ハンス・ラングスドルフ 単語

ハンスラングスドルフ

4.5千文字の記事

ハンス・ヴィルヘルム・ラングスドルフとは、ドイツ海軍(クリークス・マリーネ)の軍人である。最終階級は大佐

運命の前夜

1894年、バルトに浮かぶリューゲンの中心部ベルゲンに生まれた。両は熱心なプロテスタントで、彼は両から将来牧師になることを期待されて育てられた。
それから4年後、ラングドル一家を離れ、ドイツ西部デュッセルドルフに移住。これがハンス少年運命を変えたのだった。

新居の隣にはとはべ物にならない立なお屋敷があった。
ハンス少年はあくる日もそのお屋敷を眺めて育った。

「こんな立を建てられるなんて、どんな立な人だったんだろう?」

ある日ハンス少年にその疑問をぶつけてみた。

パパお隣さんのはとっても立だけれど。何をした人なの?」
ハンスお隣はシュペー伯爵のご自宅だ。あの方海軍提督をなさっているのだよ」

幼きハンス少年にはシュペー提督の存在はまるでおとぎ話英雄のようであった。
そうして彼は次第に海軍軍人になるを膨らませていったのだった。

若き水兵

1912年ラングドルフは両の反対を押し切ってキール海軍学校入学した。
学業に励む中、ドイツ第一次世界大戦に参加。程なくして舞い込んできたのは憧れであったシュペー提督戦死の報せであった。

「もはやあなたと共に戦うというえることはできないのか…」

ショックを受けながらもより一層学業に専念したラングドルフは1916年中尉として任官し、第一次世界大戦最大の戦地ユトランドへと出撃することになった。

「シュペー提督の弔い合戦だ」

ラインハルトシェーア率いるドイツ力艦隊は旗艦『リュッツオウ』以下多くの艦を失いながらも、英国海軍の『大艦隊』を相手に巡洋戦艦3隻を沈せしめる等、甚大な被害を与えた。
ラングドルフはこの戦を生き延び、下士官ながら十時章を授与される働きを見せた。

運命の夜明け

戦後上勤務からしばらく離れ、その間の1924年ルートヘルガー結婚。同年に一人息子ヨハンを授かる。
1925年には陸軍海軍の調整担当としてベルリン防省勤務という何とも難しい役職に就くが、元々軍政には才があったらしく、そこでの仕事ぶりが高く評価される。
1927年には雷科出身ということもあり雷艇部隊指揮官に就任。少佐に昇進する。
しかし前述の行政力を評価した上層部は1931年、再び彼をベルリンに呼び戻す。
出世のためならばこれほど良いコースもないだろうが、彼はこの地上勤務を内心では疎んじていた。

国家社会主義革命は終了した。これから千年間、ドイツにおいてはいかなる革命も起こらないであろう!』

時は1934年。『ドイツ第三帝国』などと名乗る輩とは関わり合いたくもなかったのだから。

アドミラル・グラーフ・シュペー

1936年ラングドルフはヘルマン・ベーム提督スペイン内戦反乱軍支援活動への同行をめられる。
ナチスを煙たがっていたラングドルフはこれ幸いと二つ返事で快諾。
そうして彼は熟訓練も兼ねたベーム提督揮する新艦に乗り込むことになるのだが―――

「…まさか、こんな形でう日が来るなんて…!」

ドイッチュラント級装甲艦3番艦『アドミラル・グラーフ・シュペー
運命はここに実を結んだのであった。

大艦隊の逆襲

スペイン内戦での任務で大佐に昇進し、ベーム提督よりシュペーを譲り受けたラングドルフはまさしく絶頂期であったといえよう。
1939年9月第二次世界大戦が勃発するとラングドルフは通商破壊活動に従事。速力が少々低くとも火力と航続距離に優れるドイッチュラント級にはうってつけの任務であった。
作戦開始からわずか10週間で9隻、5万トン以上の商を捕捉・撃沈した。
だがこの一連の通商破壊作戦において、ラングドルフは商乗組員に一人の死者も出さなかった。

「軍人のを選んだが、信仰を捨てた訳ではない。何より伯爵提督の名を冠するに恥じぬ戦い方をする」

彼のこの姿勢は敵国イギリスからも多くの尊敬を集めた。
だが、だからといって敵に情けをかける理由にはならぬ。

巡洋戦艦レナウン』、空母アーク・ロイヤル』、重巡洋艦エクセター』『カンバーランド』、軽巡洋艦アキリーズ』『エイジャックス

伯爵殿よ、英国海軍の全力をもってお相手しよう―――

ラプラタ沖海戦

通商破壊活動中の『シュペー』はアルゼンチンウルグアイを流れるラプラタ河口付近に身を隠していた。
何の因果かここは故シュペー提督地であるフォークランドに程近い。

「どうにも嫌な予感がする…」

1939年12月13日、見り員が敵艦のマストを発見。
相手はシュペー追撃艦隊の中から快足の巡洋艦のみを選出したG部隊(旗艦はエイジャックスカンバーランドは整備のため寄航中)。

「受けた命戦闘禁止。確かに数の上では不利だが、勝てぬ相手ではないはず…」

せっかく戦艦空母が不在なのだ。そのチャンスはふいにしたくない…
だがそれがラングドルフの最初の誤算であった。
G部隊指揮官ヘンリー・ハーウッド准将
かつては海軍大学校で教をとっていた生え抜きエリートで、対ドイッチュラント級の研究を重ねたプロの軍人だったのだ。

