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1 ななしのよっしん
2009/03/28(土) 04:44:04 ID: CNLAhbQpAd
後に関が原の戦いの布陣図を見た西欧の軍人さんが「これは西軍の勝ちだろう、常考」と言ったという逸話も有ったり無かったり。それくらい(西軍の構想通りなら)負けようの無い有利な戦いだったらしい。
根回しや謀略への対策があまり成されていなかった事が豊臣方の敗因として一番大きいのかも。
2
2009/05/08(金) 13:48:36 ID: ydJvLoy5L6
明治政府が陸軍の学校教官に雇ったクレメンス=メッケルですね。
3 ななしのよっしん
2009/06/16(火) 03:02:46 ID: ePG0CvG1wX
石田三成の西軍という見方が有名ではあるが、
一応形式上毛利輝元が西軍主将。大坂守備。
副将が宇喜多秀家。つまり戦場では秀家が一番偉い。
兵力も秀家が一番西軍で多いし、配置も秀家が中央。
しかし大勢に狙われまくったのは個人的恨みを買っていた石田三成。
4 ななしのよっしん
2009/06/29(月) 06:42:00 ID: c+1iFIJ8dr
徳川正規軍が忠勝・直政以外いなかったのはここで負けた時に備えてのもの、と聞いた事がある
まぁ、結局秀忠は真田に足止めされただけで終わったんだが・・・
5 ななしのよっしん
2010/04/03(土) 00:04:59 ID: Ko5H0O6Xq/
何気に鉄砲の動員数が凄まじかった合戦。
とある関ヶ原の絵は、鉄砲隊だらけであった。
関ヶ原の戦いといっても、関ヶ原現地だけでなく、伏見城や岐阜城、抗瀬川等の前哨戦、上田城、大津城、長谷堂城、浅井畷、四国における河野家再興悲願グループの戦い、九鬼親子の戦い(鳥羽城)、九州における加藤清正や黒田如水vs大友家再興グループ等、各地で様々な合戦が行われている。
まさに世紀末!!
6 ななしのよっしん
2010/05/04(火) 21:38:04 ID: jiN1/g+uF2
関連動画のコメで「西軍贔屓はにわか」とか「最近はなんでも西軍贔屓しすぎ」とか「小早川、島津叩きは無知」みたいなのをよく見かけるけど、西軍贔屓に関して言えば滅びの美学を好む傾向の強い日本人には当然の反応なんだけどな。
「判官贔屓」って言葉が出来てるくらいなんだし。
あとここに限った話じゃないけど、自分と違う意見をなんでもかんでも「馬鹿」だの「キチガイ」だの「在日」って言って一蹴するのはいかがなものかと・・・
7 ななしのよっしん
2010/05/05(水) 12:34:34 ID: Ko5H0O6Xq/
それがしは西軍も東軍も好きじゃぞ!!
勝敗は時の運。
地の利だけでなく野戦築城まで施して、あそこまで家康を追い詰めた西軍は凄いし、それでもやっぱり勝ってしまう家康率いる東軍も凄い。
秀秋も島津も、家を守るために必死に戦ったわけで、それが因果となって今の日本ができている!関ヶ原は大河ドラマ等として娯楽にもなっている!
