商品貨幣論とは、通貨の成り立ちや、通貨の定義に関する学説の1つである。
金属主義(Metallism
)とも呼ばれる。
国定信用貨幣論とはあらゆる面で正反対の主張をしている。商品貨幣論と国定信用貨幣論の論争は1000年以上も続いてきた。
※日本の法律において「貨幣は金属を素材とする硬貨であり、通貨は紙幣と銀行券と貨幣を合わせた概念である」と定義されている。本記事では、できる限りその定義に従うことにする。
原始的な社会では、物々交換が行われていたが、そのうちに、何らかの価値をもった「商品」が、便利な交換手段(つまり貨幣)として使われるようになった。その代表的な「商品」が貴金属、とくに金である。これが、貨幣の起源である。
しかし、金そのものを貨幣とすると、純度や重量など貨幣の価値の確認に手間がかかるので、政府が一定の純度と重量をもった金貨を鋳造するようになる。
次の段階では、金との交換を義務付けた兌換紙幣を発行するようになる。こうして、政府発行の紙幣が標準的な貨幣となる。
最終的には、金との交換による価値の保証も不要になり、紙幣は、不換紙幣となる。それでも、交換の際に皆が受け取り続ける限り、紙幣には価値があり、貨幣としての役割を果たす。
※中野剛志『 全国民が読んだら歴史が変わる奇跡の経済教室【戦略編】』329ページから引用。同氏は、N・グレゴリー・マンキュー『マンキューマクロ経済学I入門篇【第3版】』110~112ページ
を参照して文章を書いている。
「原始社会で物々交換が行われてきたが、その不便さを解消するため基軸となる商品を通貨として扱うようになった」と論じたのは名高い経済学者であるアダム・スミスであり、『国富論』という有名な書でそう述べている。
その思想が現代まで延々と受け継がれている。N・グレゴリー・マンキューという人は著名な経済学者で、マクロ経済の教科書を書いたことで知られる。マンキューの教科書は世界中の経済学部で使用されているというが、そのマンキュー教科書で商品貨幣論が採用されている。
商品貨幣論では「『市場に参加する人々が一様に欲しがる商品』が物々交換の基軸商品となり、次第に通貨になっていった」と説明される。
そこで、「通貨とは、市場に参加する人々が一様に欲しがる商品」と定義することができる。
古代の日本では米や絹や布が通貨として扱われていた。それらは、市場に参加する人々が一様に欲しがる商品だったので、通貨としての地位を得たのである・・・商品貨幣論の見地からは、このように説明される。
かつては世界中で金貨や銀貨や銅貨が貨幣として扱われていた。それらは貴金属からできていて、市場に参加する人々が一様に欲しがる商品だったので、貨幣としての地位を得たのである・・・商品貨幣論の見地からは、このように説明される。
19世紀頃から金塊との引き換えを中央銀行が保証する兌換銀行券(兌換紙幣)が発行された。それらは市場に参加する人々が一様に欲しがる商品と確実に交換できるから、通貨としての地位を得たのである・・・商品貨幣論の見地からは、このように説明される。
「通貨とは、市場に参加する人々が一様に欲しがる商品か、市場に参加する人々が一様に欲しがる商品と確実に交換できる引換券」と定義すると、兌換銀行券を含んだ定義となる。
商品貨幣論の最も疑わしい点は、不換銀行券(不換紙幣)を上手に説明できないところである。1971年8月15日のニクソンショックで金塊とアメリカ合衆国ドルの交換が停止されてからは世界中から兌換銀行券が姿を消して不換銀行券ばかりになった[1]。どこの国の不換銀行券も製造原価が17円程度の紙切れで[2]、金塊との交換など一切不可能である。そんなものに1万円とか100ドルといった価値が宿っている。
不換銀行券は、素材自体に価値がなくて「市場に参加する人々が一様に欲しがる商品」と言うことができないし、「市場に参加する人々が一様に欲しがる商品と確実に交換できる引換券」と言うこともできない。
商品貨幣論の信奉者たちは、困ったので、共同幻想とか魔法とか信認といった言葉を駆使して不換銀行券を説明するようになった。
「不換銀行券は、市場に参加する人々が一様に欲しがる商品と同等の価値ある存在だと皆が共同幻想を抱いている。つまり、ただの紙切れに魔法がかかっている状態である。だから流通している」
「不換銀行券は、市場に参加する人々が一様に欲しがる商品と同等の価値ある存在だと市場関係者に信認されている。だから流通している」
などという説明が行われる。
池上彰は商品貨幣論の信奉者で、この本の表紙で「物々交換からお金が生まれた」と語っている人なのだが、この記事
において共同幻想という言葉を使って不換銀行券を説明している。
さらに、人類学者たちが「いろんな原始的共同体を調査したが、共同体の中で物々交換(barter)が行われている例を発見できなかった」と発表したことも、商品貨幣論に対して大きな打撃となった。そのうちの1人がキャロライン・ハンフリーという英国の学者であり、彼女は1985年の論文でそう論じている。フランスのマルセル・モース
、アメリカのジョージ・ドルトン
、同じくアメリカのデヴィッド・グレーバー
もそう述べている。
「原始社会は物々交換が行われていた」というのが商品貨幣論の大前提なのだが、それを人類学者たちが否定したことで、商品貨幣論が大きく揺らぐことになった。
※この項の資料・・・フェリックス・マーティン『21世紀の貨幣論』16~17ページ、デヴィッド・グレーバー『負債論 貨幣と暴力の5000年』34~64ページ
、英語記事1
、英語記事2
、キャロライン・ハンフリーの1985年論文
このため、他の理論の躍進を許すことになった。
信用貨幣論は「通貨とは、負債を表すデータである」と論じる。
国定信用貨幣論は「通貨とは、政府の徴税債権の対象物である」と論じる。
信用貨幣論は2021年の全世界において通貨の大半を占めている預金通貨を説明するのに優れているし、国定信用貨幣論は2021年の世界各国で現金通貨に採用されている不換銀行券を説明するのに優れている。
商品貨幣論はそれなりに説得力のある説なので、人類に大きい影響を与え続けてきた。この項で、商品貨幣論の特徴と、商品貨幣論の影響を受けて生まれる経済思想を列挙していきたい。
商品貨幣論は「通貨とは、市場に参加する人々が一様に欲しがる商品」と定義する考え方である。
市場に参加する商人たちが英知を尽くして判断し、市場に出回っている数々の商品のなかから最も優れた商品を選び出す。相対的に最も優秀で、相対的に最も価値が高く、相対的に最も立派である商品が、商人たちの手によって選び出され、物々交換の基軸となり、通貨になる。
つまり、市場に参加する商人たちが一様に「とても優秀で、すごく価値が高くて、実に立派だ」と賞賛する商品が通貨になる、と説明している。もう少し言い換えると、市場に参加する商人たちの賞賛心(賞賛する心)が通貨を生み出す、ということになるだろう。
国定信用貨幣論では「徴税権力に対する恐怖心が通貨を生み出す」と説明される。恐怖心というネガティブな感情が通貨を生む、というのである。
その一方で、商品貨幣論は「特定の商品に対する賞賛心が通貨を生み出す」ということになる。賞賛心というポジティブな感情が通貨を生む、という思想である。
このように、「通貨を生み出す心理の根源は何であるか」という問いかけに対して、国定信用貨幣論と商品貨幣論は全く逆の答えを用意している。両者は鮮やかな対比を為している。
商品貨幣論を信じている人の一部は、この傾向を持っている。商品貨幣論は「通貨とは、市場に集まる民間商人たちが一様に欲しがる商品である」という説であるが、当然のことながら、そうした商品を軽々しく創造することはできない。
金塊を無から創造することはできない。金塊を手にするには、地球上のさまざまな鉱脈を調査し、地面を掘って鉱石を集め、鉱石を製錬するという大変な手間暇がかかる。
このため、商品貨幣論の信奉者の一部は、中央銀行や政府による通貨発行権をあまりよく理解できない。「通貨というのは金塊のようなものだ。そして金塊を無から創造するなんて不可能だ。ゆえに新たに通貨を発行するのは軽々しくできるものではない」と考える傾向にある。
商品貨幣論の信奉者の一部の目には、通貨発行権というものが、極めて不正でまことにいかがわしく非常に怪しげなものだと映る。このため、通貨発行権を利用した経済政策に対して「打ち出の小槌」「錬金術」「金の成る木」という蔑称を与える傾向がある。
ひどい場合は「劇薬」「カンフル剤」「麻薬」「覚醒剤」「依存症をもたらす」という蔑称が通貨発行権を利用した経済政策に与えられることがある。ちょっと言いすぎではないだろうか。
商品貨幣論の信奉者の一部が「通貨発行権に頼らない自分は、正しく、まっとうで、清らかで、高潔である」と誇らしげに語る姿は、たまに見られる。