ハーウッドヨーク級やリアンダー級単艦の性ではドイッチュラント級には敵わないことは承知しており、部隊を一度集結させたところで散開、『エクセター』と『エイジャックス』『アキリーズ』の二手に分かれて挟撃する戦法を採った。

距離が開けている内は力に勝る『シュペー』に有利だ。こちらは勝る速力を活かして接近戦だ!」

巡洋戦艦に匹敵する『シュペー』の撃にされながらも、艦は果敢に距離を詰める。
だが、ここでハーウッドは妙なことに気付いた。との距離が縮まるのがすぎる。

「ははあ、やっこさんあの艦(ドイッチュラント級)に乗り慣れていないな…!」

これがラングドルフの第二の誤算であった。
前述したようにラングドルフは屋上がり。速力を活かした回避と一撃離脱こそが信条。
彼はそこでの戦い方をそのまま『シュペー』で実践してしまったのである。
これが巡洋艦であるならさしたる問題でもなかったが、問題なのはこれが『装甲艦』ドイッチュラント級であること。
速力に劣り、防御面でも不安を抱える艦でインファイトは蛮勇が過ぎたのであった。

とはいえG部隊にも厳しい戦いなのは言うまでもない。
囮となった『エクセター』は『シュペー』の猛攻を受け大破。なおも戦闘続行するも再度の命中弾で戦闘不能に陥り、途中離脱する。
残るは軽巡2隻のみ。
『シュペー』は煙幕を炊きつつ、軽巡撃を行おうとするが…

「待っていたんだよ。ここまで接近するのをな」

ハーウッドの乗艦する『エイジャックス』と僚艦『アキリーズ』はシュペーに6インチ弾のを浴びせた。
思わぬ反撃を受けたラングドルフはすぐさま撤退を決意。
慌てて最寄の中立ウルグアイへと避難した。

「仕留め損ねたか。だが、あれでいい…」

しかし、ハーウッドは既に任務を達成していたのだった…

信ずる旗の下に

ウルグアイ首都、モンテビデオに入港した時にはシュペーは戦闘で自力航行も可な状態にあったが、作戦継続不可能な損を被っていた。
本来ドイッチュラント級は距離20,000mならば6インチ弾に十分耐えうる防御力を持っていたはずであった。
だからこそハーウッド揮する『エイジャックス』と『アキリーズ』は12,000mにまで接近して撃を叩き込んできたのだ。
6インチ弾17発、8インチ弾2発の一部は艦体を貫通し、食糧貯蔵庫にまで被害を及ぼした。特に左舷に命中した8インチ弾は荒れた北大西洋を突破を困難とし、厨房施設の破壊は乗組員に温かい食事提供できなくなったことを意味していた。その上、造機も損傷して修理が必要であった。乗員も戦死36名、重軽傷60名と1割近くを失ってしまった。
だが最も深刻だったのは燃料系統の破損であった。
ドイッチュラント級にはディーゼル燃料(常温だと度が高い)を加熱で液化させた後に機関部に送り込むのだが、加熱するための蒸気パイプの一部が非装甲で、よりにもよってそこに直撃弾を食らってしまっていたのだ。

処理済み燃料は16時間分だけ。
これでは戦闘はおろか帰還も不可能
修理には最低でも1週間ほど掛かる。

かしこれがラングドルフ最後の誤算であった。

中立といえどイギリスの根強いウルグアイは圧力を掛けられ、3日間の停泊しか認められなかった。
さらに先ほど矛を交えた『エイジャックス』と『アキリーズ』がラプラタ河口を封鎖し、整備を終えた『カンバーランド』が『エクセター』に代わって合流。
そして最も恐れていた『レナウン』と『アーク・ロイヤル』も着実に迫りつつある。
万策は尽きた。

その後ラングドルフはラプラタ沖海戦での戦死者の葬儀を行った。
一同が戦死者に向け、敬礼げる。

「Heil...?」

周囲の人間を疑った。
牧師までもが『ナチス式(古代ローマ式)』敬礼をする中、ラングドルフただ一人が海軍式の敬礼で立っていたのだ。
彼の覚悟は既に決まっていた。

停泊から3日後の退去日、ラングドルフは『シュペー』に操艦に必要最低限の人数と爆薬を積んで出航すると、乗員を避難させて自らは『シュペー』と運命を共にしようとするが、彼を慕う乗員達がそれを許さなかった。
爆沈していくシュペーを、ラングドルフはどこかろな様子で見守っていた。
そしてラングドルフは逗留先のアルゼンチンで妻子へ別れの手紙を書いた後、旧ドイツ帝国海軍の軍旗に身を包み1939年12月19日拳銃自殺を遂げた。享年45歳

「このような状況に置かれた時、名誉を重んじる者なら艦と運命を共にするものだ。部下の身の安全を確保するための行動で今まで先延ばしにしてしまっていたが…」

彼の死とシュペー自沈に対し、時の指導者は「臆病者」という罵りと遺族年金の停止で応えた。
ラングドルフの葬儀にはシュペー乗組員はもちろん在亜ドイツ人、捕虜となっていた兵や員までもが参加し、その死を悼んだ。

一人息子ヨハンラングドルフも背中を追って海軍に入隊するも、1944年12月に特殊潜航艇『ビーバー』での水中工作中に殉職する。

2007年カナダオンリオ州の町エイジャックス(前述の軽巡洋艦からの命名)で、『エイジャックス』元乗組員が記念に、新たにできた町の通りに名前を付ける機会があった。
彼はラプラタでの『シュペー』との死闘に思いを馳せつつ、名付けたのだった。

『ハンス・ラングスドルフ通り』と…

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