ヤクルト黄金時代とは、1990年代の東京ヤクルトスワローズの強さを象徴する呼称である。
それまでのヤクルト・・・
広岡達朗監督の下1978年に初のリーグ優勝と日本一を達成するも、翌1979年は最下位に低迷。シーズン途中に人事案を巡って、フロントと広岡監督が対立。結果、広岡監督、森昌彦ヘッドコーチ、植村義信コーチの3人が退団することとなった。1980年は武上四郎監督下で2位となるも、以降1981年~1990年まで土橋正幸、関根潤三らが監督を務めるもBクラスからは抜け出せず、チームは低迷していた。
しかし1984年に池山隆寛、85年には広澤克実がデビュー。88年には二人が30本塁打を記録するなど、活躍を見せ始める・・・
1990年(5位 58勝72敗 勝率.446)
この年から野村克也が監督就任、そして古田敦也がデビューする。
開幕戦で「ギャオス内藤・篠塚和典疑惑のホームラン事件」が発生、ポールが黄色に塗り替えられるきっかけとなる。5月には秦真司から古田がレギュラーを奪取。リーグ1位の盗塁阻止率を記録し、ゴールデングラブ賞も獲得する活躍を見せる。
1991年(3位 67勝63敗2分 勝率.515)
6月にチーム新記録の12連勝で首位に立つも、その後失速し優勝争いから脱落するが、最終戦に勝利し3位を確保、11年ぶりのAクラス。
飯田哲也がこの年にブレイク、さらに古田がセリーグ初となる捕手での首位打者に、広沢も打点王に輝く。投手陣では川崎憲次郎が14勝9敗で防御率も2点台の活躍を見せる。
1992年(リーグ優勝 69勝61敗1分 勝率.531)
この年のセリーグは、最終的に全チームが60勝台、読売ジャイアンツと阪神タイガースが同率2位で首位と2ゲーム差と、球史に残る大混戦だった。前半戦を3位で折り返すが、助っ人外国人ジャック・ハウエルが後半戦に一気にブレイクし首位打者・本塁打王の二冠に輝く。飯田哲也も盗塁王のタイトルを獲得。
日本シリーズでは西武ライオンズと対戦。この年デビューした石井一久が、前代未聞の「シーズン未勝利の高卒ルーキーが日本シリーズで先発登板」を果たすも、7戦目までもつれた結果日本一を逃す。
1993年(日本一 80勝50敗2分 勝率.615)
この年、高津臣吾が抑えとして定着し20セーブをあげる活躍をみせる。
さらに新人・伊藤智仁が驚異的な活躍で、前半戦だけで7勝2敗・防御率0.91の成績を挙げ、故障で後半戦を棒に振るも新人王を獲得。広澤克実が2度目の打点王に輝き、二年連続リーグ優勝。そして日本シリーズで再び西武と対戦、またもや7戦目までもつれるが、ついに15年ぶりの日本一を達成した。
多くの選手が活躍する中、古田が盗塁阻止率.644を記録、現在でも破られていない偉大な日本記録を達成した。
1994年(4位 62勝68敗 勝率.477)
四月早々、古田が広島・前田智徳からファウルチップをくらい骨折で離脱、投手陣も不調に陥り低迷。シーズン終了後には広沢がFAで巨人へ移籍するなど、翌年にも不安を残す一年であった・・・
ちなみにこの年は史上初となるシーズン最終戦まで巨人と中日の勝ち数・勝率が並び、最終戦の直接対決で巨人が優勝を決める伝説の「10.8決戦」のあった年である。ちなみに翌日、横浜・ヤクルトも最終戦まで同率5位であり、最後は直接対決(逆天王山)でヤクルトが勝利し阪神と同率四位、横浜が最下位となった。
1995年(日本一 82勝48敗 勝率.631)
土橋勝征がレギュラーに定着しブレイク、古田、飯田も打撃好調、阪神から移籍したトーマス・オマリー、千葉ロッテマリーンズを解雇されてきたヘンスリー・ミューレンが本塁打を量産、さらにテリー・ブロスが最優秀防御率を獲得するなど、助っ人外国人が大活躍した年だった。石井一久も二桁勝利の活躍を見せ、リーグ優勝に輝く。日本シリーズではオリックス・ブルーウェーブ相手に4勝1敗で日本一に。
1996年(4位 61勝69敗 勝率.469)
レギュラー選手に故障や不調が相次ぎ低迷するも、怪我で西武を戦力外にされた辻発彦がシーズン打率リーグ2位を記録するなど「野村再生工場」を象徴する明るい出来事もあった。
稲葉篤紀や、池山から遊撃手のポジションを奪取した宮本慎也がレギュラーに定着するのもこの頃から。
1997年(日本一 83勝52敗2分 勝率.615)
オマリーとミューレンが抜けたものの、この年も野村再生工場が冴え渡る。