東西両方賞賛すれば、片方ずつの賞賛よりも、互いの威厳も高くなろうYO
8 連続スマン
2010/05/19(水) 20:47:06 ID: Ko5H0O6Xq/
そういえば、この合戦が描かれた屏風は異常なほど多い。
定番とも言えるいつもの彦根の屏風から、自刃している武将が描かれて西軍の陣が炎上してるっぽいもの(併せて両翼)、鉄砲隊が割とたくさん描かれているもの(徳川美術館蔵?)、南宮山周辺メインのもの、抗瀬川が描かれたもの(定番の屏風の片割れ?)まである。
昔からいろいろとロマンだったんだな
9 ななしのよっしん
2010/06/18(金) 01:11:36 ID: rGSfj3VNJE
ぶっちゃけ石田三成が嫌いだから加藤清正と福島正則は東軍についたんだっけ?清正はどっちかというと小西が嫌いだったらしいけど。
こないだ見た本では三成がたった19万石ごときのクセに250万石に挑むなんて馬鹿じゃね?見たいな書き方をされていたんだよなぁ。三成のいいところなんて一つも書いてない全体的に三成アンチみたいな本だったから仕方ないんだが(大谷と親友であったことはあるのに経緯をハブとか)。
西軍、東軍どっちも正しくどっちも間違えているからこそ奥が深いんだと思うけどね。
やっぱ世界史日本史全てを含めてやっぱり戦国時代が一番面白いわ。
10 ななしのよっしん
2010/07/09(金) 12:28:17 ID: OE2/P057Kq
西軍、特に三成と宇喜多秀家の豊臣への忠義は称えられてしかるべきだと思う。
と同時に数十年間待ちに待って天下を得た家康の苦労も察するべきである。
関ヶ原合戦は両軍ともに大義名分がある戦であるから、いたずらに善悪を決めるべきではない。
また、薩摩島津への非難は的外れと言わざるをえない。
当時お家を護ることがいかに重要であったかを鑑みるなら、島津傍観を責められようはずもない。
11 ななしのよっしん
2010/07/11(日) 15:10:01 ID: 0ZubQS32hV
>>9
シバリョウの関が原読めばものすごく美化された
光成が見れるぞ
泣ける
12 ななしのよっしん
2010/09/14(火) 22:35:29 ID: m85Z6zOUir
>>8
やっぱり、時代の変わり目の象徴になるような劇的な決戦ってのは、後世の人には魅力的に観えるもんだよな
13 ななしのよっしん
2010/09/19(日) 11:56:32 ID: ET8g21QeQo
関ヶ原って島津義弘とか大谷吉継みたいな敗軍の将の方が熱いエピソードが多い気がする
14 ななしのよっしん
2010/10/08(金) 19:39:33 ID: 868N4T0FY5
>>8
その、武将が自刃して西軍の陣が炎上している屏風(福島家ゆかりの津軽本)、実は4隻あるらしい…
現在は第2隻と第4隻しか残っていなくて、残りの2隻は行方不明とのこと。これは滅茶苦茶気になるwww残りの2隻には何が書かれていたのか?
ちなみに、現存の屏風2隻はそれぞれ別のセットだから、両翼では無いのです…
そして、岐阜市にある関ヶ原合戦図屏風と、姉川合戦図屏風に注目!
何気にトレース疑惑がwww
実は徳川家康が全く同じポーズ(床机に腰掛けて采配を右手に持っており、采配のフサフサが後向き)をとっていて、鎧兜も異常に酷似している…私が買った本にも突っ込まれててワロタww
15 ななしのよっしん
2010/10/08(金) 19:45:01 ID: 868N4T0FY5
※姉川の屏風は福井県立歴史博物館です。
書き方がまずかったねぇor2
あと、屏風としての機能(風を屏ぐこと)を果たす意味では、両翼という表現は間違っていなかったかも…スマソ
16 ななしのよっしん
2010/10/21(木) 20:55:21 ID: gNfSJPG0jm
410年前の今日か・・・
17 ななしのよっしん
2010/10/21(木) 21:36:57 ID: yU8YJj7h2L
西軍が勝っていたらその後の日本史はどうなっていたのだろう…
そういえば東西冷戦は西側が勝ちましたな
18 ななしのよっしん
2010/10/21(木) 22:16:19 ID: wwM1AKDYXO
西軍が仮に関ヶ原で勝っても、家康が健在なら最終的には東軍が勝つと思う。
西軍には家康以上の政治家がいないから。
19 ななしのよっしん
2010/11/24(水) 13:18:18 ID: pMJKN1jYhm
西軍が勝ってたら、近畿を抑えてた西軍と立て直した東軍が再激突かな、家康が討ち取られてない事前提だが。
その時期だと東北で上杉と伊達・最上が交戦中で、九州で官兵衛さんが暴れまくってた時だから、群雄割拠に戻る可能性が大だな。
20 ななしのよっしん
2011/01/01(土) 16:40:47 ID: wyAz3nlEI3
西軍の総大将は毛利輝元なのになぜか歴史の授業では石田三成って教えられるよね
輝元かわいそう
21 ななしのよっしん
2011/02/21(月) 23:30:20 ID: X5v4P848Qu
>>6
差別用語つかうのはただのアホだとしても
BASARAとか無双2とかのころは西軍好きじゃなく
ゲームの中のイケメンツンデレ三成が好きなだけのやついたからな
今は随分落ち着いたもんだ
そういうのへの過剰防衛とかあってカオスだったな
>>20
大阪城のお留守番を教科書に載せろとww?
