旧皇族 単語

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キュウコウゾク

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旧皇族とは、

  1. 1947年に皇籍離脱した伏見宮系皇族51人の総称
  2. 1の子孫や1947年以前に皇籍離脱した元伏見宮系皇族の子孫も含めた、伏見宮系一族の総称

本来は1をす言葉だが、近年は2の意味で用いられることも多い。

概要

現在皇室明治天皇の男系子孫(および男系男子の妻)によって構成されているが、大日本帝国時代には明治天皇と男系での直接的な繋がりを持たない皇族も多数存在していた。その大半を占めていたのが、室町時代前期に天皇嫡流から分離した伏見流とする一族である。

伏見は代々当王として皇族に列せられるという特権を有していたが、幕末までは嫡流断絶時の後継天皇を出すことも庶流から新たな宮を立てることもないまま、細々と続いてきた傍流の宮に過ぎなかった。だが幕末期の当が大勢の男子けると、皇室の強化を図る大日本帝国の方針もあって、彼らによる宮新設が次々に認められたため、伏見宮系宮皇室内の一大勢力に成長した。

しかし大日本帝国の崩壊に伴い皇室財政が逼迫すると、伏見宮系皇族は全員が皇籍を離脱して一般国民となることを余儀なくされ、伏見宮系宮皇室から姿を消すことになった。伏見宮系一族は大日本帝国と共に栄を極め、大日本帝国と共に歴史から消えた一族だったとも言える。

ただ皇位継承権者の不足が問題視されるようになった近年では、男系継承を核心的価値とみなす勢力によって伏見宮系一族の皇籍復帰が盛んに訴えられるようになり、再び一族に社会的な注が集まりつつある。

歴史

伏見宮家の起源

天皇は伝統的に男系継承を旨としているため、古来より天皇の男系男子王・王)は跡取り補として尊重された。だが大勢の王・王を養うことは天皇経済力をもってしても不可能であり、平安時代以降は特に嫡流に近い有力な王以外は、「」「」などの姓を与えて臣下(貴族)としたり、出させたり、既存の高位貴族に養子に出したりと、様々な手段で皇族から切り離すようになっていった[1]

そのため嫡流から外れた王・王のいうちに皇室から消えてしまうのが常であった。皇位を巡ってしい争いが展開された両統迭立期・南北朝動乱期には、皇位継承争いに敗れた有力王の男系男子がしばらく王・王の地位を保ったまま皇室に残るケースも見られたが、彼らの大半は数世代のうちに消えていった。

このうち北内の皇位継承争いに敗れた崇天皇の嫡男・栄仁王の一族は伏見御料での逼塞を余儀なくされていたが、1428年に当時の天皇嫡流の断絶が確定すると、栄仁王の孫・仁王が次の天皇(後花園天皇)として即位、嫡流の地位を奪還した。すると彼はの貞常王に対し、その子孫が代々「伏見殿」を称して王の地位に就くという内容の特権を与えた[2]。これが伏見の始まりである。

御落胤・長九郎

それから200年余り後の1654年、伏見を悲劇が襲った。同年1月から9月までのわずか8かのうちに、当時の当である貞清王、その嫡男・邦尚王、そして次男の邦王が相次いで亡くなり、中から後継者となれる男系男子が一人もいなくなってしまったのである。

朝廷は後尾上皇の男子の一人に伏見宮の名を継がせる方針を固め、かくして貞常王以来の伏見嫡流の血統は絶えるかに思われた。だがその時、邦尚・邦王のはとこ息子にあたり、として伏見に仕えていた安藤定為なる人物が京都代・板倉重宗の下を訪れ、思わぬ事実を明かした。

定為の話によると、彼の従姉にあたる定子は邦尚王に女房として仕えていた際にお手付きとなり、男子を産んだ。だが当時は邦尚・邦王が後継者争いをしていたため、定子は息子を連れて安藤に身を寄せていたという。定為は自身の従甥にあたるこの男子伏見を継がせるべきだと訴えたのであった。

以上は定為の息子・為章が記した「年山紀文」によるものだが、同時代の文献には全く異なる記述も見られる。壬生忠利の日記「忠利宿記」によると、この男子は貞清王の子、すなわち邦尚・邦王の兄弟であり、丹波の某の養子となった後、山城国鍛冶屋で徒として働き、長九郎を名乗っていたというのである。