商品貨幣論を信じている人は、この傾向を持っている。2021年現在の世界各国で流通しているのは不換銀行券であるが、その事実に目をつぶり、あたかも兌換銀行券が流通しているかのように信じ込もうと努力する。
中央銀行が発行する不換銀行券は、中央銀行の負債として発行されている。ただし、中央銀行は「不換銀行券を差し出された際に資産を提供する義務」を無期限に延期している。ゆえに中央銀行にとって不換銀行券は「負債性が極度に薄まった負債」であり、中央銀行の経営を全く圧迫しないものである。
中央銀行が発行する中央銀行預金は、中央銀行の負債として発行されている。ただし、中央銀行は中央銀行預金と交換に提供するものを不換銀行券だけに限定しており、中央銀行預金と引き換えに何らかの資産を提供する義務を抱えていない。ゆえに中央銀行にとって中央銀行預金は「負債性が極度に薄まった負債」であり、中央銀行の経営を全く圧迫しないものである。
商品貨幣論の信奉者の一部は、こうした事実に目を背け、「中央銀行は、銀行券や中央銀行預金といった通貨を発行しすぎると経営の負担になる」だとか、「中央銀行の貸借対照表(バランスシート)において、銀行券や中央銀行預金といった負債が膨らんで負債の部が資産の部よりも大きい額となる債務超過になったら、中央銀行が破綻する」と論じる傾向にある。
つまり、商品貨幣論の信奉者の一部は、中央銀行が発行する不換銀行券を兌換銀行券だと信じ込んでいるのである。または、中央銀行が発行する中央銀行預金を「兌換銀行券と交換できる中央銀行預金」と信じ込んでいるのである。
中央銀行が兌換銀行券や「兌換銀行券と交換できる中央銀行預金」を負債として発行しているのならば、負債の部が巨額になって資産の部を上回る債務超過になったら経営破綻する。ところが、2021年現在において中央銀行が負債として発行しているのは不換銀行券や「不換銀行券と交換できる中央銀行預金」なので、負債の部の額がどれだけ巨額になろうが中央銀行は一切の引き換えに応じる義務がなく、経営破綻することがあり得ない。
商品貨幣論の信奉者の一部は「2021年現在、世界各国で流通しているのは確かに不換銀行券だ。しかし、みんなが不換銀行券のことを兌換銀行券であると共同幻想を抱くことで、不換銀行券がみんなに通貨として信認され、通貨として流通しているのだ。不換銀行券を兌換銀行券と信じ込むのは通貨を使用する人々にとっての義務のようなものだ」といった主張を心の中で構築することになる。
商品貨幣論の信奉者の一部は、「通貨を流通させて経済を安定させよう」という良心に従い、不換銀行券を兌換銀行券のように扱っている、というわけである。
不換銀行券が流通している世界の中で兌換銀行券が流通していると信じ込む心理は「兌換銀行券幻想」と呼ぶことができる。
アメリカ合衆国の経済学者のステファニー・ケルトンは、商品貨幣論の信奉者が「金塊の埋蔵量は有限であり一定であるので、金塊を裏付けとする兌換銀行券の発行可能量も有限であり一定である。ならば不換銀行券の発行可能量も有限であり一定なのではないか」と推論しつつ「市場に回る不換銀行券の総量が有限かつ一定であり、つまり固定された枠(プール)の中を一定量の不換銀行券が右に左に移動する」という推論にひたっていると指摘した。そしてステファニー・ケルトンは、そうした商品貨幣論特有の推論を「お金のプール論(the Finite Pool of money)」と名付けた。この「お金のプール論」は兌換銀行券幻想と同じことを意味している。
ちなみに日本では日本国憲法第20条で信教の自由が保障されている。兌換銀行券幻想を抱くこと自体は全くの自由であり、人に対して兌換銀行券幻想を放棄するように迫ることは望ましくない。政府が「兌換銀行券幻想を捨てろ」と要求するとその要求は日本国憲法第20条違反とされるし、私人が「兌換銀行券幻想を捨てろ」と要求するとその要求は間接適用説に基づき民法第90条を通じて日本国憲法第20条を適用されて無効とされることがある。
商品貨幣論の影響を受けて兌換銀行券幻想を抱いている人は、「クラウディングアウトが発生するので国債発行は有害である」と主張する。
「政府は、国債を発行することで、長期金融市場の国債市場に参加する企業・銀行の持つ資金を吸い上げている。国債を発行しまくると市中銀行の持つ日銀当座預金が少なくなり、短期金融市場の銀行間取引市場のコール市場における日銀当座預金の貸出金利が上昇し、短期金利が上昇する。市中銀行はコール市場の金利よりもさらに高い金利で企業に向けて融資することになり、借り入れをとりやめる企業が続出してしまう。こうして民間の経済活動が阻害される。ゆえに国債を発行することは経済にとって有害である」といった考え方をクラウディングアウトという。
クラウディングアウトを発展させた思想というとマンデル・フレミングモデルである。マンデル・フレミングモデルを簡単に言うと「国債を発行するとクラウディングアウトが起こって短期金利が上がり、キャリートレードが起こって自国通貨が買われるようになり、自国通貨高になって輸出が鈍り、貿易収支が赤字になってしまう。ゆえに国債発行した上の積極財政は、無駄で無効である」というものである。
実際の日本では、中央銀行が不換銀行券や「不換銀行券と交換できる中央銀行預金」を通貨として発行しているので、中央銀行がいくらでも通貨発行することができ、クラウディングアウトが起こらない。市中銀行の持つ日銀当座預金が少なくなってコール市場の金利が急上昇したら、中央銀行が日銀当座預金(不換銀行券と交換できる中央銀行預金)を好きなように発行して資金供給オペレーションをする。
上記の「クラウディングアウトが発生するので国債発行は有害である」という主張とほぼ同じものに、「国債を売り浴びせられたら日本政府が困ってしまう」という主張がある[3]。
「長期金融市場の国債市場に参加する商人たちの怒りを買ったら、国債を片っ端から売り浴びせられてしまい、国債の価格が下落し、国債の利回りが上昇し、長期金利が上昇してしまい、世の中の住宅ローンや自動車ローンの金利が上昇し、民間の経済活動を阻害し、民間の経済活動が低調となって日本政府が困ってしまう」というものである。
実際の日本では、中央銀行が不換銀行券や「不換銀行券と交換できる中央銀行預金」を通貨として発行しているので、国債を売り浴びせられても中央銀行が無限に通貨発行して国債をすべて買い取ることができ、国債の価格を好きなように維持することができ、日本政府が困ることがない。
商品貨幣論は通貨発行権を軽視する理論である。「中央銀行や政府には通貨発行権なんてないんじゃないか、通貨を増殖させることは不可能なんじゃないか」と考えがちである。
このため、商品貨幣論の考え方に染まって通貨発行権のことを忘れると、「日本は国債のせいで財政破綻する」という考えに至りやすい。そして、国債恐怖症を発症する。
実際は、日本国債は100%自国不換銀行券建てなので、日本銀行が通貨発行権を駆使すれば簡単に財政破綻を逃れることができる。
「日本は財政破綻する」と主張する人々の言動を観察すると、次のことに気付くことができる。彼らは、日本国債によって日本政府に課せられている支払い義務が「兌換銀行券の円を支払う義務」だと信じ込んでいるように見受けられる。「兌換銀行券の円」なら日本銀行が簡単に通貨発行権を行使できず、日本政府も財政破綻する可能性が出てくる。
現実世界において、日本国債によって日本政府に課せられている支払い義務は「不換銀行券の円を支払う義務」である。「不換銀行券の円」なら日本銀行がごく簡単に、しかも無限に通貨発行権を行使できるので、日本政府が財政破綻する可能性は完全にゼロとなる。
不換銀行券のことを兌換銀行券と信じ込もうとする、不換銀行券が流通する世界においても脳内に「兌換銀行券が流通する世界」を構築してその中で生き続けようとする、というのは商品貨幣論の信奉者らしい傾向である。
商品貨幣論の影響を受けて兌換銀行券幻想を抱いている人は、「日本は国債のせいで財政破綻する」と考え、そしてそれに引き続いて「国債を減らさねばならない」と考える。「プライマリーバランス(基礎的財政収支)を黒字にして、国債発行額を減少に転じさせねばならない」と主張する。
「国債を減らさねばならない」と訴える人たちは2種類に分けることができる。1つは「消費税を増税して、不景気になっても好景気になっても一定の税収を確保するようにして、国債を減らす」という人たちで、消費税派と呼ぶことができる。もう1つは「消費税を上げず景気を刺激して好景気をもたらし、所得税や法人税の税収を増加させて、国債を減らす」という人たちで、上げ潮派と呼ばれる人たちである。
