租税財源説とは、租税が課される根拠についての学説の1つである。「税金は財源」ということもある。
「租税は国家財政を支えるものであり、財源の確保を第一の目的として国内に住んでいる人々に課される」という考え方を租税財源説という。あるいは「税金は財源」という。
租税財源説を前提として論じられている学説は、租税利益説と租税義務説である。
租税財源説から、以下の表に記されるような意義が租税に与えられる。租税罰金説に比べると非常に画一的である。
税金の名前 | 意義 |
所得税 | 政府の財源にして、政府が社会全体の利益の実現を目指すことを支える |
相続税 | 政府の財源にして、政府が社会全体の利益の実現を目指すことを支える |
法人税 | 政府の財源にして、政府が社会全体の利益の実現を目指すことを支える |
消費税 | 政府の財源にして、政府が社会全体の利益の実現を目指すことを支える |
たばこ税 | 政府の財源にして、政府が社会全体の利益の実現を目指すことを支える |
酒税 | 政府の財源にして、政府が社会全体の利益の実現を目指すことを支える |
ガソリン税 | 政府の財源にして、政府が社会全体の利益の実現を目指すことを支える |
自動車税 | 政府の財源にして、政府が社会全体の利益の実現を目指すことを支える |
自動車重量税 | 政府の財源にして、政府が社会全体の利益の実現を目指すことを支える |
租税財源説からは「税率を変更していない状況の中で税収が増えることは、政府が社会全体の利益の実現を目指すことが推進されるので、非常に望ましい」という結論が導かれる。
租税財源説を支持する人は、政府の税収が増えることを大喜びする傾向がある。また、「政府というのは税収の増加を第一目標として経済政策を行うのだ」と考える傾向がある。
租税財源説から、税金を多く納める人に対して、「国家の建設に対して力を与えた立派な人」という評価が与えられるようになる。政府から「かけがえのない偉人だ」といった感じの扱いを受けることになる
1947年から2005年までの日本において高額納税者公示制度があり、長者番付が政府から発表され、高額納税者の氏名が公表されていた。いくつかの目的があって実施された制度だったが、そのうちの1つは高額納税者を表彰し賞賛することだったとされている。
租税財源説は均衡財政論(健全財政論)から生まれる思想である。均衡財政論はプライマリーバランスを重視するもので、「租税収入の範囲内に政府支出を抑えなければならない」という緊縮財政の考え方である。
均衡財政論は商品貨幣論から生まれる思想である。詳細は当該記事を参照のこと。
租税財源説は、20世紀~21世紀の日本の法律界でも主流となっている。「国(地方公共団体)がその経費を支弁するため国民から強制的に無償で徴収する金銭を租税という」という定義を租税狭義説[1]、「国(地方公共団体)がその経費を支弁するため国民から強制的に無償または有償で徴収する金銭を租税という」という定義を租税広義説[2]というが、このどちらも「経費を支弁するため」という点は同じである。
租税財源説からは、「税金で○×をする」「税金の無駄遣い」といったような言い回しが生まれる。国家予算とか官費とか公費とか政府支出と表現すべきところを「税金」と表現するようになる。
逆に言うと、「税金で○×をする」「税金の無駄遣い」という言い回しをする人は、租税財源説を強く支持している可能性が高い。
租税を課して納税者からお金を召し上げる行為は、納税者の財産権を否定する行為であり、納税者の基本的人権を否定する行為である。
基本的人権を制限するときの口実の中で有力なものは3つになる。箇条書きにすると次のようになる。
憲法学の教科書においては、「1.のように他者加害原理を基礎として基本的人権を制限すべきである。2.のように『限定されたパターナリスチックな制約』で基本的人権を制限することは例外的に許される。3.のように『社会における多数または全体の利益の達成』を口実にして基本的人権を制限することは基礎とすべきではない」と説かれる[3]。
以上のことを分かりやすく言い換えると、「君の行動で他人に害が及ぶから、君の基本的人権を制限する」とか「君の行動は君の人生を設計する能力を回復不可能なほど永続的に喪失させるから、君の基本的人権を制限する」と言った方が相手が納得しやすい、「君は何も悪いことをしていないが全体の利益のため我慢してもらう」というのは相手が納得しにくい、ということになる。
さて、租税財源説は、「社会における多数または全体の利益の達成」を基礎として基本的人権を制限している。「君はなにも悪いことをしていないが、我慢してほしい。世のため人のためお国のために犠牲になってもらいたい。滅私奉公をしてくれ」と宣告して徴税するので、政府に対する納税者の不満を引き起こしやすい。
租税財源説は、「政府は憲法学の教科書が推奨していない口実で基本的人権を制限している」と説明する考え方であり、政府を悪玉に仕立て上げる思想である。租税財源説を唱えれば自動的に政府を悪者に位置づけることができる。
租税財源説は、政府への憎悪・憤懣・不満・怒りを煽り立てる思想であり、政府に対する一種のヘイトスピーチといえる思想である。
