偽善(ぎぜん)とは、偽りの善のこと。善では無いことを善と騙すこと。上辺だけ良いことだと見せかけること。善人だと思われようとすることなどを意味する単語である。
概要
偽善の原義は善ではないものを善であると偽ること。
中国語由来の日本語で現在の中国語では「伪善」などとも表記される。
偽善の多くは、実際の善と対する言葉として利用され、善行為の中でも実際は善では無いとされるものが偽善と呼ばれやすい。
偽善とされやすいもの
善人の振りをして自分の好感度を上げる
本当は善行など行う気がないのに、自分が良い人だと思われようとしてその素振りをすること。
特に、自分の身の回りの人の前だけそういった行動をすること。
周りに自分の知り合いがいない場合は真逆の行動を取る人など。
善行をしたとして報酬を求める
報酬のために善行為と思われるようなことをすること。報酬が無い場合はそれをしない。
善行の対象にお礼を求めるなら「恩着せがましい」ということにもなる。例えば、16世紀のヨーロッパで起きたプロテスタントの宗教改革は、カトリックの免罪符発行による偽善行為を、マルティン・ルターらが糾弾したのが始まりとされている。
収入・生活のための行為
慈善活動そのものがその人の収入に繋がっている場合。寄付団体者がその寄付から収入を得ているなどすると偽善とされやすい。慈善活動に精を出すかわりに生活上必要な額を受けとる程度なら偽善ではないとする人がいる一方、すべての金銭的利益は論外だとする人もおり、慈善活動家でも意見の割れるところである。
善行を広告に使う
善行そのものはともあれ、周囲に行う、おこなった善行をひろく強調しようとするもの。おおまかにいえば自分の善行が認められたいという心理によるものと、単純に利益を伴なう宣伝の二種があり、おおよそ後者のほうが嫌われるが、慈善団体では多くの援助を集めるためにそうした手段をとるところもある。
「24時間テレビ」のようなテレビ局の大々的なチャリティー番組などが非難の対象とされやすい。非難は往々にして、「本物は虚飾を嫌う」という価値観に裏付けされている。
ありがた迷惑
本人が善行をしているつもりであろうがなかろうが、それらに実質的な価値がない場合。たとえば、ハイチ大地震被災者に千羽鶴を折ろうというmixi内で呼びかけられた企画は、折り紙など被災者には意味がない偽善だと責める猛烈な反発に見舞われて頓挫した。
最近では東北地方太平洋沖地震に関連し、ニコニコ動画、Twitter、mixi、Pixivなどにおいて有志による被災者応援運動の気炎が広がったが、慈善的行為に喝采をおくる一方で、被災者にとってはまったく意味のない自己満足である、便乗して売名行為をする人間がいる、などの批判の声もあがった。
本人が善行と思っていても、相手にとってそうではない場合。とくに自己を優位なものとみなし、暗に相手を見下している場合。歴史をたどるなら近代の欧米には「白人の責務」という概念が存在したことがあり、白人は他人種よりも優れている分、彼らに文明をあたえて進歩へ導く責務があると考えられた。これは現代人からは偽善とされやすい。
自分の周囲しか興味を持たない
普段は遠くの不幸に無関心であるのに、身近で不幸があると善を積もうとする場合など。例えば、海外で災害がおこっても無関心なのに、国内で災害がおこると思い出したように善行をなそうとする人に対して「身近なことにだけ善意を向けるなんて虫が良すぎる」という批判。
これに関してマザー・テレサは「愛はまず手近なところから始まります」と述べ、身近な人を助けずに遠くの人を助ける行為を偽善とよび、善行とは自分の周囲から拡がっていくべきものだとしている。
強迫・強制的な善行
なんらかの理由で善行に急かされている人の場合。とくに背徳感からくる善行は創作作家に好んで題材にされるが、実際の例としてはアルフレッド・ノーベルがよく挙げられる。ダイナマイトの発明者ノーベルは、それによって多くの人間が殺傷されたことに強い背徳感を感じ、平和賞を含むノーベル賞の設立を遺言に残したと言われる。この場合は純粋な善心からではなく、強迫的な責務感に突き動かされたものといえるかもしれない。
その他にアメリカにおいては資産家でありながら相応額の寄付をおこなわない場合、慈善団体から非難声明を出されることもあり、世間の心象も悪くなりがちになる。それを回避するために、資産家たちは取り繕いの寄付や募金活動をおこなっているともされるが、だとすれば半ば強制された善行といえる。
偽善の賛否
宗教における偽善の位置付け