「不景気でも税収を増やす」というのが消費税派で、「好景気になってから税収を増やす」というのが上げ潮派なので、両者は真逆のように見える。しかしながら、「国債を減らす」という最終目的を胸に秘めている点で、消費税派と上げ潮派は全く同じ存在である。
実際の日本国債は自国不換銀行券建て国債なので、「日銀の金融調整の道具」「経済の状況を示す指標」「民間人が貸出金利を決めるときの便利な指標で、ある種のインフラ[4]」といった程度の存在であり、減らす必要性がない。
また、プライマリーバランスを黒字化させて国債を減らすと不況になるという不吉な法則がある。そのことについては、プライマリーバランスの記事を参照のこと。
商品貨幣論の影響を受けて兌換銀行券幻想を抱いている人は、「リカードの等価定理は正しい」と考える。
リカードの等価定理は、「国債を発行して政府支出を増やして積極財政にすると、国債の返済のために将来に増税されることを国民が予感し、国民が消費を抑えて貯蓄をするようになる。ゆえに国債の発行で官公需を増やしても、民需が減るので、景気の振興にすらならない」というものである。
リカードの等価定理に近い主張をしているのは幸福実現党である。「バラマキが増税をまねく」という言葉を2022年の選挙のポスターに採用している。
実際の日本国債は自国不換銀行券建て国債である。政府が借換債を発行して売却する直前に、日銀法第4条に基づいて政府に影響を受ける日銀が、「不換銀行券だけと交換できる中央銀行預金」を発行して国債市場参加者の持つ余剰資金を増やし、借換債が確実に売れるようにしている。そのため政府は借換債の売却によって好きなだけ資金を得ることができ、国債の返済をいとも簡単に行うことができる。つまり日本政府は、既存国債を新規国債に置き換える借り換えをごく簡単に行うことができる。ゆえに日本政府は国債の返済のために増税をする選択肢を選ぶ必要性がなく、日本にはリカードの等価定理が当てはまらない。
商品貨幣論の影響を受けて兌換銀行券幻想を抱いている人は、「国債は子孫を苦しめる」と考える。
「国債を発行することによって子孫にツケを回し、子孫への増税を招く。国債は子孫からお金を奪い取っているのであり、子孫に対する犯罪行為である。国債発行はまことに罪深い」などと言い、国債発行を主張する政治勢力に罪悪感を持たせるように懸命に語りかける。
大平正芳は1975年(昭和50年)の予算編成の際に大蔵大臣を務めていた。税収が不足したので10年ぶりに特例国債法を制定して特例国債を発行することになった。このとき大平正芳大臣は「万死に値する。一生かけて償う」と発言したと伝えられている(記事)。もう、まるっきり、国債発行を犯罪と扱っている。
人というのは、自分の行動で他者が楽になると考えると大喜びし、自分の行動で他者が苦しむと考えると罪悪感を感じて苦悩する。罪悪感を強調して人の行動を誘導することを得意とするのは統一教会などのカルト宗教団体だが[5]、兌換銀行券幻想を信じて国債発行を制止しようとする人たちも得意としている。
実際の日本国債は自国不換銀行券建て国債である。日本政府は日銀法第4条に基づいて日銀と協力して国債の借り換えを行うことができる。ゆえに国債発行で子孫が苦しむわけではない。
商品貨幣論の影響を受けて兌換銀行券幻想を抱いている人は、「金融岩石理論は正しいので、政府は決してインフレ容認の姿勢を見せてはならない」と主張する。
「政府が中央銀行に対して影響力を与えて、中央銀行に通貨発行権を行使させて資金供給オペレーションをさせて、国債市場に参加する企業・銀行の余剰資金を増やさせて、そのあとに国債を発行して売却して資金を得て予算を組み、豊富な資金で財政支出して官公需を増やし、世の中の需要を増やして、緩やかなインフレをもたらしましょう」というインフレ誘導の政策が提示されることがある。
そういう、インフレ誘導の政策を示されると「そんなことをしたら、通貨の信認が失われ、デフレの状態から即座にハイパーインフレへ移行する」と反論してくる人たちがいる。この考え方を金融岩石理論といい、インフレ恐怖症の症状の1つとされる。
人はなぜ金融岩石理論を主張するに至るのか、その原因は長らく謎とされていた。
近年では、商品貨幣論の考えが金融岩石理論の遠因となっているのではないかという論考が挙がるようになった。「2021年現在の世界各国で流通している通貨は不換銀行券で、人々の通貨に対する信認だけで成立している。政府がインフレを誘導して通貨価値を故意に下げると、人々の通貨に対する信認を損ねることになり、人々が一斉に通貨に対する共同幻想から目を覚ましてしまい、人々が通貨のことをただの紙切れと認識するようになり、ハイパーインフレが起こる」という商品貨幣論らしい考え方が金融岩石理論を支えているのではないかという説である。
「不換銀行券は人々の共同幻想で通貨の地位を得ている」という商品貨幣論特有の考え方から、「不換銀行券を通貨として流通させるには、人々の共同幻想を維持せねばならない」というと戒めの心と「人々の共同幻想をうっかり壊したら全てが終わり経済が崩壊する」という恐怖の心が発生する、というわけである。
商品貨幣論の影響を受けて兌換銀行券幻想を抱いている人は、「中央銀行は政府から独立しているべきである」と主張する。
「政府が中央銀行に対して影響力を与えて、中央銀行に通貨発行権を行使させて資金供給オペレーションをさせて、国債市場に参加する企業・銀行の余剰資金を増やさせて、そのあとに国債を発行して~」と言うと、即座に「中央銀行は政府から完全に独立しているべきだ」と言い放ち、「政府が中央銀行に影響力を与えても良いという考えは、まさしく暴論で、とても過激だ」と激しく非難してくる人たちがいる[6]。
そういう人たちをあえて命名すると「中央銀行の独立性をとても重視する人たち」となる。彼らは中央銀行が政府に対して従属することを非常に恐れているので、「中央銀行が政府に従属することに対する恐怖症を煩っている人たち」とでも言うべきだろうか。
実際の日本には、日銀法第4条という法律が制定されていて、「日銀は政府の経済政策の基本方針に整合的な金融政策を実行する組織である」と規定されており、政府の影響をかなり強く受ける組織である。そういう法律があるにも関わらず、「中央銀行の独立性をとても重視する人たち」は、とても熱心に中央銀行の独立を主張する。
「中央銀行の独立性をとても重視する人たち」の原動力も、やはり商品貨幣論である。「不換銀行券は人々の共同幻想で通貨の地位を得ている」という商品貨幣論特有の考え方から、「人々の共同幻想を何が何でも維持せねばならない」と張り切っている。
「政府の意向があっても中央銀行が通貨を簡単に発行することができないという姿を見せておくと、通貨が金塊か何かのように見えるので、人々の共同幻想を維持できる」とか「政府の意向で中央銀行が通貨を簡単に発行する姿を見せてしまうと、通貨が紙切れか何かのように見えてしまい、人々の共同幻想が崩れる」といったように考えるようになる。
小学校低学年程度の子どもを持つ家庭は世の中に多く存在するが、その中には「サンタさんが実在する」という子どもの幻想を維持しようと懸命に努力を重ねる家庭がある。子どもの幻想を維持するため子どもに対して細心の注意を払っており、とても微笑ましい。
商品貨幣論の信奉者も、それと同じぐらい懸命に努力を重ねている。人々の共同幻想を維持するため人々に対して「政府は中央銀行に対して一切影響力を与えていない」と装うなど細心の注意を払っている。麻生太郎副総理兼財務大臣が国会で「これだけ大量に国債が発行されて、普通だったら、おっしゃるように信用がなくなったら金利が上がらなきゃおかしいですね。どうして下がるんですかね」とすっとぼける答弁をしているが[7]、これは典型的な例である。
小学校低学年程度の子どもの「サンタさんが実在する」という幻想を維持しようと努力する両親は、もちろん、サンタさんの存在を本気で信じているわけではない。サンタさんなどこの世にいないことを冷静に受け止めていることが多い。
民衆の「政府は中央銀行に対して一切影響力を与えていない」という幻想を維持しようと努力する人たちも、中央銀行の独立の重要性を本気で信じているわけではない。日銀法第4条によって日銀が政府の経済政策の基本方針に整合的な金融政策を行う組織になっていることを冷静に受け止めていることが多い。「中央銀行の独立性が大事だ」と力強く主張するのに「日銀法第4条を削除・改正して日銀の独立性を高めよう」と主張しない人が多く見られる。
商品貨幣論の信奉者は、中央銀行や政府による通貨発行権をあまりよく理解できない。政府が通貨発行権を利用して財政を組むことに対して強く拒絶する傾向にあり、均衡財政論(健全財政論)を支持する傾向にある。
均衡財政論とは、「政府は税収の範囲内に支出を抑制すべきだ」というものであり、代表的な論者はジェームズ・マギル・ブキャナン・ジュニアである。
