概要
真面目に言うとウィリアムズ所属のF1ドライバーである。フルネームはフェリペ・マッサ(Felipe Massa)。1981年4月25日生まれ、ブラジル・サンパウロ出身。チームメイトは2017年ルーキーのランス・ストロール。
通算勝利11勝('16終了時点)。得意なものはポールトゥウィンと左回りサーキット(イスタンブールやインテルラゴスなど)。11勝中8勝がポールトゥウィン、5勝が左回りサーキットである。トルコマイスターの称号を得ている。苦手なものは雨。
経歴
2002年に弱冠20歳でザウバーからF1デビュー。2003年はフェラーリのテストドライバーを務めたが、2004年ザウバーからレース復帰。2005年までに最高位4位のリザルトを残す。
2006年フェラーリに移籍し、ミハエル・シューマッハのチームメイトとなる。序盤数戦はスピンを繰り返し未熟さを露呈したが、ヨーロッパGPで初表彰台を経験すると一気に成績を上げ、トルコGPで初優勝。最終戦ブラジルGPではフェラーリ初年度にして母国初優勝を遂げた。
2007年からはチームメイトがキミ・ライコネンに変わる。ヨーロッパGPでは終盤アロンソに抜かれ2位。レース後、アロンソとイタリア語で口論しているシーンが全世界に中継された。トルコGPはもちろんポールトゥウィン。また同年日本GPでは雨の中ファイナルラップでクビサと熾烈な6位争いを演じた。最終戦ブラジルGPではトップを快走していたが、チャンピオンの可能性を僅かに残すライコネンがピットインした直後にわざとらしいブレーキングミスを犯し、ライコネンの大逆転チャンピオン獲得を見事アシストした。
2008年は開幕から2戦連続スピンでリタイアし、世界中から猛バッシングされたが、その後は調子を取り戻し、不調のライコネンを差し置いてハミルトンとのチャンピオン争いを展開。シーズン最多となる6勝を挙げたものの、序盤のリタイア、ハンガリーGPでのトップ走行中のエンジントラブル、シンガポールGPでの給油ミスなどがひびき、最終戦ブラジルGPでハットトリックは達成するが1ポイント差でワールドチャンピオンを逃した。
2009年以降は怪我や不調が続いて勝利から遠のいており、2013年オーストラリアGPを以てフェラーリ史上最も連続で勝てなかったドライバーとなるなど今後の進退が注目されている。そしてついに2013年限りでフェラーリ放出が決まり、2014年からはウィリアムズでドライブすることになった。
ウィリアムズ移籍でナンバー1待遇になるかと思いきや、ルーキードライバーのバルテリ・ボッタスにドライバーズポイント、表彰台獲得回数で負け、早くもセカンド扱いとなってしまった。
2016年シーズンを以てF1引退を決め、引退セレモニーも母国ブラジルGPで盛大に行われた。
が、ニコ・ロズベルグの引退によってチームメイトのバルテリ・ボッタスがメルセデスへの移籍に動いたことで、ウィリアムズは引退撤回と2017年シーズンも参戦をオファーした。
当初はフォーミュラEの参戦を決めていたが、チームからの要請に応え、2017年シーズンも走ることとなった。
2008年ブラジルGP
2008年最終戦。マッサは優勝しても、ハミルトンが6位以下でなければ、マッサのワールドチャンピオンはないという状況だった。マッサが1位、ハミルトンが4位で迎えた終盤、急に振り出した雨により、マッサやハミルトンもふくめ各車はピットインしウェットタイヤにかえたが、7位走行中だったグロックはタイヤを換えずにそのまま留まった。
その結果、グロックが4位に浮上し、ハミルトンは5位に転落。さらに、6位走行中だったベッテルに抜かれ、ハミルトンは6位転落。この時点でマッサはトップでチェッカーフラッグを受け、マッサのチャンピオン獲得と思われたが、ドライタイヤで走行を続けていたグロックが失速、最終コーナーでグロックがハミルトンにかわされたことによりハミルトンの5位が確定。マッサはワールドチャンピオンを1ポイント差で逃すこととなった。
2009年ハンガリーGP
ハンガリーGPのQ2でマッサが走行中、バリチェロのマシンから脱落したサスペンションのバネが飛来し、マッサの頭を直撃。頭蓋骨の骨折という生死にかかわる重傷を負った。2009年中のレース復帰は厳しいとされ、残りのレースの代役を誰にするのか注目されていたが、一度はミハエル・シューマッハが選出された。
しかしシューマッハはバイクレースでの事故が祟り(首を痛めていた)復帰を断念、同チームのテストドライバーであるルカ・バドエルがヨーロッパGP・ベルギーGPと代役を務めた。しかしブランクの長かった(その前に決勝を走ったのは1999年)バドエルは2戦でお役御免となってしまう。イタリアGPからはジャンカルロ・フィジケラがフォース・インディアから移籍することになった(余談だが、フィジケラはバドエルの後任として2010年のテストドライバーの契約をフェラーリと結んだ)。
なお、現在F1で使用されている2004年世界モータースポーツ評議会で承認されたヘルメットでなければ、重症化、もしくは死亡していたのかもしれない。F1の安全性を向上させる取組みが実ったともいえる。
2010年ドイツGP
ドイツGPまでに、マッサはチャンピオン争いの可能性が残るアロンソに対してポイントで大きく後れを取っていた。ドイツGPはトップがマッサ、2位がアロンソでレースが進行していた。アロンソのほうがペースが速かったが、オーバーテイクできるような速度差はない。そんな膠着状態が続いていたレース後半、マッサに無線が飛ぶ。「FERNANDO IS FASTER THAN YOU --can you confirm you understood that message?」("フェルナンド(アロンソ)は君より速い" ―この言葉の意味がわかるか?)