政府を悪玉にすることで政府の徴税を徹底的に削減することを目指す政治勢力は、新自由主義(市場原理主義)や、無政府主義や、リバタリアニズムや、「小さな政府」の支持者である。あるいは「生産力の低い土地に政府支出をして人を張り付かせることや、生産力の低い老人に政府支出をして人を張り付かせることは、無駄で非効率だ」と考える効率至上主義の支持者である。そうした人たちは租税財源説を強く支持することになる。
ちなみに余談であるが、生産力の低い土地に政府支出をして人を張り付かせる政策は人口空白地域の減少をもたらし、凶悪犯罪の証拠を捨てにくい状態を作り出し、凶悪犯罪の減少をもたらし、治安を向上させる効果がある。また生産力の低い老人に政府支出をして人を張り付かせて医療業界に資金を回す政策は、製作することが非常に難しい医療器具への需要を作り出し、製造業の技術水準を底上げする効果がある。
租税財源説は、政府の財源として租税を課すという思想であるから、「政府の全体像をしっかり勉強して政府の支出がどれほどの額になるか知識を深めてから、税金について論じるべきだ」という思想になる。
租税財源説だと人々が積極的に政治に参加しようという気運が生まれにくい。「政府の全体像をことごとく知っている知的エリートだけが税金の議論に参加すべきであり、無知で愚かな民衆階級は黙っているべきだ。馬鹿な愚民は出過ぎた真似をするな。頭が悪くて勉強不足の民衆は、表現の自由など行使するな。民意など示されても迷惑というものだ」という思想になりやすい。階級社会を強く肯定する思想であり、知的下層階級の「表現の自由」を抑制する思想である。
租税財源説は、日本国憲法の基本原理とされる国民主権の考えに合致せず、大日本帝国憲法の君主主権の考えに合致する思想である。君主主権というのは、「政府の全体像をことごとく知っている知的エリートに囲まれた君主が国家の主権を握る」というものである。
日本国憲法第84条で「租税は法律によって課されるべきである」という租税法定主義が定められている。そして日本国憲法第41条で「法律は国会が立法する」と定めてられており、日本国憲法第43条で「国民から選挙された議員で国会が構成される」と定められている。これらの条文から「国民の意見を吸収する国会議員が法律を決めて租税を決める」という体制が構築されている。こういう体制と、租税財源説から生まれる「人々の意見を集めて議論して租税を決めるのは間違いの元であり、政府の全体像をことごとく知っている知的エリートに租税のことを任せれば良いのだ」という思想は一致しない。
租税財源説は、「納税は国家の建設に力を与えていて、素晴らしい行為だ」と考える傾向にある。
その考え方から、「納税をすることで、政府から一人前の人間として認められ、政府から参政権などの権利を与えられる」という考え方が導かれていく。これは、「税金は参政権の対価」という考え方といえる。
日本の保守系論壇で「税金は参政権の対価」という思想に基づいた文章を書いていたのは、渡部昇一である。複数の著書でそういう文章を読むことができる[4]。
渡部昇一は「イギリスは普通選挙を導入し、納税しない人にも選挙権を与えた。イギリス人はみずからの大発明である『代表なくして課税なし』を放棄した」と書いていて[5]、「代表なくして課税なし」を「納税することで参政権が与えられる」という意味で解釈している。
「代表なくして課税なし(No Taxation Without Representation)」というのは18世紀の北米大陸で掲げられたスローガンで、本来は「徴税される民衆の同意が無い場合は課税するな」という意味で、租税法定主義を意味する言葉である。「納税することで参政権が与えられる」という意味ではない。
「納税することで参政権が与えられる」という意味なら「課税なくして代表なし(No Representation Without Taxation)」と表現しているはずである。
租税財源説は「税金は参政権の対価」の考えを導くのだが、その考えは投票者1人につき平等に1票を与える普通選挙との相性が非常に悪い。
「税金は参政権の対価」の考えを支持する高額納税者は、「自分はあんなに多くの納税をしたのに、たった1票しか投票権を与えられていない」と怒ることが多い。
日本国憲法は、第15条第3項や第14条や第44条で、すべての有権者に対して平等に1人1票の投票権を与える普通選挙を実施するよう政府に義務づけている。
租税財源説は「税金は参政権の対価」の考えを導く。
その考え方に従うと、「憲法で1人1票の平等権利の普通選挙が定められていることから、租税の負担も1人1人が均等であるべきだ」という考えになり、所得税一律課税(フラットタックス)や人頭税や消費税に傾倒することになる。
「今は憲法で1人1票の普通選挙が定められている。その制度と『税金は参政権の対価』の辻褄を合わせるため、所得税の累進課税を弱体化させ、一律課税(フラットタックス)を導入しよう」というわけである。一律課税(フラットタックス)とは、1人1人に掛けられる所得税の税率が全く同じになる制度である。
「今は憲法で1人1票の普通選挙が定められている。その制度と『税金は参政権の対価』の辻褄を合わせるため、人頭税を導入しよう」という人も出てくる。人頭税とは、1人1人が全く同じ金額の税金を支払う制度である。