均衡財政論からは租税財源説(税金は財源)という税制思想が生まれる。詳細は当該記事を参照のこと。
一般の家庭では家計簿を付けていて、収入と支出を均衡した状態や、収入の方が支出よりも多い黒字の状態を目指す。均衡財政論の支持者は「家計簿を作るときのように地方公共団体の財政や政府の財政を考えましょう」と提案することを好むのだが[8]、そうした姿を家計簿財政という。
商品貨幣論や、商品貨幣論の影響を受けて生まれる均衡財政は、長所を持っている。本項目でその長所を列挙していく。
商品貨幣論は「通貨とは、市場に参加する民間商人が様々な商品のなかから選び出したものである」という考えである。
そして、通貨は非常に便利なものであり、「経済の血液」と表現されるほど重要なものである。
ゆえに商品貨幣論の信奉者は、非常に便利な通貨を生み出す民間商人を神仏のごとく崇拝し、民間商人が集まる市場を寺院のごとく神聖視し、「市場の意向」を神仏の言葉であるかのように尊重する傾向がある。
商品貨幣論を信奉すると、「政府や中央銀行といった世俗の権力者よりも市場の方がずっと偉いのだ」という感覚を持つことになる。「経済政策を決める際には常に市場や格付け会社にどう評価されるか意識すべきだ」と論じ、「そんな政策では、市場から高い評価をいただけない」とひたすら弱腰になる。商品貨幣論を信じる者が政府や中央銀行の要職に就くと、市場に対して頭が上がらなくなり、ひたすら弱気になる。
商品貨幣論の信奉者が、理論でもって通貨発行権のことを否定するときは、次のような口上を述べることが多い。
通貨は、市場に信認される必要がある。政府の影響を強く受ける中央銀行に通貨発行権があると法律上定められているが、市場の信認を得られない量の通貨を発行すると通貨価値が暴落することになる。ゆえに、通貨発行権というのは、市場の信認を得られる範囲内に強く制限されている。
商品貨幣論の信奉者は、市場の信認という言い回しを非常に好む。「市場こそが国家の主権者である」というような調子で市場を尊重する傾向が強い。
宗教団体が「神仏の加護」を尊重するのと同じぐらいに、商品貨幣論の信奉者は「市場の信認」を尊重する。
1990年代の日本国政府は、近隣諸国の動向をひたすら気にしていて、近隣諸国の評価を得るための外交をしていた。そうした外交は土下座外交と呼ばれた[9]。
2012年から2020年まで続いた安倍晋三内閣は、市場や格付け会社の動向をひたすら気にしていて、「市場や格付け会社の評価を得るための財政政策をとるべきだ」と安倍晋三首相や麻生太郎副首相が国会で答弁していた(資料1、資料2
)。こうした財政政策を土下座財政と呼ぶことができる。
商品貨幣論を信じると、次第に土下座財政へ傾いていくことになる。
そもそもの話をいうと、「政策を発表した後の市場の反応」とか「政策を発表した後の市場からの評価」というのは単なる「インフォーマルな政治参加」に過ぎず、政府にとって従う義務はない。このことについて詳しくは参政権の記事を参照のこと。
商品貨幣論を信じる人が政府の要職に就くと、毎日のように「政府は市場に信認してもらわなければなりません」と平身低頭するので、民間商人の名誉が大いに高まり、民間商人の自尊心がしっかりと満たされる。
名誉権は日本国憲法第13条で保障される基本的人権であり[10]、まことに尊いものである。民間人の名誉をしっかり保障するのが商品貨幣論の長所である。
均衡財政を目指すようになると、政府支出を税収の範囲内にとどめる必要が出てくるので、政府支出を強く引き締めることになり、緊縮財政を導入することになる。
政府支出のなかには無駄で不効率なものがある。たとえば、生産性が低い土地で大規模な公共事業をすることであり、クマしかいないような土地に立派な高速道路を建設することである。または、生産性の低い老人に対して年金を支給して医療費や介護費を補助することである。
緊縮財政になれば無駄で不効率な政府支出を削減することになる。そうなると、生産性が低い土地に人が縛り付けられなくなり、生産性が高い土地へ人が移住していくことになる。老人を世話するという生産性の低い産業に人が縛り付けられなくなり、生産性が高い産業へ人が移動していくことになる。こうして、生産性の高い土地や産業への人口集中が進んでいく。このような効率至上主義を強く肯定するのが均衡財政の長所である。
ちなみに、生産力の低い土地に政府支出をして人を張り付かせる政策は人口空白地域の減少をもたらし、凶悪犯罪の証拠を捨てにくい状態を作り出し、凶悪犯罪の減少をもたらし、治安を向上させる効果がある。
また、生産力の低い老人に政府支出をして人を張り付かせて医療業界に資金を回す政策は、製作することが非常に難しい医療器具への需要を作り出し[11]、製造業の技術水準を底上げする効果がある。
効率至上主義を否定すると、治安が良くなったり製造業の技術水準が向上したりする。
均衡財政を目指すようになると、政府支出を税収の範囲内にとどめる必要が出てくるので、政府支出を強く引き締めることになり、緊縮財政を導入することになる。
緊縮財政を導入すると、生産性の低い土地への公共事業が減らされるので、生産性の低い土地から逃げ出す人が増え、人口空白地域が増える。そうなると凶悪犯罪者にとって凶悪犯罪の証拠品を捨てやすい状況になり、凶悪犯罪をしやすい状況になり、治安が一気に悪化する。
緊縮財政を導入すると、警察の人員と予算が減り、警察の治安能力が低下する。
緊縮財政を導入すると、行政各部の人員と予算が減り、悪行を規制する事が難しくなり、悪行を行う団体が跳梁跋扈する事態になる。例えば、文化庁宗務課は2022年10月の時点でたったの8人であり、その少ない人数で全国の18万の宗教団体を管理している(記事)。これだけ文化庁宗務課の人員が少ないのなら、霊感商法で暴れ回るカルト宗教団体が出現しやすくなり、人々の財産が危険にさらされやすくなり、治安が悪くなりやすい。
治安が悪くなることを心から望む人々は、世の中に一定の割合で存在する。
治安が悪くなると、人々の間で「自分や身内が犯罪に巻きこまれたときに備えて貯蓄しよう」という気分が強くなり、人々が活発に消費しなくなり、人々が消費を楽しむための賃上げを目指さなくなる。「遊ぶ気になれない」「職場にいた方が安全だ」という気分になり、薄給の長時間労働を受け入れるようになり、人が次第に「生産するだけのロボット」に変化していく。このため、従業員の人件費を抑制することを第一に考える企業経営者は、治安が悪くなることを大いに望む。
治安を悪化させて人々の消費意欲を打ち砕いて人々を「賃上げを目指さずに長時間労働をするだけの生産ロボット」に変化させて「従業員の人件費を抑制することを第一に考える企業経営者」を大喜びさせることが、均衡財政の長所である。
商品貨幣論の結晶の1つは金本位制である。
金本位制は、金塊と交換可能な兌換銀行券(兌換紙幣)を通貨にする制度である。金塊の量によって通貨発行の量が制限されるので、政府や中央銀行の通貨発行権が大きく制限されることになる。
19世紀には多くの国が金本位制を採用した。そのため金塊が事実上の世界通貨となり、各国通貨同士の交換が非常に簡単になり、その結果として自由貿易が盛んになり、グローバリズムが地球を覆うことになった。このときの19世紀から20世紀初頭までの金本位制によるグローバリズムを第一次グローバリズムと言うほどである[12]。
アメリカ合衆国の商人が木材を他所の国から買いたいと思ったとする。ドイツの木材には「○○マルク」という値が付いていて、日本の木材には「○○円」という値が付いている。そう言われるとすぐに価値が分からないのだが、すべての国が金本位制に加入していると、すぐに計算できる。「ドイツの木材は金塊~g分の値が付いていて、日本の木材には金塊~g分の値が付いているのか」とすぐ計算できる。このように、コンピュータが存在しない時代において金本位制は自由貿易を大きく手助けするものだった。
「自由貿易は繁栄と豊かさをもたらす」と主張する人にとって、商品貨幣論や金本位制は歓迎すべき理論と言えるだろう。
世の中には「自由貿易は治安の悪化や賃下げを生む」と主張する人もいる。
農林水産業を自由化して自由貿易の対象にすると、先進国の農林水産業が価格競争に敗れて壊滅し、農林水産業に頼っていた地域の人口が急減し、人口空白地域が増える。人口空白地域が増えると、凶悪犯罪者にとって凶悪犯罪の証拠を隠滅しやすい場所が増えるので、凶悪犯罪を実行しやすい状況になる。こうして治安が急激に悪化する。