47周目、マッサはヘアピンの立ち上がりで誰がどう見ても不自然にペースを落とし、アロンソを先行させた。
FIAはレース後にフェラーリに対しチームオーダー禁止ルールを違反したとして10万ドルの罰金を科した。F1はチームスポーツであるべきとの立場をとるフェラーリは以前からチームオーダーに肯定的であり、チームオーダー禁止ルールを何かにつけて批判していた(フェラーリのモンテゼーモロ社長いわく、「あんなものは偽善だ」)。この一件を機に、チームオーダーの是非について議論がなされ、ついに2011年からチームオーダーが解禁されることとなった。
2010年からアロンソとコンビを組んでおり、当初から2度のチャンピオン経験のあるアロンソに対してセカンドドライバーとの見方をしていたが、本人・チーム共にそれを否定していた。
だが、この事件によってセカンドドライバーである事が確定してしまった。
結果論になるが、このチームオーダーが最終戦でのアロンソのチャンピオン争いを大きく有利にした(アロンソは結局チャンピオンを逃したが。)。
エピソード
- 2006年から2008年まで3連勝しているトルコGPだが、2005年の初開催時にも予選終了後に、「レースでは既に優勝しているんだ!プレイステーションのF1 05での勝利だけどね。ザウバーC24を駆って最も難しい設定で全ドライバーを相手に勝利したんだ!」と、ゲームでの優勝の喜びを表すコメントを出していた(実際のレースではリタイア)。
- 2008年マレーシアGPで2番手走行中に単独スピンしリタイア。川井ちゃんに「マッサはマッサ」と言われてしまう。
- レース終了後の記者会見では個人のスポンサーである時計会社の宣伝のために腕時計をチラリと見せる活動を行っているが、その技術は歴代のF1ドライバーの中でもNo.1ではないかと言われている。
- 2008年中国GPでは師匠のミハエル・シューマッハから中国の飲み物には手を出すなときつく言われていて、レース後の記者会見ではオフィシャルの用意した飲み物には手を出さず、持参したレッドブルをグビグビと飲んでいた(アル中で知られるキミ・ライコネンもオフィシャルの用意した飲み物を飲まなかった)
- ゲン担ぎに予選から決勝まで1枚のパンツを履き続けていることや、2007年に結婚したフィアンセと予選終了後に毎回セックスをしていることなどをインタビューで公言している。
- 2011年から2012年にかけて、約2年もの間表彰台すらない時期が続き、何度も解雇の危機と報道された。2012年終盤の日本GPで2位、母国ブラジルGPで3位と復調した。ブラジルの表彰台では涙を流し、後に「多くの批判を浴びて引退が頭をよぎっていた。だけど今日はこれまでやってきたように過ごそうとした。表彰台の後ろではいつもと同じだった。ベッテルを祝福し、その瞬間を楽しんでいた。でも、僕の名前を叫んでくれているスタンドのみんな、僕の妻や家族、友人、僕のメカニック、チームが見えて…涙が溢れだした」との泣けるコメントを残した。
- 2016年のブラジルGPでは、引退を発表していた彼への敬意として、メインスポンサーのマルティーニのロゴに「MASSA」と記され、リアウィングに「Obrigado」(ありがとう)と書かれたマシンが与えられた。
しかし、シーズンオフに引退を撤回し、感動が台無しになったのは彼らしいか。
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関連項目
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