今となっては何が事実なのか判然としないが、ともあれこの青年伏見の御落胤と認められ、晴れ伏見・貞致王となったのであった。以後の伏見宮系一族は全員この貞致王の子孫であり、彼の血統的正当性を疑うことは一族のそれを疑うことと同義であるとしてタブー視された。

伏見宮系宮家の隆盛

伏見創設の後、同様の特権を持つ世襲として宮・有栖川宮・閑院宮の三天皇嫡流から分かれ、共に嫡流断絶時への備えとされた。実際に閑院宮は新たな嫡流(現在天皇)を輩出する役割を果たしたが、これらの三はあまり男子を残せず、男系的には明治末までに断絶、または断絶が確定した。

一方、これらの三よりも数く嫡流から分離した伏見は、幕末期の当・邦王が大量17人もの男子け、その多くが成人まで育ったことで大いに繁栄した。邦王の息子や孫たちは次々に新たな宮を創設し、その継承も認められたため、伏見宮系は皇族における一大勢力へと成長した。

明治中期まで嫡流の男子明治天皇病弱皇太子大正天皇)しかおらず、血縁的により近い他の世襲も断絶、もしくは先行きが危うくなっていたため、遠く離れた伏見宮系に皇統が移る可性は十分にあった。明治天皇も万一の場合に備え、4人の全員別々の伏見宮系宮がせて血統の強化を図っている。

だが大正天皇けた4人の男子がみな健康に成長していくと、伏見宮系への皇統移行の可性は極めて低いものとなった。逆に増えすぎた伏見宮系皇族が皇室財政を圧迫するようになったため、大正中期の1920年には「既存の伏見宮系宮では長男の系統以外は原則として臣籍降下、長男の系統も邦王から5世代以上離れた時点で原則として臣籍降下」という内規が出されるに至った。

帝国崩壊に伴う一斉皇籍離脱

敗戦から2年後の1947年日本国憲法の施行により大日本帝国事実上崩壊する。新憲法によって皇室財産有化されたことで独自財がなくなり、しかも庫は窮乏の極みにあったため、皇族の格式を保てるレベル生活を当時60人近く居た皇族たち全員に受けさせることはおよそ不可能な状況となった。

そこで皇室の「口減らし」のため、伏見宮系の11宮51人全員が皇籍を離脱するという案が出された。この案については伏見宮系皇族の間でも賛否が分かれ、折衷案として系で嫡流と繋がりがある宮を残す案も出されたが、結局皇室会議の決定により、伏見宮系皇族は全員が皇籍を離脱する運びとなった。

彼らは所属していた宮の名称を姓に、王・女王としての名称を名前とする一般国民とされた(○○宮の××王であれば「○○××」という姓名を与えられた)。建前上は一般人になったものの元皇族としての権威は生きており、若い世代は大半が大学卒業後に一流企業へと迎え入れられ、名誉ある地位に上った。一方年長者たちはしばしば自ら事業を起こしたが、こちらは殿様商売で失敗に終わることも多かった。

また制度的な特権は全て失ったものの、昭和天皇の発案により現皇族と旧皇族の団体「菊栄親睦会」が設立され、以後も「皇族と戚付き合いができる」というささやかな特権は残された。

皇位継承問題と旧皇族

伏見宮系宮の皇籍離脱後も皇室には昭和天皇の3人のが設けた直宮が残っており、皇位継承権者を確保する分には問題がないと考えられた。実際に皇室の男系男子昭和天皇の代で4人、明仁上皇の代で5人確保されており、近い将来に皇位継承権者が不足するようなことはなさそうに思われた。

ところが明仁上皇の世代の4人の王は一人として男子けることができず、今上天皇の世代の男系男子はわずか2人、その下の世代に至っては悠仁親王のみとなった。そこで十分な数の皇位継承権者を確保するための方法が議論され、大きく分けて2つの案が出された。

一つは「万世一系世襲であること」こそが天皇制の核心的価値であり、男系という周縁的価値に固執して皇統断絶のリスクを増やすのは本末転倒であるとして現皇室の女系による継承を容認する案。もう一つは男系も核心的価値に他ならず、男系の破棄は天皇制の破棄と同義であるとして女系による継承を否定した上で、伏見宮系一族を皇籍に復帰させることで皇位継承権者となる男系男子を確保するという案である。