広島東洋カープを自由契約になった小早川毅彦や、中日ドラゴンズから自由契約となった野中徹博、福岡ダイエーホークスから自由契約となった廣田浩章らが活躍。新加入外国人のドゥエイン・ホージーが本塁打王を獲得。
投手陣では先発で田畑一也が15勝、吉井理人が13勝。伊藤智も高津とのダブルクローザーで復活した。
他にも真中満がブレイク。
1998年(4位 66勝69敗 勝率.489)
川崎憲次郎が17勝で最多勝・沢村賞を獲得。さらに石井一久が最多奪三振を獲得するも、投打の歯車が合わず4位に終わる。野村監督は同年限りで退団し、後任には打撃コーチを務めていた若松勉が就任。
1999年(4位 66勝69敗 勝率.489)
高津臣吾が最優秀救援投手、ロベルト・ペタジーニが来日一年目で初となる「3割40本塁打」を達成し本塁打王に輝くも、この年は中日が開幕戦からの連勝で日本タイ記録を達成し優勝、さらに横浜マシンガン打線がチーム打率でセリーグ史上最高を記録するなど、他球団の勢いに隠れる形であった・・・
2000年(4位 66勝69敗1分 勝率.489)
石井一久が最優秀防御率・最多奪三振を獲得するも、3年連続Bクラスに。
98年にデビューした五十嵐亮太がブレイクし、古田と最優秀バッテリーに選ばれる。
シーズン終了後、川崎憲次郎がFAで中日へ移籍。
2001年(日本一 76勝58敗6分 勝率.567)
投手陣は先発投手が不足する中、2年目の藤井秀悟が14勝を挙げ最多勝。巨人を解雇されテスト入団の入来智が10勝、オリックスを解雇されテスト入団2年目の前田浩継も7勝と、「リストラ組」もローテーションを支えた。
打線も、本塁打と打点の2冠のロベルト・ペタジーニ、打率2位の古田を筆頭にレギュラー8人が全て規定打席到達という安定ぶりで、4年ぶりのリーグ優勝、さらに若松は球団生え抜きとして初の優勝監督となった。
日本シリーズでは大阪近鉄バファローズと対戦。4勝1敗で4年ぶりの日本一を達成。
若松監督の「ファンの皆さま、日本一おめでとうございます!」はその年の流行語大賞にノミネートされた。
その後のヤクルト・・・
2004年まで4年連続Aクラスと球団記録を達成するも、優勝は出来ず、
さらに90年代を支えた選手の高齢化、引退・移籍が相次ぎ黄金時代は終焉した。
2006年には古田が選手兼任監督となり久しぶりのAクラス入りも、翌年には21年ぶりの最下位となり、現役引退と監督辞任を表明して球界を去った。
2011年には小川淳司監督のもとシーズン2位に食い込み、低迷期脱出かと期待されたが、2013・2014年と2年連続最下位と再び低迷し、2014年オフに小川監督が辞任。後任には真中満が就任することとなり、低迷期脱出に期待がかかる。
2015年、大混戦となったセリーグを制し14年ぶりのリーグ優勝を達成。前年最下位からの優勝は2001年の近鉄以来、セリーグでは1976年の広島以来、史上五度目。
総評
- 「ヤクルト黄金時代」と多くの人が言うものの、実際は優勝⇒低迷を繰り返しており、連続優勝したのは1992・93年だけである。またBクラスに落ちた年も多く、乱高下が目立つ。90年~94年にV5を達成した西武ライオンズの、いわゆる「西武黄金時代」と比較してもやや見劣りする感は否めない。
- 1994年9月にフジテレビが制作した映画「ヒーローインタビュー」がヒットする。主役の真田広之がヤクルトの選手を演じ、ヒロイン鈴木保奈美が新聞記者役だった。
ちなみに、実在する選手は映画に出演しないが、「池山のサインボール貰ってきたぞ」というセリフがあったりする。CHAGEandASKAが歌った主題歌もミリオンヒットを記録するなど、90年代のフジテレビのトレンディ路線を象徴する作品の一つである。この映画のヒットもあってか、当時のヤクルトは「東京の都会的でオシャレなチーム」というイメージもあり女性ファンも多かった。またヤクルトの選手たちがフジテレビのバラエティ番組などに出演する事も多く、ヤクルト球団とフジテレビのメディア・イメージ戦略が多くのファンと注目を集める事に成功した。 - 93、94年は巨人との乱闘、遺恨試合が多く、特に1994年5月11日、神宮球場での乱闘騒ぎでダン・グラッデン、中西親志が骨折。危険球退場が導入されるきっかけとなった(それまでは警告だけだった)。
- 2016年現在、野村監督時代に入団しNPBで現役選手なのは五十嵐亮太のみである。
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