ラルフ・ブライアント 単語

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ラルフブライアント

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ラルフ・ブライアント(Ralph Bryant、1961年5月20日-)とは、アメリカ合衆国出身の元プロ野球選手外野手)である。

概要

1980年ロサンゼルス・ドジャーズ、1981年の一次ドラフトではミネソタ・ツインズから名されるが拒否し、二次ドラフトドジャースから1巡名を受けて入団した。

1985年に初めてメジャーに昇格するが、なかなか数字を残せなかった。

中日時代

1988年5月中日ドラゴンズに入団した。実はこの年、中日が獲得を目指していたのはピッツバーグ・パイレーツに所属するオレステス・デストラーデであったexit。そう、翌年西武ライオンズに入団して、「カリブの怪人」と呼ばれ恐れられたあのデストラーデである。

一方、1988年近鉄バファローズでは、1984年に入団してから好成績を残し続けてきたリチャード・デービス6月7日大麻不法所持で逮捕されるという非常事態が発生した(翌6月8日に球団は解雇を決定)。6月27日になって起訴猶予処分となり釈放されたが、球団は翌6月28日に不適格選手とすることを発表し、事実上の日本球界からの追放処分となった。

近鉄時代

1988年6月28日三振ばかりで中日二軍でくすぶっていたブライアントを金銭トレードで獲得した(※当時は一軍登録可外国人選手は2人までであり、郭源治ゲーリー・レーシッチが活躍していた一軍には上がる隙がなかったのも事実である)。移籍後も相変わらず三振の山を築くが、中西太コーチの熱血導の甲斐あって成績は確実に上向きだし、シーズン1試合3本塁打を2回記録するなど移籍後74試合で34本塁打を打った。打率も規定打席には及ばないながらも.307記録している。


1989年として活躍し、6月こそ不振に喘いだが、7月に復調すると8月17日にはプロ野球記録となるシーズン3度の1試合3本塁打記録する。10月12日西武球場での西武ライオンズとのダブルヘッダーで、ブライアントは伝説となる。前年の「10.19」で苦杯をめた近鉄は驚異的な追い上げを見せ、この試合が最後の天王山となった。西武は一勝すれば事実優勝が決まり、近鉄は二連勝しなければ優勝が消滅する。
第一試合、西武は4-0とリードするが、4回表に西武先発郭泰源の高めの速球をブライアントはスタンド叩き込んだ。ブライアントは極端なアッパースイングのため、王者西武の不動の正捕手であった伊東勤は「ここにさえ投げておけば打たれない」と、高めの速球を要したのである。
西武は1点を追加し再び4点差とするが、6回表満塁の場面から再びブライアントを打席に迎える。伊東は高めのスライダーを要するが、これがん中に入ってしまう。そしてブライアントの放った打球は再びスタンドに吸い込まれ、同点満塁本塁打となった。
同点のまま迎えた8回表、西武エース渡辺久信を中1日で投入する。渡辺はこれまでブライアントから1本も本塁打を打たれておらず、天敵とも言える存在であった。相性通り2ストライクまで簡単に追い込むが、4球に投じた高めの速球をブライアントはスタンド叩き込み、これが決勝の本塁打となった。

続く第2試合、第1打席こそ敬遠の四球であったが、第2打席西武先発高山郁夫から4打席連続の本塁打を放った。そして近鉄は大量14得点を上げ第2試合も制し、10月14日の対ダイエー戦に勝利して悲願のリーグ優勝を決めた。この年のブライアントはチャーリー・マニエル外野手1980年記録した48本塁打近鉄球団記録を破る49号本塁打記録し、本塁打王を獲得する。そして、パ・リーグMVPに選出された。

その後もホームラン王を二度、打点王を獲得するなど活躍したが、1995年は怪で48試合の出場に終わり、自由契約となった。


1996年カリフォルニア・エンゼルスマイナー契約を結んだが、メジャーに昇格することはないまま現役を引退した。

引退後

2005年オリックス・バファローズの打撃コーチを務める。


アメリカIT企業の役員を務めていたが、離婚した後はアトランタで芝刈りの生活を送った。


2022年3月18日新型コロナウイルス感染拡大によって来日できなくなったトニ・ブランコの後任として、北海道フロンティアリーグ士別サムライブレイズ監督に就任した。

プレースタイル・人物

本塁打にまつわるエピソードとしては、東京ドーム記録した認定本塁打を忘れるわけにはいかない。1990年6月6日の対日本ハムファイターズ戦で、角盈男から放った一撃は天井スピーカーを直撃してグラウンドに落下した。通常東京ドーム天井に当たった場合はインプレイなのだが(落ちてきたボールを直接捕球すればアウト)、センタースピーカーなど、外野のフェア地域にあたる懸垂物に当たった場合は本塁打になるという特別ルールが存在しており、これが適用されて認定本塁打となったのである。そもそも、何故このような特別ルールが存在するのかと言えば、設計上当てることが不可能と予測されていたためである(この本塁打は推定飛距離160mとされている)。2008年6月7日千葉ロッテマリーンズフリオ・ズレータ左翼天井照明を直撃する一打を放ち、18年ぶり2本東京ドーム認定本塁打記録するまで、長らくこの認定本塁打記録する選手は現れなかった。

2005年オリックス・バファローズの打撃コーチを務めたが、その年の交流戦横浜スタジアムで試合前のイベントとして行われたホームラン競争では、当時44歳だったのにも関わらずセンター上段に1本、ライト中段に2本のホームランをぶち込んだ。テレビ中継の解説が「現役選手顔負け」「スイングスピードが現役時代と変わらない」とあきれるほどの当たりだった。

ホームランが多かった反面、三振も多く、1993年にはNPB記録204三振記録した。また、近鉄移籍直後の1988年と怪に苦しんだ1995年を除き、全てのシーズン100三振以上を記録している。

エディマーフィーに似ていたことから、エディと呼ばれていた。自ら「エディと呼んでくれ」と言ったとか言わなかったとか。

成績

通算打撃成績

通算:11年
Total



G



PA



AB



R



H



2B



3B



HR



RBI



SB



SH



SF



BB



HB



SO



GDP



AVG



OBP
MLB:3年 79 169 150 22 38 6 3 8 24 2 0 2 15 2 51 1 .253 .325
NPB:8年 773 3335 2980 512 778 124 7 259 641 23 0 13 311 31 1186 33 .261 .336

タイトル・表彰・その他

タイトル
最多本塁打 3回 1989年1993年1994年
最多打点 1回 1993年
MVP 4回 1988年8月1989年7月1992年5月1994年7月
ベストナイン 3回 1989年1993年1994年
MVP 1回 1989年
オールスターゲームMVP 1回 1990年第1戦
その他
オールスターゲーム出場 3回 1990年1992年1993年

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