる。本物の軍艦が相手ではカリンに勝ち目など無い。ジッペ船長は機関停止を命じた。しかしこれは「投降」ではなく「抵抗」の始まりであった。
カリンは「船が沈みかけている。救命艇を出して乗員を迎えに来てくれ」を意味するFM信号を2隻に出し、救難信号を送信し始めた。エベールから無線を使用しないよう命じられるがそれを無視してカリンは救難信号を発信し続ける。仲間に危機を伝えるために。第23.1任務部隊のオリバー・M・リード少将はカリンが自沈しようとしているのではと疑い、サバンナとエベールに拿捕と船内の臨検を指示。
16時38分、ドイツ人乗組員はボートを洋上に降ろしてスーツケースのような荷物を詰め始める。無線通信士が機密書類を持ち出している間、無線室と上甲板の船室にガソリンや焼夷剤を撒いて自ら放火。拿捕される前に自沈しようと試みる。ドイツ人乗組員の意図に気付いたサバンナの艦上機はカリンの周りを非常に速い速度で旋回し、数発の機銃を撃ちかけて船上の乗組員を狙うが、火の手はあっと言う間にカリンを包み込み、吐き出す黒煙も徐々に増えてゆく。してやられたリード少将はエベールに「船尾甲板から臨検隊を送り込め」と命令を送り、16時49分に火中のカリンに近付く。船体中央部の構造物をスッポリ呑み込めるほどの巨大な炎がカリンを嘗め尽くす中、既にドイツ人乗組員はボートに乗って海上への脱出を済ませており、エベールの舷側に垂らされた縄梯子を伝って艦内に収容されていく。
16時51分、フレデリック・エドワーズ中尉率いる臨検隊14名が危険を冒して船橋内部を探ってみたものの興味深い物品は見つからず、更なる調査を行うため消火班の増派をエベールに求めた。しかしこれ以上の捜索は危険だとしてポールマン艦長は旗艦に臨検隊の撤収を具申。すぐさま許可が下りて16時54分より脱出が始まった。数分後、自沈用爆薬が起爆して船体中央で2回、船尾で1回の大爆発が発生。続いて船内の奥深くで爆発が起こり、爆炎が左舷船橋後方から噴き出して大量の黒煙を吐き出し、約61mの上空に渦巻いた。今際のカリンを代弁するかのように爆発の衝撃波が臨検隊に襲い掛かり、ボートや梯子にいた9名を殺害。あまりの爆発の凄まじさに左足を骨折して放心状態になった者もいたという。そして16時57分に力尽きたカリンは船尾より沈没していった。
爆発に巻き込まれて半数以上の臨検隊が死亡したため、以降封鎖突破船を臨検する際は最初の爆発が起きた時点で引き揚げさせる規則が制定されている。
カリンの生存者が乗るボートには十分な食糧と飲料水に加え、日本の米やビール、フランスのシャンパン、サーモン、イワシの缶詰め、香港のラベルが付いた女性用の靴まで載せられ、中には武器を積載しているボートもあった。また航海士と思われる生存者が航海器具を海へ捨てている様子も目撃されている。72名の生存者は4隻の救命艇に分乗していて彼らは全員サバンナが救助。生存者とその荷物は回収された一方、それ以外の嗜好品はボートに放置されている。サバンナとエベールは18時30分まで生存者の捜索活動を行ったのち、戦死した9名に敬意を表するためリード少将は2隻に半旗を掲げる指示を出して彼らの死を悼んだ。捕虜になった後もドイツ人乗組員は規律正しく、3月28日にアメリカ本土に上陸して海軍関係者は収容所へ、船員はエリス島で尋問を受けている。
どうやらカリンが送信した救難信号はドイツ海軍司令部にまで届いていなかった。
3月20日、Uボートは誤射を防ぐためレーゲンスブルクとカリンが通る可能性がある航路では独航船の攻撃を禁じられ、3月23日にU-174、3月29日にU-586へ対し、カリンを護衛するよう司令部が命令を出している。当然ながらカリンは合流地点に姿を現さなかったためU-174は後続のイレーネ(封鎖突破船)との合流を命じられた。
また、沈没後にも関わらず4月2日にU-229がカリンを目撃したと報告。
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