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東京ヤクルトスワローズとは、日本のプロ野球球団でセントラル・リーグの球団である。
概要
セントラル・リーグ | |
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東京ヤクルトスワローズ | |
基本情報 | |
創設 | 1950年 |
本拠地 | 明治神宮野球場 |
一般略称 | ヤクルト |
アルファベット | S |
優勝回数 | |
優勝 | 9回 |
日本一 | 6回 |
セ・パ交流戦 | 2回 |
アジアチャンピオン | 0回 |
経歴 | |
球団組織 | |
運営母体 | ヤクルト本社 |
オーナー | 成田裕 |
プロ野球球団テンプレート |
- 日本プロ野球リーグの球団の一つ。マスコットは燕をモチーフとしており、つば九郎、つばみの2匹からなる。
- 親会社はヤクルト本社。そのため選手にヤクルトが支給されている。
- ホームスタジアムは明治神宮野球場。
- 監督は高津臣吾(2020年~)
プロ野球が2リーグ制に移行した1950年に国鉄スワローズとして結成され、同時にセ・リーグに加入した。ノンプロのベテラン選手が主軸を打つ弱小チームであったが、夏に愛知県・享栄商の金田正一投手が高校を中退して入団し、辛うじて最下位を免れた。金田は2年目からいきなり20勝を記録するが、選手層の薄い国鉄は低迷を続け、初の勝ち越しとAクラス(3位)を記録したのは12年目の1961年のことであった。
翌1962年のシーズン中にサンケイ新聞との業務提携が発表されるが、この新経営陣と金田正一との関係は徐々に険悪となっていく。1964年オフについに不満の爆発した金田は「B級10年選手」特権を行使して巨人に移籍する。翌シーズン中に国鉄も正式にサンケイ新聞に経営権を譲渡し、5月10日よりサンケイスワローズとなった。
ちなみに、国鉄スワローズは結成時点から後楽園球場を本拠地としていたが、東映フライヤーズが明治神宮野球場の使用を認められると「第二球場を本拠地としたい」と表明。アマ側の抵抗により不許可に終わったが、1964年シーズンより明治神宮野球場を本拠地とすることとなった(明治神宮野球場の項にて詳述)。
サンケイスワローズは1シーズンのみに終わり、翌1966年からは手塚治虫が球団後援会副会長だった縁でサンケイアトムズと改称した。ところが、サンケイ新聞も業績不振からヤクルトに球団を譲渡する運びとなり、1969年は表向き共同経営という形でアトムズと名乗ることになった。翌1970年1月に正式に経営権をヤクルトに譲渡し、球団名もヤクルトアトムズとなった。だが、1973年オフに虫プロダクションの倒産により鉄腕アトムのキャラクター使用を中止することとなり、元のスワローズを復活させてヤクルトスワローズとなった。
2006年にはチーム名を現在の東京ヤクルトスワローズに改称するなど在京球団をアピールしているが、東京には同じセ・リーグに読売ジャイアンツがいるためどうしても影に隠れがち。2001年に日本一になって以降、2000年代は3位前後をうろうろし、下には12球団最強のネタチームである横浜ベイスターズがいたため、低迷していた広島東洋カープと共に存在感が薄い(電気グルーヴとスチャダラパーがコラボで制作した曲でヤクルト×広島戦がネタされた事もある)球団だった。
2011年に2位になって以降は、山田哲人やウラディミール・バレンティンといった記録的な成績を残す主力選手の登場と故障者の多さにより、ほぼ2位以上か5位以下の2択という極端に浮き沈みの激しいチームになっており、セ・リーグの順位予想を困難にしている。