工業を自由化して自由貿易の対象にすると、先進国の工業が価格競争にさらされることになる。そうなると、先進国の企業において経営者が従業員の賃下げを目指すようになり、経営者が従業員に対して「君たちは発展途上国の従業員よりもずっと高い給料をもらっているが、発展途上国の従業員と同じ働きしかしていない」というふうに痛烈に罵倒するようになる。このような罵倒が日常的に続けられ、従業員の自信が破壊され、従業員の賃下げが進められていく。自信を破壊された従業員は、自信を取り戻すために何かを攻撃するようになり、攻撃的な言動を好むようになり、世相が荒れていく。
世の中には「自由貿易はデフレ不況を生む」と主張する人もいる。
中野剛志が「1860~92年のヨーロッパは自由貿易体制にあり、特に1866~77年は貿易自由化のピークだった。しかしこの時代のヨーロッパは大不況の真っ最中だった。それと同じ時期のアメリカ合衆国は関税をしっかり掛ける保護貿易を採用していたが、その時期に経済発展を遂げた」「大陸ヨーロッパ諸国は1892~94年に景気回復したが、これは各国が保護主義化した時期と同じである。しかもこの時期の方が貿易を拡大させている。同じ時期のイギリスは相変わらず自由貿易体制だったが、不況に苦しんでいた」「戦後の日本が参加したGATTは、現在のWTO
よりもずっと各国の保護主義を認める内容である。戦後の日本は『緩やかな保護主義』の中で経済成長したのであり、自由貿易で経済発展したのではない」「戦後の日本の輸出依存度(GDPに占める輸出の割合)は一貫して20%を下回っており、10%を下回った時期もある。日本は貿易立国ではなく、内需大国である」と語っている。
※この項の資料・・・中野剛志『目からウロコが落ちる 奇跡の経済教室【基礎知識編】』の306~317ページ。同氏は、Paul Bairoch
の『Economics and World History:Myths and Paradoxes
』、Kevin H.O'Rourke
の『Tariffs and Growth in the Late 19th Century
』、David S.Jacks
の『New Results on the Tariff-Growth Paradox
』を参照している。
A銀行がBに融資するとき、A銀行は、Bと連名で証書を作ってBに対する金銭債権を確実に得てから、負債として銀行預金を発行してBに銀行預金を与える、という形式を採用している。これを信用創造(預金創造)という。
BがA銀行に対して「与えられた銀行預金を現金にしたい」と申し出た場合、A銀行は短期金融市場の銀行間取引市場のコール市場へ参加して日銀当座預金を他の銀行であるC銀行から借用し、借りてきた日銀当座預金を現金に換えて、その現金をBに渡している。A銀行にとって、Bに対する金銭債権の金利とC銀行に対する金銭債務の金利の差額が収入源となる。
BがA銀行に対して「与えられた銀行預金をD銀行の口座に振り込みたい」と申し出た場合、A銀行は短期金融市場の銀行間取引市場のコール市場へ参加して日銀当座預金を他の銀行であるC銀行から借用し、借りてきた日銀当座預金をD銀行に送金している。A銀行にとって、Bに対する金銭債権の金利とC銀行に対する金銭債務の金利の差額が収入源となる。
BがA銀行に対して「与えられた銀行預金をEに振り込みたい。EはA銀行に口座を持っている」と申し出た場合、A銀行はBの銀行預金を減らしてEの銀行預金を増やしている。A銀行にとって、Bに対する金銭債権の金利とEに対する金銭債務の金利の差額が収入源となる。
以上が、2021年現在における世界各国の市中銀行が行う融資の方法である。
ところが、この現実どおりに教育をしない人物がいる。N・グレゴリー・マンキューという経済学者で、彼の書いた教科書は世界中で採用されているのだが、その教科書の中の至る所に「銀行は、預金者から集めた現金を貸し出している」という記述が記載されている。この説明を又貸し説という。
N・グレゴリー・マンキューは聡明な人物である。様々な計算式を駆使して、時には微分積分を操り、難しい経済現象を平明に解き明かしている。そんな賢い彼が、なぜか現実を受け入れない。
N・グレゴリー・マンキューや、マンキュー教科書を採用する経済学者たちが、又貸し説を好むことの理由は謎に包まれている。経済学の七不思議の一つと言いたくなるほどである。
その理由をあえて挙げるならば、商品貨幣論とセットで紹介される「物々交換こそが経済の原型である」という思想を信じているから、となる。
「物々交換こそが経済の原型である」という思想に染まりすぎると、債権・債務の関係性を分析して経済の事象を説明しようとする気運がやや薄れてしまう。その結果として、債権・債務のことをあまり深く考えない又貸し説を好むようになる。
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この項目は、商品貨幣論の分析から少し離れています |
商品貨幣論と「物々交換こそが経済の原型である」という思想は非常に親和性が高い。
商品貨幣論が「物々交換こそが経済の原型である」という思想を作り出しているのか、あるいは逆に「物々交換こそが経済の原型である」という思想が商品貨幣論を作り出しているのか。これはどちらも否定しがたく、どちらの考えも有力である。
本項目では、商品貨幣論に関する理解を深めるため、「物々交換こそが経済の原型である」という思想について分析する。
「物々交換で成立している原始共同体」のことを貸借対照表で考えてみよう。「物々交換こそが経済の原型である」という思想を持つ人は、「物々交換で成立している原始共同体」というものが世界に実在すると主張している。
原始共同体の中で、弓を作るのが上手いAさんが弓を2つ持ち、サンダルを作るのが上手いBさんがサンダルを2足(2セット)持っていて、AさんとBさんが弓1つとサンダル1足を物々交換するとする。
弓を作るのが上手いAさんの貸借対照表は、物々交換を境として次のように変化する[13]。
物々交換前のAさん | 物々交換後のAさん | |||
資産の部 | 負債の部 | 資産の部 | 負債の部 | |
弓2つ | 弓1つ | |||
サンダル1足 |
サンダルを作るのが上手いBさんの貸借対照表は、物々交換を境として次のように変化する。
物々交換前のBさん | 物々交換後のBさん | |||
資産の部 | 負債の部 | 資産の部 | 負債の部 | |
サンダル2足 | サンダル1足 | |||
弓1つ |
このように、Aさんの貸借対照表もBさんの貸借対照表も、資産の部だけが変化していて、負債の部はずっと空白のままで変化しない。
物々交換は負債が発生しない取り引き、ということがわかる。「物々交換で成立する世界」というものは「負債を抱える人が存在しない世界」ということになるし、「すべての人の資産総額と純資産総額が同一の世界」ということになるし、「すべての人の自己資本比率が100%の世界」ということになる。
一方で、「借りパクで成立している原始共同体」を貸借対照表で考えてみよう。「借りパクで成立している原始共同体」というものは古今東西の各地で見られるものである。詳しくは信用貨幣論の記事を参照されたい。
原始共同体の中で、弓を作るのが上手いAさんが弓を2つ持ち、サンダルを作るのが上手いBさんがサンダルを2足(2セット)持っていて、AさんがBさんのサンダル1足を借りパクするとする。
弓を作るのが上手いAさんの貸借対照表は、借りパクを境として次のように変化する。
借りパクする前のAさん | 借りパクした後のAさん | |||
資産の部 | 負債の部 | 資産の部 | 負債の部 | |
弓2つ | 要求があったら弓2つを差し出す債務 | 弓2つ | 要求があったら弓2つを差し出す債務 | |
サンダル2足を要求できる債権 | サンダル1足 | 要求があったらサンダル1足を差し出す債務 | ||
サンダル1足を要求できる債権 |
サンダルを作るのが上手いBさんの貸借対照表は、借りパクを境として次のように変化する。
借りパクされる前のBさん | 借りパクされた後のBさん | |||
資産の部 | 負債の部 | 資産の部 | 負債の部 | |
サンダル2足 | 要求があったらサンダル2足を差し出す債務 | サンダル1足 | 要求があったらサンダル1足を差し出す債務 | |
弓2つを要求できる債権 | 弓2つを要求できる債権 | |||
サンダル1足を要求できる債権 |
このように、AさんもBさんも、資産の部と負債の部の両方が変化している。「借りパクで成立している原始共同体」は、全ての構成員が債権・債務と隣り合わせになって生きており、全ての構成員が頻繁に債権を主張したり債務を背負ったりする世界である。
「物々交換こそが経済の原型である」という思想は、「各人の所有する生産物が増えたり減ったりするだけの世界が、経済の原型である」と考えるものである。そうした世界では、人々が債権・債務と隣り合わせになっていない。