後者の案に対しては、既に世俗化して60年以上が経過し、実業政治評論家などを輩出している伏見宮系一族は、現在皇室べ幅広い民からの支持を得られないのではないかといった懸念や、一夫一妻制を底するようになってからは伏見宮系一族でも男系男子の数は減少の一途を辿っており、彼らを復帰させたところで数世代分の時間稼ぎにしかならないといった摘が寄せられている。

また一族の者を復帰させる場合の復帰範囲や形式については支持者の間でも意見が分かれている。

2021年令和3年)に行われた皇位継承の安定化のための有識者のヒアリングで旧皇族の皇籍復帰は憲法14条に反するとの見方が出た。同年に加藤官房長官は旧皇族に皇籍復帰の意思を聞いたことはないし今後も聞くつもりはないと述べており、皇籍復帰の可性はないとみるものもある。

伏見宮系宮家の一覧

  • 本項では1947年の皇籍離脱時点で存続していた伏見宮系11宮について解説する。
  • の並びは嫡庶長幼の順による。
  • 解説文中の「第○世代」という記述は一族全員に共通する直近の男系祖先である邦王を0世代として計算した場合の世代数である。なお第4世代は明仁上皇、第5世代は今上天皇、第6世代は悠仁親王の世代に相当する。ただし同じ世代でも年齢には個人差がある。
  • 本項中で記載される情報はその記載がなされた時点のものでしかなく、閲覧時点で既に古い情報となっている可性があることに注意。誕生・死婚姻離婚などによって状況は変化していく。

伏見宮家

他の10宮流となった筆頭。邦王が正室との間にけた十四男・貞王の流れをむ。現在では嫡流の男系断絶が確実になっており、庶流でも第6世代の男子を確保するのは困難な状況にある。

嫡流(男系断絶がほぼ確定)
現在の当は第4世代にあたる博明王改め伏見博明だが、3人の子は全員女子であり、本人も既に80歳をえていることから、近い将来の男系断絶は確実と見られる。
庶流
第3世代から侯爵伏見伯爵が分立しているが、後者は第5世代で皇族外からの養子を取ったため既に実系が断絶。前者は第5世代に3人の男子がいるものの、第6世代の男子が誕生したとの報がないまま全員50代を迎えており、男系男子の確保は難しくなりつつある。

山階宮家

王の長男(庶子)・王を初代とする、伏見宮系庶流の筆頭。嫡流は既に絶えており、庶流も第5世代の男子が1人確認されているのみである。そのため復帰運動でも話題に上ることはあまりない。

嫡流(断絶)
第3世代の当・武王改め山階武は、初子を妊娠中の妻を関東大震災で亡くしたことで精神を病んでしまい、以後子供けないまま亡くなった。これにより山階宮本全に断絶した。
庶流
王の4人のが山階侯爵侯爵鹿島伯爵葛城伯爵の4を設け、第4世代では5人の男子が確保されていたが、第5世代は1971年生)のみとなっている。第6世代の男子は未だに確認されていない。

賀陽宮家

後述する久邇宮の初代・朝彦親王の嫡男・邦王を初代とする、久邇宮系宮の筆頭。邦王は病弱だったため久邇本家に譲り、自身はのかつての宮号である賀陽宮を冠する新たな宮を立てた。

嫡流は既に絶えているが、嫡流に近い分筋で第6世代の男子が2人生まれていることから、復帰運動の対として、あるいは愛子王の配偶者補として取り上げられることもある。ただ同じく第6世代の男子を輩出した東久邇宮と異なり、女系でも現皇室との繋がりが薄いことを問題視するも上がっている。