同じ東京に本拠地を置く読売ジャイアンツ(ちなみに本拠地の最寄り駅は中央線一本で4駅分しか離れていない)には、金田正一からアレックス・ラミレスに至るまで半ば伝統というレベルで主力選手を奪われ続けており(ジャック・ハウエル、広澤克実、ロベルト・ペタジーニ、セス・グライシンガー、etc…)、その関係もあってヤクルトファンにはアンチ巨人が多い。その感情はある意味、広島ファンが阪神へ向ける対抗心より根が深い。しかし一方で、過去にオーナーが巨人ファンであると明言したり、歴代監督に巨人OBが多かったりする。なお、21世紀に入ってから2010年まで、ヤクルトは一度も巨人にシーズンで勝ち越したことがなかった(2011年にようやく勝ち越し)。
外国人スカウトが優秀な球団として知られ、自前で獲得してきた優良外人選手は数多い。そして資金力不足によって他球団に移籍される。野村克也政権の黄金時代も、日本一になったのはおおむね外国人選手の当たり年であり、選手層の薄さを外国人選手や、他球団を解雇された選手のリサイクルで補うのが得意な球団である。
近年は親会社が医薬品などを取り扱っている会社でもあるにも関わらず、梅雨や秋に入ると感染症が蔓延したり、怪我人が続出したりして一軍のメンバーが足らなくなるなど、「ヤ戦病院」と揶揄されるほど離脱者が多い。コンディショニングの管理体制が不十分であることから球団の体質について不満を述べる選手も少なくない。
球団名
「スワローズ」の名称は元々は1950年、国鉄が球団を持った時(正確には財団法人鉄道協力会が主体となり、財団法人鉄道弘済会日本通運日本交通公社(現:JTB)などの企業で、「国鉄野球株式会社」と言うのを作った。と言う事で国鉄本体が経営していたわけではない)。
当時、国鉄で数少ない特急列車だった「つばめ」から取ったという説が有力だが、一応国鉄職員からの公募制で選考会議を経て決まった。
ちなみに「最初はコンドルズだったが、『混んどる』というイメージがつくのでスワローズに変えた」は嘘であり、選考会議の時に委員の一人がコンドルの名前を見て「コンドルは『混んどる~』につながる。『坐わろ~』の方がいい」と冗談を飛ばしたのが事実である[1]。
1966年、既に経営権を譲渡されていたサンケイがアトムズ(鉄腕アトム)に改名するが、1973年に虫プロダクションが倒産。アトムの名前を使えなくなり、スワローズに再改名。以後はずっとスワローズ(一説ではあまりにも当時弱かったために虫プロ側からアトムの名を使わないで欲しいと言われたという説も)。
ちなみに2008年に企画としてアトムズ時代のユニフォームが復刻された。
関係者
首脳陣
※就任、退団などでの異動は球団の正式発表があるまで編集しないでください。
一軍 | 二軍 |
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所属選手
※トレード、自由契約などの異動については、NPB公示 があるまで編集しないでください。
※ドラフト指名を受けた新入団選手は入団発表後に追加してください。
支配下選手 | |||
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投手 | 捕手 | 内野手 | 外野手 |
育成選手 | |||
投手 | 捕手 | 内野手 | 外野手 |
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記事のある打撃投手・ブルペン捕手
記事のあるその他のスタッフ
- 青木宣親(ゼネラルマネージャー特別補佐)
- 阿部健太(スカウト)
- 伊東昭光(編成部長兼編成グループチーフ)
- 岡林洋一(球団編成グループ課長・プロスカウト担当)
- 小川淳司(ゼネラルマネージャー)
- 小野公誠(査定担当)
- アーロン・ガイエル(駐米スカウト)
- 川島亮(営業部)
- 河端龍(広報課長)
- 斉藤宜之(スカウト)
- 武内晋一(育成担当)
- 中澤雅人(二軍マネージャー)
- トニー・バーネット(編成部アドバイザー)