22 ななしのよっしん
2011/03/08(火) 05:03:27 ID: jiN1/g+uF2
野戦築城があるとは言え西軍はよく戦線を支え切れたよね、実際まともに戦ったのは石田・小西・宇喜多・大谷隊ぐらいなのに。
特に三成は3倍以上の敵相手にしてたのがすごい。
23 ななしのよっしん
2011/03/15(火) 23:53:44 ID: ytX3iU98EZ
>>20
というか徳川家と豊臣家の戦いと教えられたからそっちの方がひどいと思うな。どっちも豊臣家ご奉公が建前なのに・・・
>>22
地形的に兵力に差が出にくい上に鶴翼の反包囲陣形で前線の兵力では西軍有利。
むしろ魚鱗陣形の楔の先端で倍近い宇喜多勢と戦った福島正則がいちばん頑張ってた気がする。
24 ななしのよっしん
2011/05/04(水) 23:10:11 ID: jiN1/g+uF2
西軍の動きが作戦通り「輝元(あるいは秀頼も)の美濃表への出陣・大津城・田辺城の早期陥落と宗茂たちの関ヶ原到着・もちろん毛利一族の裏切り無し」だったら日本史上稀にみる大会戦になってたかもしれないよね。
25 ななしのよっしん
2011/06/25(土) 17:50:21 ID: 6cbZQJcvjP
当時の西日本は戦乱で荒廃して、大きな戦争を起こせる状態じゃなかった
兵を集めりゃ何とかなると考えてたなら、三成空気嫁としか言いようが無い
26 ななしのよっしん
2011/07/20(水) 22:23:34 ID: /MO6SSK9He
>>1
布陣だけ見ればあれだけど、西軍は巻き込まれの参加が多すぎて実際期待できる戦力が少なかったっていうねw
で、無理やり戦力に組み込んでた仇が小早川みたいな形で降り注いできたと
>>10
宇喜多秀家さんは秀吉の養子だから当然だな
まあ、小早川秀秋さんも秀吉の養子だった訳だがw
>>23
関が原は豊臣国の与党(徳川)対野党連合(それ以外)の争いだからな
司馬さんのせいなのか何なのか今では逆賊徳川を討つ正義の豊臣軍みたいな受け取られ方してるけど
27 ななしのよっしん
2011/09/02(金) 23:12:25 ID: 4t6zpZ9ThO
うーん豊臣恩顧の大名の東軍加担が御家存続だけじゃなく
三成さん憎いという私情であったりすりゃ気持ちよかろう筈もないか
本来であれば豊臣家の為に私情を捨て、憎い相手とも手を結ぶくらいの器量があれば良かったんだろうが
残念なことにそういう大名はいなかったというのが西軍贔屓の一因かもしれないなぁ
28 ななしのよっしん
2011/11/04(金) 22:09:44 ID: ad4Y4gpz/l
一番大きいのは、
・秀頼が関白になれるか
・家康が将軍になれるか
29 ななしのよっしん
2011/11/05(土) 11:01:07 ID: oGzYp4zPI4
関ヶ原のとんでもなさはあんな狭い戦場にアレだけの大軍が集結してしまったことでもあるんだけど、あまり大きく記述されていないなぁ。
おまけに其々の軍勢とも予想外だったっていうのがね…。
「『戦国の城:美濃松尾山城』中井均(歴史群像No.105)を読んで 「秀元様、なんか関ヶ原で合戦になったみたいですが」「は? なんで? 大垣は?」」
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に書いてあるけど、戦国末期の武将と兵はパネェ連中ぞろいですね…。
30 kurukuru
2011/11/05(土) 11:30:07 ID: XQWriBIYyQ
石田三成のビジョンが完全に提示されていなかったのも敗因の一つかもしれん
東軍勝利の結果は結果論かもしれないが、西軍が勝ったとしたらどうなっていたか、俺には想像できない
秀吉政権自体が未熟かつ末期の状態で外に出て行ったせいで、組織のシステムが出来上がっていなかったのだから、西軍の敗北はある意味秀吉のせいでもある
ほめた!
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