「物々交換こそが経済の原型である」という思想が強くなると、「負債を全く背負っていない状態が人間の本来の姿だ」という思想が生まれる。
「負債を全く背負っていない状態が人間の本来の姿だ」という思想を持っていると、「誰かによって負債を先天的に課せられているのは、とても異常なことで、とても悪いことだ」と考えるようになる。そして、税金や「政府・国家に対して貢献する義務」を強烈に批判する精神を生み出す。
税金や「政府・国家に対して貢献する義務」を強烈に批判する人たちのことをリバタリアン(リバタリアニズム信奉者)という。
以上をまとめると、「物々交換こそが経済の原型である」という思想は「先天的に課せられる負債」を否定できる思想であり、リバタリアニズムと非常に相性が良い、となる。
「物々交換こそが経済の原型である」という思想は、「各人の所有する物が増えたり減ったりするだけの世界が経済の原型である」と考えるものであり、「負債を全く抱えずに通貨などの資産を持っているだけの状態が人類にとって本来の姿だ」という思想をもたらす。
ここまでは前項と同じである。
「負債を全く抱えずに通貨などの資産を持っているだけの状態が人類にとって本来の姿だ」という思想は、「すべての人が『通貨を保有していて金銭負債を抱えていない人』である」という錯覚を生み出す。
企業は銀行から通貨を借りて機械を買って生産し、家計は銀行から通貨を借りて車を買って通勤するものであり、世の中には金銭負債を抱えている人が多いというのが現実だが、その現実に反して、「世の中には『通貨を保有していて金銭負債を抱えていない人』だけが存在している」という錯覚を持ちやすくなる。
インフレというのは通貨の価値が下がる現象であり、「通貨を保有していて金銭負債を抱えていない人」の財務状況が悪くなり、「通貨を保有しつつ金銭負債を抱えていて、保有通貨の額が金銭負債の額よりも多い人」の財務状況がやはり悪くなり、「通貨を保有しつつ金銭負債を抱えていて、保有通貨の額と金銭負債の額が等しい人」の財務状況が全く変化せず、「通貨を保有しつつ金銭負債を抱えていて、保有通貨の額よりも金銭負債の額が多い人」の財務状況が良くなる(詳しくはインフレーションの記事を参照のこと)。
ところが、「世の中には『通貨を保有していて金銭負債を抱えていない人』だけが存在している」という錯覚を持っていると、「インフレによってその通貨圏の中で暮らす全員の財務が悪化する。インフレは通貨圏に属する全員にとっての重大な損失である」という錯覚を引き起こし、インフレ恐怖症へ突き進んでいくことになる。
「インフレになると、一部の人が損をして、一部の人が損得無しで、一部の人が得をする。全員が損をするわけではない」と言って聞かせても、かたくなに「インフレは通貨圏に属する全員にとっての重大な損失である」と言い張るようになる。
「物々交換こそが経済の原型である」という思想は、「各人の所有する物が増えたり減ったりするだけの世界が経済の原型である」と考えるものであり、「負債を全く抱えずに通貨などの資産を持っているだけの状態が人類にとって本来の姿だ」という思想をもたらす。
ここまでは前々項と同じである。
世の中には負債を恐れる人たちがいる。「負債は身を滅ぼす」「ひとたび借金すると借金取りのヤクザが家にやってきて平和を破壊され、暴行・脅迫を伴った苛烈な取り立てに悩まされ、人身売買されて外国に売り飛ばされ、日本の地を二度と踏めなくなる」といった具合に、負債や借金を極度に恐れる人たちである。そういう人たちは負債恐怖症をわずらった人たちと言うことができる。
実際は、いくらヤクザであっても、暴行・脅迫を伴う借金取り立てをするのはなかなか難しい[14]。
現実はどうであれ、負債・借金を恐れる負債恐怖症の人は数多く存在する。そうした人たちにとって、「物々交換こそが経済の原型である」という思想は、危険きわまりない負債というものを根本から否定してくれる思想であり、とてもありがたいものである。
「物々交換こそが経済の原型である」という思想を持つ人は「物々交換で成立している原始共同体」というものの存在を強く支持する。
この「物々交換で成立している原始共同体」とは、構成員が個人として独立していて、構成員同士が相互の物権を尊重する社会である。
物権というのは財産権の1つである。財産権というものは物権と知的財産権と債権の3つに大別することができ、物権の代表は所有権である。
ちなみに、所有権を尊重する考えというものは近代以降のものである。17世紀の英国の思想家ジョン・ロックが所有権を尊重することを述べ、1789年フランス人権宣言の第17条で「所有権は神聖不可侵」としており、1804年ナポレオン民法典の第544条で所有権の絶対性を確立した[15]。このナポレオン民法典は民法の手本として世界各国に伝播していった。
「物々交換こそが経済の原型である」という思想を持つ人は、「人類は物権とともに生まれた」といった感覚を持っている。そのため「物権こそが経済を考える上での出発点なのだ」という信条を持ちやすい。
一方、21世紀の人類学者たちは「借りパクで成立している原始共同体」の存在を強く主張している。構成員が個人として独立しておらず、構成員が相互の物権を尊重しない社会が原始共同体の姿だったのだ、と語っている。それぞれの構成員は多くの債権を持ちつつ多くの債務を負っていて、構成員同士が債権・債務の関係で密接に結びついているのが原始共同体だったと論じている。
21世紀の人類学者たちのいうことをそのまま受容すると、「借りパクこそが経済の原型である」という思想を持つことになり、「人類は債権とともに生まれた」といった感覚を持つことになり、「債権こそが経済を考える上での出発点なのだ」という信条を持ちやすい。そして信用貨幣論や国定信用貨幣論のような「通貨というものは債権・債務の関係から生まれるのだ」という論理を支持するようになっていく。
「物々交換こそが経済の原型である」という思想は物権重視主義であり、「借りパクこそが経済の原型である」という思想は債権重視主義であって、両者は水と油のように正反対であることが分かる。
物権と債権は、同じ財産権であるが様々な点で対照的な性質を持っている。そのことについては債権の記事を参照のこと。
「物々交換こそが経済の原型である」という思想は、「人類は物権とともに生まれた」といった感覚をもたらし、物権重視主義を導くものである。
そして、ただ単に物権を重視するだけではなく、「会社を経営する際は、会社を所有する株主の意向を尊重するのが物権の絶対性の点からみても正しいことだ」という株主至上主義の思想を生み出していく。
株主至上主義は「従業員の給与を削減して株主への配当金を増やせ」という株主の要求を生み出しやすく、世の中の賃下げの気運を作り出す思想である。新自由主義(市場原理主義)が流行る国で株主至上主義の支持者が増える傾向がある。
以上をまとめると、「物々交換こそが経済の原型である」という思想は物権・所有権を重視する思想であり、株主至上主義や新自由主義と非常に相性が良い、となる。
「物々交換こそが経済の原型である」という思想は、「各人の所有する物が増えたり減ったりするだけの世界が経済の原型である」と考えるものであり、「負債を全く抱えない状態が人類にとって本来の姿だ」という思想をもたらす。
ここまではいつもと同じである。
企業が資金を調達する方法のなかの主要な方法は、大別すると3通りがある。1つは間接金融の銀行融資で、銀行から借り入れるものである。1つは直接金融の債券売却で、社債やCP(コマーシャルペーパー 短期社債)を発行して債券市場に売却し市場関係者から資金を集めるものである。そして最後の1つは直接金融の株式売却で、株式を発行して株式市場に売却し市場関係者から資金を集めるものである。
銀行借り入れと社債発行は、企業にとって、貸借対照表(バランスシート)の資産の部の数字と負債の部の数字が同時に増える現象である。資産の部には「銀行預金●円」と書いて、負債の部には「長期借入金◆円」などと書く[16]。仕訳するなら借方に「銀行預金●円(資産)」、貸方に「長期借入金◆円(負債)」などと書く。
一方で株式発行は、企業にとって、貸借対照表の資産の部の数字と純資産の部の数字が同時に増える現象である。資産の部には「銀行預金●円」と書いて、純資産の部には「資本金◆円」と書く。仕訳するなら借方に「銀行預金●円(資産)」、貸方に「資本金◆円(純資産)」と書く。
「物々交換こそが経済の原型である」という思想を持って「負債を全く抱えない状態が人類にとって本来の姿だ」という思想を抱えている人は、「企業にとって株式を発行して資金を調達することが本来の姿だ」という発想に至りやすい。