- 松岡健一(球団スタッフ)
- 三輪正義(広報)
- 宮本賢治(ファームディレクター)
- 村中恭兵(アカデミーコーチ)
- 山部太(球団職員)
- 吉田大成(スカウト)
- 渡邉大樹(スコアラー)
- 度会博文(スカウト)
OB
戦績
1968年
1968年にエース石戸四六が20勝を記録して勝率.492と5割まであと一歩のところまで行くが、1970年にその石戸が体調不良で低迷するとチームも勝率.264で最下位を独走する(年現在、セ・リーグで勝率3割を下回ったのはこれが最後)。シーズン途中で監督の別所毅彦は解任された。
1970年代
1971年より三原脩が監督に就任する。1970年のドラフト会議で、中西太打撃コーチ(三原の女壻)の推挙により若松勉が指名された。若松は中西の指導で1年目から頭角を現し、2年目にはいきなり首位打者を獲得した。在任3年間で一度もAクラスには手が届かなかったが、3年目には勝率.488まで持ち直すなど崩壊しかけたチームを一気に建て直した。
1974年より打撃コーチの荒川博が監督に昇格する。1年目は勝率5割未満ながら13年ぶりのAクラス入りを果たし、オフに日本ハムファイターズとの間で超大型トレードが成立し、大杉勝男を獲得した。
1976年は開幕から低迷し、荒川は5月に辞任、監督代行を経て6月より広岡達朗が監督に就任した。シーズン負け越し記録は国鉄時代の1962年から15年連続となり、これは現在でもセ・リーグワーストタイ記録である。
1977年は来日2年目のチャーリー・マニエルが日本野球に順応し、首位の読売ジャイアンツには大差をつけられたが2位に躍進した。
そして迎えた1978年、新外国人選手のデーブ・ヒルトンも活躍し、巨人を振り切ってついに悲願の初優勝を果たした。日本シリーズでも阪急ブレーブスを4勝3敗で下し、日本一に輝いた。だが、シーズンオフに主砲のマニエルを放出(守備が壊滅的に酷かった)した。
1979年は打線が崩壊、チームも空中分解を起こし広岡はシーズン中に辞任を発表した。
1980年代
1980年からは生え抜きの武上四郎が監督に就任するが、1982年から2年連続の最下位で迎えた1984年も開幕から低迷し、4月に監督を辞任した。
1984年6月より監督に昇格した土橋正幸は1986年まで監督を務め、広澤克実、池山隆寛ら若手を辛抱強く使い続けた。チーム成績は低迷したがイケトラコンビは話題となり、チーム人気はむしろ高まった。
1987年から3年間は関根潤三が監督を務めた。投手力の弱さからなかなか順位は上向かなかったが、1988年に池山と広澤が30本塁打を記録するなど、野手陣は急成長を遂げていた。
1989年からは野村克也が監督に就任するが、その辺りの時代についてはヤクルト黄金時代という項があるので、それに譲りたいと思う。
2006年~2009年
詳細
2006年(70勝73敗3分、3位) 監督:古田敦也(選手兼任)
この年から若松勉に代わり、古田敦也が野村克也以来となる選手兼任監督に就任。球団名を「東京ヤクルトスワローズ」に変更。古田を慕って石井一久と高津臣吾からメジャーから復帰、さらに木田優夫を獲得して迎える。
野村のID野球の後継者として手堅い野球をするものと思われていた古田だったが、蓋を開けてみれば長距離砲のアダム・リグスを「バントをしない2番打者」として起用し、青木宣親、アダム・リグス、岩村明憲、アレックス・ラミレス、グレッグ・ラロッカと並ぶ重量打線を組む攻撃的野球を披露。リーグ最多の161本塁打を放った。
一方、投手陣は石井弘寿と五十嵐亮太の戦線離脱で特にリリーフのコマ不足は否めず、リック・ガトームソンのノーヒットノーランなどはあったが、ほぼシーズンを通して5割進行。3位は確保したものの、借金3に終わった。また監督の古田自身も右肩痛で36試合の出場に留まった。
オフ、岩村明憲がポスティングでメジャーへ移籍。ガトームソンとラロッカが退団した。