嫡流(断絶)
第4世代の当・邦寿王は学生時代に園の芸しいに落ち、彼女の死後も生涯彼女への想いを忘れられなかったという。後にの勧めで3度結婚したものの全て離婚に至り、結局一人の子供けないまま亡くなった。これにより賀陽宮本全に断絶した。
庶流
邦寿王には5人の王が居たが、第5世代に男子を残せたのは三男・章王改め賀陽章だけだった。ただ彼の息子・正は第6世代にあたる2人の男子1996年1998年生)をけている。
徳仁天皇学習院初等科で同級生となって以来の友で、美智子上皇后も正に深い信頼を寄せているという。また正自身も一流企業から宮内庁職員に転じるなど(現在外務省に出向中)、皇室との関係が深い。そのため正の2児のいずれかを愛子王(2001年生)の婿とし、生まれてきた男子を皇位継承権者とするなどのプランが持ち上がっているが、正は消極的な姿勢を見せている。

久邇宮家

王の四男・朝彦親王を初代とする。本来は嫡男の邦王がその跡を継ぐ予定だったが、病弱を理由に三男の邦王が後継者となった。

第3世代の良子女王昭和天皇いだことで現皇室の外戚となった有力一族であり、第5世代までは一定数男子を確保していたものの、第6世代は未だに一人も出ていない。久邇本家・分では最年少の俊(1971年生)が既に40代と厳しい状況だが、庶流の東伏見伯爵龍田伯爵には30代の男子が残っている。

嫡流
現当の邦昭王改め久邇邦昭は長男尊と次男・邦の2人の息子けたが、いずれも第6世代の男子けられないまま50代に差し掛かっており、男系を維持できるかは微妙な状況である。
庶流
筋では邦昭の甥・俊が第5世代に居るものの、既に40代を迎えており状況は芳しくない。
ほかに第3世代で臣籍降下した東伏見伯爵宇治伯爵龍田伯爵があり、龍田吉光1980年生)と東伏見和(1977年生)・容(1981年生)が第5世代の男子にあたる。なお龍田は第3世代の徳の代で梨本に養子に入っているが、吉光とその・徳久は梨本姓を名乗らず、梨本を継いだ徳とも絶縁状態になったことから、本項では久邇系庶流の扱いとしている。

梨本宮家(断絶)

元々は邦王の・守脩王が創設したである。後継者不在のため山階宮の菊磨王が中継ぎで入るもすぐに実家に復帰、紆余曲折を経て久邇宮朝彦親王の四男・守正王が名跡を継いで久邇宮系となった。

守正王も跡継ぎを残さずに亡くなったため、死後に久邇分から臣籍降下した龍田伯爵の徳が養子として迎えられた。ただ前述のとおり徳の子・孫は梨本との関係を断っており、現在は徳が晩年に皇室外部から養子として迎えた夫なる人物が当を名乗っている。そのため実系では既に断絶している。

なお当は嫡流のみで庶流が存在しなかった。

朝香宮家

久邇宮朝彦親王八男王を初代とする王は明治天皇の八女を妻として貰い受けたため、香宮一族は系では現皇室とある程度血統が近くなっている。

代々男子の少ない系統であり、現在存命な男系男子は当で第4世代にあたる王改めと、その長男の明1972年生)の2人だけである。なお庶流には第3世代から分かれた音羽侯爵があったが、初代当の正が子をけることなく戦死を遂げたため一代限りで断絶となった。

東久邇宮家

久邇宮朝彦親王の九男・稔王を初代とする。嫡庶長幼の順で言えば5つある久邇宮系宮の最下位であるが、稔王が明治天皇の九女を、その嫡男・盛厚王が昭和天皇の長女を妻として貰い受けたため、伏見宮系宮の中では最も現皇室と血統上の繋がりが深い。

さらに代々男子恵まれやすいという特徴があり、嫡流から1人、庶流から3人と計4人もの第6世代男子を確保している。これらのことから皇籍復帰に最も近いされている。

嫡流
現当は第4世代にあたる信王改め東久邇信。信長男・征が既に男子2010年生)をけており、伏見宮系宮の中では一嫡流で第6世代男子を確保できたとなっている。
庶流
の系統では長男・照が第6世代の男子2004年生)をけているほか、の次男・1980年生)も第5世代の中では較的若い部類に属する。さらに信のもう一人ので、壬生伯爵の養子となった秀改め基博の系統でも、基博の子である基成・基兄弟がそれぞれ男子(いずれも2010年頃に誕生)をけており、いずれの系統でも男系男子は潤沢に確保されている。
一方、昭和天皇の女系子孫ではない系統として寺尾侯爵・多良間などが存在するが、いずれも男系は第4世代で止まっている。なお多良間移民としてブラジルに渡っており、第4世代のアルフレッドは一族初の外籍(ブラジル籍)保有者となった。