「物々交換こそが経済の原型である」という思想を持って「すべての人の自己資本比率が100%である状態が人類にとって本来の姿だ」という思想を抱えている人は、「企業にとって、株式を発行して資金を調達して自己資本比率を100%にまで引き上げることが本来の姿だ」という発想に至りやすい。
そして、「間接金融から直接金融に転換しよう」とか「貯蓄から投資へ」といった標語を掲げ[17]、株式を発行して資金を調達することを奨励するようになる。
間接金融にも長所があり、見直されるべきところがある。間接金融だと貸し手の銀行と借り手の企業の間で地域経済や周辺産業や為替レートや外国事情に関する情報の交換が濃密に行われ、企業の情報コストが安くなり、企業が情報を安価に入手できる[18]。間接金融だと、企業が銀行から資金と情報の両方を調達する状態になるので、企業の成長を促す環境が整備されやすい。
直接金融の「社債を発行して資金調達」は、社債保有者と企業の間で濃密な情報交換が行われる可能性が低い。直接金融の「株式を発行して資金調達」においても、株主と企業経営者の間で濃密な情報交換が行われる可能性があまり高くない。直接金融は、企業に情報を供給して企業を育てるという機能がやや弱い。
「物々交換こそが経済の原型である」という思想からセイの法則(セーの法則、販路法則)という経済理論が発生する、と論じられることがある(記事)。
セイの法則とは、フランスの経済学者ジャン=バティスト・セイが提唱したもので、「供給はそれ自体が需要を作り出す」と説明される考え方である。
ちなみに、経済学の大きな流れを大雑把に説明すると、「セイの法則はサプライサイド経済学を生みだし、サプライサイド経済学は新自由主義(市場原理主義)の源流の1つとなった」となる。
物々交換で成立する社会は、何かを生産してモノを所有することでようやく市場への参加が認められる社会であり、何かを生産することが需要・消費するための必須条件となる社会である。
供給・生産することで需要・消費の権利を得られる社会となり、「供給・生産する人こそが一人前だ」とか「働かざる者食うべからず」[19]とか「無料の昼食(フリーランチ)のようなものは存在しない」 [20] とか「フリーライダーを許さない」[21]といった思想が広がりやすい社会となる。
このため「物々交換こそが経済の原型である」という思想を持つと、「働かざる者食うべからず」「無料の昼食のようなものは存在しない」「フリーライダーを許さない」の思想を抱くことになりやすい。
政府や地方公共団体を広い目で見ると「需要・消費だけをする人」の集合体といえるし、政府の一部門である軍隊も需要・消費だけを激しく行う団体だし、年金暮らしの老人も「需要・消費だけをする人」である。世の中には「需要・消費だけをする人」が結構多い。
「働かざる者食うべからず」「無料の昼食のようなものは存在しない」「フリーライダーを許さない」の思想を強く持っていると、「需要・消費だけをする人」に対して悪感情をもつことになる。政府・地方公共団体・軍隊・年金暮らしの老人に対して軽蔑したり憎悪したり嘲笑したりするようになり、民尊官卑の心情を持つようになり、「老人は社会保障費を食い潰しており、不道徳な穀潰し(ごくつぶし)だ。老人の年金を削れ。年金の受給開始年齢を目一杯高めて老人を職場で働かせろ。それを達成するため老人から参政権を全て没収する必要がある」などという言動を繰り返すようになる。
「物々交換こそが経済の原型である」という思想は、「各人の所有する物が増えたり減ったりするだけの世界が経済の原型である」と考えるものであり、「負債を全く抱えない状態が人類にとって本来の姿だ」という思想をもたらす。
ここまではいつもと同じである。
「負債を全く抱えない状態が人類にとって本来の姿だ」という思想を持っていると、「消費者に対する負債を全く抱えない状態が企業にとって本来の姿だ」という思想を持つようになり、「消費者の厳しい要求がなくても、企業は自発的に発想し、自発的に決意を固め、自発的に技術を向上させる」という発想をするようになり、「消費者の厳しい要求」というものを軽視するようになる。
消費者というのは『ここが気に入らない』『もっと良い品質の製品を作れ』と企業に品質を厳しく要求することがあるが、そういう状態は、消費者が企業に対して高品質製品を要求する債権を行使している状態であり、企業が消費者に対して高品質製品を提供する負債を抱えている状態であって、消費者と企業が債権・債務の関係で結びついている状態である。
「負債を全く抱えない状態が人類にとって本来の姿だ」という思想を持っていると、「消費者の厳しい要求に悩まされない状態が企業にとって本来の姿だ」といった風に考えるようになる。
そして「負債を全く抱えない状態が人類にとって本来の姿だ」という思想を持っていて消費者の厳しい要求を軽視すると、「内需に対して国内企業が供給する」という形態も軽視するようになっていく。「内需に対して国内企業が供給する」という形態は、消費者が国境の壁や言語の壁や文化の壁に阻まれることがない形態であり、消費者の厳しい要求が企業に突きつけられる現象が最も発生しやすい形態だからである。
このため、「負債を全く抱えない状態が人類にとって本来の姿だ」という思想を持っていて消費者の厳しい要求を軽視すると、「内需に対して国内企業が供給する」という形態も軽視するようになり、それよりも大量の外需を獲得することを優先するようになり、TPPやRCEPやFTAといった関税撤廃型の貿易協定を好むようになる。
ちなみに「消費者の苛烈な要求により企業が製品の品質を向上させる」という考え方を持っていると、「『内需に対して国内企業が供給する』という形態は消費者の苛烈な要求が多く発生して企業が成長しやすい形態である」という発想を持つようになり、「内需こそが国内企業を厳しく鍛え上げる。内需は国内企業にとっての教師である」という価値観を持つようになり、関税を維持して「内需に対して国内企業が供給する」という形態を維持することを肯定するようになり、TPPやRCEPやFTAといった関税撤廃型の貿易協定を否定するようになる。
「物々交換こそが経済の原型である」という思想は、「各人の所有する物が増えたり減ったりするだけの世界が経済の原型である」と考えるものであり、「負債を全く抱えない状態が人類にとって本来の姿だ」という思想をもたらす。その思想を持っていると「消費者の厳しい要求により企業が製品の品質を向上させる」という考えを持たなくなり、「消費者の厳しい要求がなくても、企業は自発的に発想し、自発的に決意を固め、自発的に技術を向上させる」という考えを持つようになる。
ここまでは前項と同じである。
「消費者の厳しい要求により企業が製品の品質を向上させる」という考えを持っていると、インフレに対して好感情を持つようになる。特に、供給が一定であるのに対して国内の需要や消費が増加することで発生する内需主導型デマンド・プル・インフレーション[22]に対して好感情を持つようになる。「内需主導型デマンド・プル・インフレーションだと国内の需要・消費が豊富に存在するので、企業に対して激しい要求をする消費者の数も増え、企業が技術を向上させる流れになる」と考えるからである。「内需主導型デマンド・プル・インフレーションには通貨価値を下げるという困った点があるが、それを補うだけの長所もある」と考えるようになる。
一方で「消費者の厳しい要求がなくても、企業は自発的に発想し、自発的に決意を固め、自発的に技術を向上させる」という考えを持っていると、インフレーションに対して好感情を持つことが少なくなり、内需主導型デマンド・プル・インフレーションに対しても好感情を持つことが少なくなる。「内需主導型デマンド・プル・インフレーションだと国内の需要・消費が豊富に存在して、企業に対して激しい要求をする消費者の数も増えるが、それによって企業が技術を向上させるわけではない」と考えるからである。内需主導型デマンド・プル・インフレーションに対して好感情を持つことがなく、それどころか「内需主導型デマンド・プル・インフレーションは物資の欠乏を招き生産の邪魔になる」と考えるようになり、インフレ恐怖症がそのまま固定される。
「消費者の厳しい要求により企業が製品の品質を向上させる」という考えを持っていると、国内の需要とか消費に対して好感情を持つようになる。「国内の需要や消費の中に『企業に向けての苛烈な要求』が含まれており、そうした苛烈な要求が企業の努力を引き出し、企業の技術を高め、企業の製品の品質を向上させる」と考えるからである。