また、「今は憲法で1人1票の普通選挙が定められている。その制度と『税金は参政権の対価』の辻褄を合わせるため、国民に広く薄く徴税する消費税が望ましい」という論理も発生するようになる。貧しい人も豊かな人も胃袋の大きさがほとんど同じで、食費の額も極端な差が発生しない。そんな調子で、貧しい人も豊かな人も、消費の金額は極度に大きな差が付かない。消費税は最も人頭税に近い租税といえる。
所得税一律課税(フラットタックス)も人頭税も消費税も、累進課税の長所を完全に打ち消す税制となる。
所得税累進課税が弱体化すると所得格差が一気に広がり、階級社会が出現し、「異なる階級に声をかけるのはやめておこう」という雰囲気が蔓延する社会になり、人々の「表現の自由」が制限され、社会の中の情報流通が阻害され、社会が発展せずに停滞するようになる。
憲法に1人1票の平等権利の普通選挙が明記されているので「税金は参政権の対価」という考え方はさすがに無理がある。
そのため租税財源説の支持者の中には、「税金は『行政や立法や司法に影響を与える目的で行う表現をする自由』の対価」と考える人も出てくる[6]。
低額納税者に対して「税金を払えないのなら黙っていろ。文句があるなら働いて税金を払え」と威圧しつつ発言権を封じ込めようとする人がいる。デモをしている人に対して「デモに参加するほど暇があるなら、働いて納税したらどうだ」と嘲笑するがごとく言い放ち、低額納税者のデモをする気力を失わせて、低額納税者から「行政や立法や司法に影響を与える目的で行う表現をする自由」を取り上げようとする人がいる。
「税金は『行政や立法や司法に影響を与える目的で行う表現をする自由』の対価であり、高額納税者のみが『行政や立法や司法に影響を与える目的で行う表現をする自由』を獲得できるのであって、低額納税者には『行政や立法や司法に影響を与える目的で行う表現をする自由』が存在しない」と考えているから、そういう言動をするのである。
参政権の形態には3通りあるとされ、直接的参政権の行使(憲法改正の国民投票、被選挙権など公職に就く権利の行使)、間接的参政権の行使(選挙権など公職者を任免する権利の行使)、インフォーマルな政治参加(憲法第16条に基づく請願や、行政や立法や司法に影響を与える目的で行う表現)が挙げられる。詳しくは当該記事を参照のこと。
インフォーマルな政治参加は、日本において江戸時代の頃から盛んに行われていたことが知られている(記事)。民間の事情を把握することができて為政者に有益であるという意味もあって、インフォーマルな政治参加が多く行われていた。
「表現の自由」は優越的地位を持っているとされ、むやみに否定すべきものではない。詳しくは当該記事を参照のこと。
歴史の観点からしても、法学の観点からしても、あるいは常識から考えても、低額納税者から「行政や立法や司法に影響を与える目的で行う表現をする自由」を取り上げるのは良くないことだと考えられるのだが、しかし、租税財源説から派生する「税金は『行政や立法や司法に影響を与える目的で行う表現をする自由』の対価」という考え方にとらわれると、そうした行動に及んでしまうようである。
「税金は『行政や立法や司法に影響を与える目的で行う表現をする自由』の対価」という考え方が広まると、低額納税者の気持ちを推し量るという気運が失われ、低額納税者と高額納税者の間で亀裂が発生し、社会の分断が生じ、格差社会となり、さらには階級社会となり、国家の発展にとって望ましくない事態となる。
階級社会が出現すると、「異なる階級に声をかけるのはやめておこう」という雰囲気が蔓延する社会になり、人々の「表現の自由」が制限され、社会の中の情報流通が阻害され、社会が発展せずに停滞するようになる。
租税財源説は「税金は公共サービスの対価」という考えを導くことがある。この考え方は日本の国税庁が正式に表明している考え方である(資料)。
「税金は参政権の対価」の思想に基づいて外国人参政権を要求してくる政治勢力に対して、その政治勢力に反する人たちが「税金は公共サービスの対価」と論じることが多い(検索例)。
「税金は公共サービスの対価」という思想は、問題点が多い思想である。
公共サービスには有償のものと無償のものがあるが、有償の公共サービスというと水道や高速道路が挙げられ、無償の公共サービスというと消防とか図書館とか一般道路が挙げられる。
「税金は公共サービスの対価」という考え方は、「税金を払うことができない人は公共サービスを受けるな」という考え方になりかねない。「税金を払えない人は家が火事になっても119番の通報をするな」とか「税金を払えない人は図書館に入って読書をすることを諦めろ」とか「税金を払えない人は一般道路を歩くな」という妙な理屈になってしまう。
「税金は公共サービスの対価」という考え方は、「高額納税者は低額納税者よりも優先して公共サービスを受けることができる」という考え方になり、「災害が起こって警察・消防・自衛隊が救助活動をするときに高額納税者を優先して救助して低額納税者を後回しに救助するべきだ」という考え方になるが、それはどうやら日本国憲法第15条2項に抵触しそうである。
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最終更新:2024/04/25(木) 17:00
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