北白川宮家

当初はいずれも邦王の息子である嘉言王(次男)→智成王(十三男)→王(九男)の順に引き継がれ、以後は王の直系で継承されるようになった。元々は「護院宮」を名乗っていたが、門跡寺院護院との混同を避けるため、智成王の代で北白川宮と改名された。

現当を除き代々の当死にしていること、また戦病死や事故死など不慮の死が多いことから「悲劇の宮」と呼ばれる。王の三男(嫡子)・成久王が明治天皇の七女を妻として貰い受けたことで格が高まったものの、嫡流・庶流ともに第4世代で男子が止まっており、近い将来断絶する可性が高い。

嫡流(男系断絶がほぼ確定)
現在の当は第4世代にあたる久王改め北白川久だが、3人の子は全員女子であり、本人も既に70歳をえていることから、近い将来の男系断絶は確実と見られる。
庶流(男系断絶がほぼ確定)
2世代で小松侯爵・二荒伯爵上野伯爵が分立したが、第4世代になると男子小松の揮世久(1949年生)のみとなり、第5世代以降は確認されていない。揮世久が新たに男子けるのは年齢的に厳しいと考えられることから、こちらも嫡流と同様に近い将来の男系断絶は確実と見られる。

竹田家

北白川王の長男(庶子)・恒久王を初代とする、北白川の庶流宮。恒久王が明治天皇の六女を妻として貰い受けたことにより、現皇室との女系での結び付きを得ている。

第5世代に30代の男子を5人抱えているが、第6世代男子の誕生は確認されていない。皇籍離脱後はスポーツメディア関係の職に就く者が多く、元電通社員でプロゲーマーポーカープレイヤー竹田恒昭、右政治評論家テレビ番組などにも出演している竹田恒泰などを輩出しているである。

嫡流
現在の当は第4世代にあたる恒正王改め竹田恒正。長男に恒1974年生)が居るが、現時点では第6世代男子誕生の報は聞かれていない。
庶流
恒正の2人のの系統に各2人ずつ第5世代の男子が存在する。次男・恒治王改め竹田恒治は恒昭(1979年生)・恒智(1980年生)を、三男・恒和は恒泰(1975年生)・恒俊(1978年生)をそれぞれけた。ただ現時点では4人とも男子けておらず、特に恒昭は未だに独身である。

閑院宮家(断絶)

元々は江戸時代中期に当時の天皇嫡流から分かれた世襲であり、後に嫡流が断絶すると後継天皇を輩出、現在天皇に系譜を繋ぐ役割を果たした。その後江戸時代末期に一度断絶すると、伏見宮邦王の十六男・載仁王が後継者に迎え入れられ、伏見宮系の庶流宮という位置付けに変更された。

載仁王の男子で成人できたのは仁王改め閑院仁のみだったが、その仁は男色として知られ、軍人時代の従兵と同衾生活を送るなどしたため妻に逃げられてしまい、子を為せないまま亡くなった。これにより長い歴史を持つ名門宮・閑院宮は名実ともに断絶した。

東伏見宮家(断絶)

王の十七男・依仁王によって立てられた。依仁王が後継者のないまま大正時代に亡くなった時点で断絶が確定していたが、妻が妃として皇族の身分を保っていたため宮としては皇籍離脱まで存続していた。

関連動画

ニコニコ動画投稿されている旧皇族関係の動画の大半は、右の立場から旧皇族の皇籍復帰をするチャンネル桜竹田恒泰が自ら投稿した動画で占められている。

関連チャンネル

関連項目

脚注

  1. *もっとも切り離された後に事情が変わって再び皇族に戻り、嫡流を形成したというケースも存在する。宇多天皇醍醐天皇など。
  2. *ただし王になれるのは天皇の子または兄弟姉妹に限られていたため、伏見の当は当代の天皇の養子または猶子となった上で王宣下を受けていた。大日本帝国時代になると皇室典範で皇族の養子が禁じられたため、これ以後伏見宮系の皇族男子王の身分を得られなくなり、単に「王」と名乗るようになった。
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最終更新:2024/12/21(土) 21:00

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