一方で「消費者の厳しい要求がなくても、企業は自発的に発想し、自発的に決意を固め、自発的に技術を向上させる」という考えを持っていると、国内の需要とか消費に対して好感情を抱くわけではない。それどころか「国内で需要や消費にうつつを抜かしている人は、要するに怠け者であり、供給・生産の手を抜いていてサボっているのであり、『働かざる者食うべからず』の格言に反しており、道徳的に堕落した存在である」と考える傾向があり、「国内の需要や消費が企業の生産を弱める」と考え、国内の需要や消費に対して嫌悪するようになる。需要恐怖症とか消費恐怖症というべき心理状態になっていく傾向がある。
「消費者の厳しい要求により企業が製品の品質を向上させる」という考えを持っていると、国内で需要とか消費だけをする人に対して好感情を抱くようになる。政府・地方公共団体・軍隊とか年金暮らしの老人に対しても「国内で需要とか消費だけをする人の中には企業に対して苛烈な要求をする人が一定の割合で存在する。そうした苛烈な要求が企業の努力を引き出し、企業の技術を高め、企業の製品の品質が向上する流れを作る」と考えるからである。
一方で「消費者の厳しい要求がなくても、企業は自発的に発想し、自発的に決意を固め、自発的に技術を向上させる」という考えを持っていると、国内で需要とか消費だけをする人に対して好感情を抱くわけではなく、それどころか嫌悪の感情を抱く傾向にある。政府・地方公共団体・軍隊とか年金暮らしの老人などに対して「あの連中は需要・消費にかまけており、『働かざる者食うべからず』の格言に反しており、怠け者であり、道徳的に堕落した存在である」と考えて軽蔑したり憎悪したり嘲笑したりする傾向がある。また、政府・地方公共団体・軍隊に対して「あの連中から人員を奪い取って生産に回せばもっと社会が豊かになる」と考える傾向がある。そして、政府・地方公共団体・軍隊・年金への予算を徹底的に削る緊縮財政を大いに支持し、さらには民尊官卑や無政府主義に近い感覚を持つようになる。
古くはアリストテレスが『政治学』で商品貨幣論を述べた。
17世紀になって、イギリスのジョン・ロックが商品貨幣論を提唱した。『統治二論
』という著作に商品貨幣論についての記述がある。さまざまな場所で「貨幣の価値は金属の価値によって決まる」「貴金属の量だけしか貨幣を発行できない」と論じた。ジョン・ロックの時代は重金主義(重商主義)
の全盛期で、「国家の国力は、所有する金属の量によって決まる」と多くの人に論じられていたが、ジョン・ロックもそのうちの一人であった。また、ジョン・ロックは銀貨を改鋳して銀貨の質を高める政策を提唱して、大規模なデフレ不況を引き起こしている。
18世紀イギリスにはアダム・スミスが登場し、『国富論
』で「原始社会は物々交換があり、そこから基軸となるべき商品が貨幣となっていった」と論じた。アダム・スミスの商品貨幣論は現在の経済学者たちによって引き継がれていくことになる。
日本の商品貨幣論(金属主義)の信奉者というと、新井白石とされる。当時、勘定奉行の荻原重秀
が貨幣の改鋳を行い、金貨の質を落としてインフレに導いていた。新井白石はこれに猛反発し、「金貨の質を落とすのは、国家の威信を落とす」と発言し、荻原重秀を追放して貨幣の再改鋳をして、金貨の質を高めている。貨幣の再改鋳をして2年後に徳川吉宗が将軍になり、新井白石は引退させられることになるが、徳川吉宗は新井白石の作った金銀をそのまま20年間継承した。徳川吉宗の時代は庶民がデフレ不況に苦しんだ。
江戸時代の小判のサイズや金塊含有量を表にしてまとめるとこうなる。
時期 | 名称 | サイズ(g) | おおよその金含有量(g) | 発行開始時の権力者 | 備考 |
1601~ | 慶長小判![]() |
17.76 | 14.97 | 徳川家康 | |
1695~ | 元禄小判![]() |
17.76 | 10.19 | 荻原重秀![]() |
インフレをもたらした |
1710~ | 宝永小判![]() |
9.33 | 7.86 | ||
1714~ | 享保小判![]() |
17.76 | 15.41 | 新井白石![]() |
1716年に徳川吉宗が継承、1736年まで発行 |
ジョン・ロックも新井白石も「貨幣の質を高めるべき」と言い、通貨価値を高めて、デフレ不況を引き起こしている[23]。
近年は暗号資産(暗号通貨、仮想通貨)が発達してきた。特に有名なものがビットコインである。
暗号資産は、マイニング(mining 採掘)という数値処理をするとその分だけ生成される。生成量が増えるほどマイニングがどんどん難しくなるので、あまり多く生成させることができない。希少性を重視している。
暗号資産は金塊に非常によく似た存在といえる。どちらも、新規創出をマイニング(mining 採掘)と表現するし、どちらも希少性が非常に高い。暗号資産のことをデジタルゴールドと呼ぶ人も多い。
暗号資産は「コンピュータゲームの中の希少アイテム」に似ている。どちらもコンピュータによって生成されるものであり、どちらも取得するのに時間がかかり、どちらも希少性が高い。
信用貨幣論の見地からすると、「暗号資産は通貨に該当しない」となる。信用貨幣論は「通貨は負債を表すデータである」と定義するのに対し、暗号資産は確かにデータなのだが、「誰かの負債」として発行されているのではない。
ビットコインなどは、国際会議でも、日本の法律でも、暗号資産(Crypto Assets)と呼ばれるようになってきた。
暗号資産は、商品貨幣論の見地からすると通貨になるかもしれない存在である。
暗号資産は金塊によく似た存在で、ネット上において多くの人に高値で売買されている商品である。商品貨幣論の支持者の一部にとっては、「新たなる通貨の到来だ」という印象を受けるだろう。
ただ、暗号資産というのは「非常に難しい計算問題の答え」といった程度の存在なので、全く価値を感じない人の方が圧倒的に多い。商品貨幣論は「通貨は、市場に参加する全員に欲しがられる商品である」というものである。商品貨幣論の見地からも、通貨に該当しなさそうである。
暗号資産は、国定信用貨幣論の見地からすると、政府がその気になれば通貨にすることができる存在である。
国定信用貨幣論は、「政府が徴税すれば、その対象物が自動的に通貨になる」という考え方である。
ただ、暗号資産は、希少性が極端に高く、政府ですら簡単に生成させることができない。政府にとって、暗号資産を通貨にしているようでは通貨発行益を得られず、財政を好転させることができない。それゆえ、わざわざ暗号資産を通貨に採用する政府は極めて少ないと思われる。
2021年6月8日にエルサルバドルがビットコインを法定通貨に採用したが、それに続く国は2021年10月の時点でまだ出現していない。エルサルバドルは、自国通貨があまり定着せず米ドルを通貨に採用している国である。
暗号資産は、信用貨幣論との親和性が全くない。
暗号資産は、商品貨幣論との親和性が、ちょっとだけある。
暗号資産は、国定信用貨幣論との親和性が、ほとんどない。
掲示板
315 ななしのよっしん
2023/07/25(火) 22:45:16 ID: 20umBGeRRu
そもそも商品貨幣論は近代以降の資本主義とか貨幣経済を説明するための枠組みなのであって、「貨幣が物々交換から発展して生まれたという商品貨幣論」という理解はお門違いも甚だしい
物々交換から生まれたのは値札であって貨幣じゃない
316 ななしのよっしん
2023/07/26(水) 08:05:50 ID: FpQxoRjn96
貨幣も含むあらゆるものには歴史的背景があるという事実を無視するんならそう考えてもいいんじゃない?
歴史的史料などに基づいて考えると貨幣の本質は(特殊な)負債であり、そう考えると商品貨幣論の根底にある貨幣の捉え方が間違ってるから理論自体に問題がある、という主張にはそこまで無理があるようには見えないが
あくまでも理論枠組みだから歴史なんて知らねーと思うのは自由だし悪いとも言わないけど、一般的に論理的思考において、前提条件が変わったらそれ以降の論理展開も変わるものじゃない?とは思う
317 ななしのよっしん
2023/07/26(水) 21:43:41 ID: 20umBGeRRu
>>一般的に論理的思考において、前提条件が変わったらそれ以降の論理展開も変わるものじゃない?とは思う
変わるからこそ資本主義草創期以前に三井越後屋式の「現金安売掛け値なし」(定価販売)が成立しなかったって話なんだよなあ
「歴史的史料などに基づいて考えると」っていう文句がお気に入りみたいだが、それはその歴史的前提とか必要条件を無視するための言い訳じゃない
史料に何が残っていないかも考えずに史料を語るなよ
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最終更新:2023/12/01(金) 10:00
最終更新:2023/12/01(金) 10:00
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