仏教において偽善に当たるものは「三輪空」で戒められる。これは布施を行う場合、この私が、あの人に、あれほどのことをしたんだぞ、というようなことを考えるなという意味である。キリスト教においても、新約聖書に「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい」という下りがある[1]。
やらない善よりやる偽善[2]
たとえその善行の本質がどうあっても、善行を受ける相手に確かな恩恵がある場合、何もしないよりマシだという理論。自身が何もせずにただ偽善と責め立てる人への反論であり、自身の行いが偽善ではないかと思っている人への励ましの言葉。また、偽善者の言い訳であると同時に自己欺瞞の言葉。
偽善を叩く偽善
偽善を責めるということは、その時々の偽善の基準にもよるが、しばしばその言論自体が「偽善」に当てはまるというジレンマをもつ。偽善をしないという倫理観を押し付けた時点で、その言葉は偽善になるのかもしれない。
マザー・テレサの言葉
人は不合理、非論理、利己的です。気にすることなく、人を愛しなさい。あなたが善を行うと、利己的な目的でそれをしたと言われるでしょう。気にすることなく、善を行いなさい。目的を達しようとするとき、邪魔立てする人に出会うでしょう。気にすることなく、やり遂げなさい。善い行いをしても、おそらく次の日には忘れられるでしょう。気にすることなく、善を行い続けなさい。あなたの正直さと誠実さとが、あなたを傷つけるでしょう。気にすることなく、正直で誠実であり続けなさい。
助けた相手から恩知らずの仕打ちを受けるでしょう。気にすることなく助け続けなさい。あなたの中の最良のものを世に与え続けなさい。けり返されるかもしれません。気にすることなく、最良のものを与え続けなさい。気にすることなく、最良のものを与え続けなさい…。
あなたは、あなたであればいい。
なお、この言葉を発したマザー・テレサ自身も(特に「死を待つ人々の家」関連で)偽善者と指摘されることの多い人物であることに留意が必要である。
その他
偽善者ぶる
「君はいい人だ」といわれて「本当の良心からじゃなく、自己満足のためだ」というふうに返す人の様子。自分の慈善行為の正しさに自信が持てないことを示唆し、ないし最初から偽善と位置づけることで自他の非難を軽減しようと予防線を張る心理をあらわす。
偽悪・偽悪家
偽善の反義語であるが、使用される事例は偽善に比べるとかなり少ない。善と違い、悪はわざわざ「偽」と判定する必要性がなく、そのまま悪として認識されることが多いからである。またそのような行為を行う人は、偽悪「者」ではなく偽悪「家」と呼称される。
創作物では最終的に大義と言える目的を果たすため、敵の組織に潜り込んでわざと裏切ったふりをするだけでなく、味方をも欺いてみずから敢えて憎しみを一身に受けるため、悪役サイドとして悲劇的な最期を遂げる場合も多い(が、本人は「私が死んでも、これで○○が助かるなら本望だ」などのセリフを残して、満足しながら息を引き取るパターンもよく見られる)。山本周五郎の小説「樅ノ木は残った」の主人公・原田甲斐や、アニメ「コードギアス」の主人公・ルルーシュなどが代表例である。
実在人物では「第六天魔王」を自称した織田信長や、「串刺し公(ツェペシュ)」の異名で知られるヴラド・ドラクリヤなどが代表的な偽悪者とされる。ただし、彼らは汚名を被ることによる恩恵を得るために敢えて悪行をアピールした人物であり、偽悪家と露悪家にどちらに分類すべきかは悩ましい。
露悪・露悪家
偽悪とは別の意味で偽善の対として用いられることがある言葉。悪いとされることも堂々と主張・行動したり、悪である事に開き直ったり、利己的である事を正当化する様について呼ばれる。意図的に悪を行うという部分では上記の偽悪と重なる部分があるが、悪を露にしているが「偽」ではないので基本的に何らかの正当性を自己認識している点で異なる。
特に創作作品では皮肉屋や冷笑家、嫌われ者の役割を担うことが多いが、その露悪的行為自体が「建前を捨てた本音という建て前」という一種の偽悪である場合もあり、その裏には感情的な別の本音を秘めているという表現も数多い。もちろん、完全に開き直っている高濃度の悪役というパターンも見られる。
AAで解説
いいか、みんな (゚д゚ ) (| y |) 人の為に 人 ( ゚д゚) 為 \/| y |\/ 善い事をするのは 偽 ( ゚д゚) 善 \/| y |\/ ・・・・!! ( ゚д゚) 偽善 (\/\/
(2ちゃんねるより)
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関連項目
脚注
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