2007年(60勝84敗、6位) 監督:古田敦也(選手兼任)
新外国人としてセス・グライシンガーとアーロン・ガイエルを獲得。開幕前から面白い名前の外国人として話題になったが、蓋を開けてみればグライシンガーは16勝を挙げ最多勝。ガイエルも35本塁打を放ち本塁打王争いを繰り広げ、また四死球の多さや珍プレーを多数誘発したことで「魔将」「魔空間」と呼ばれ一躍人気者になった。ラミレスが204安打を放って右打者初の200本安打を達成するなど助っ人が奮闘する。
ところがチームは予見されていた弱点を補えず低迷。岩村明憲の後釜となるサードには外野手の飯原誉士や宮出隆自をコンバートし、畠山和洋と3人で競わせようとしたが失敗。結局誰も定着できずに終わった。さらにリグスが不振に陥って攻撃力が前年から大きく低下した。
投手陣も、先発は石川雅規の不振、ディッキー・ゴンザレスの故障でコマ不足に陥る。石井弘寿、五十嵐亮太が不在のまま補強もなかったリリーフは高津臣吾が衰えを隠せなくなり崩壊。シーズン中にブライアン・シコースキーを獲得、館山昌平を急遽抑えに回すなどしたが、シーズンを通して後ろを固定できなかった。
9月にBクラスが確定すると古田は監督辞任と現役引退を表明。最終的に青木宣親が首位打者と最高出塁率、ラミレスが打点王と最多安打、グライシンガーが最多勝と個人タイトルは多く輩出したが、チームは最下位に終わった。
オフ、グライシンガーとラミレスが揃って巨人に引き抜かれ、9勝を挙げた石井一久がFAで西武に移籍。7勝の藤井秀悟が坂元弥太郎・三木肇とともにトレードで日本ハムへ放出され、高津とシコースキーは戦力外となり、大幅に戦力が流出した。
2008年(66勝74敗4分、5位) 監督:高田繁
前年まで北海道日本ハムファイターズでGMとして手腕を振るっていた高田繁が監督に就任。グライシンガーに代わる新外国人としてダニエル・リオスを、また守護神として林昌勇を獲得。日本ハムから川島慶三、押本健彦、橋本義隆をトレードで、西武からは石井一久の人的保証で福地寿樹を獲得した。
前評判の高かったリオスは見事に期待はずれに終わり、挙げ句にドーピング違反で7月には解雇されてしまうが、逆に韓国では終わった投手扱いされていた林昌勇が懸案だったクローザーに定着。移籍してきた押本に故障から復活した五十嵐、先発から転向した松岡健一の4人で前年とは比べものにならない強力リリーフ陣が形成された。またサードには足の故障で宮本慎也がコンバートされることになり、代わりの遊撃手に川島慶三が定着。前年の弱点はカバーされる格好となった。
しかし、ラミレスの抜けた打線は福地が1番打者として盗塁を量産したが、リグスは大不振で7月に解雇、ガイエルも不調で破壊力不足が否めず、交流戦からは年俸900万円の畠山和洋が4番打者に抜擢されて「球界一年俸の安い4番打者」と話題になる状態だった。先発陣も石川の復活に館山がローテーションに定着、村中恭兵が台頭するなどしたが過渡期の感は否めなかった。
グライシンガーとラミレスを引き抜かれた巨人には開幕3連戦こそ叩くもののその後は完全にカモにされる。結局シーズンを通して勝率5割弱のところをうろうろし続け、借金8の5位に終わった。石川が最優秀防御率、福地が盗塁王を獲得。
2009年(71勝72敗1分、3位) 監督:高田繁
古田が兼任監督となって以来、米野智人・福川将和・川本良平のドングリーズが背比べを続けていた正捕手争いに終止符を打つべく、球団初のFA獲得選手となる相川亮二を横浜から獲得。相川は期待に応えてドングリーズを一蹴し、新天地でも正捕手に定着した。
前年破壊力を欠いた打線は、新外国人のジェイミー・デントナの加入とガイエルの復活で長打力が補われ、青木宣親が前半戦大不振に陥ったものの前年より攻撃力は改善された。リリーフは松岡の不調があったものの前年に続き奮闘。先発陣は館山が快調に白星を重ね、石川は安定、由規が台頭、戦力外から育成枠で獲得したユウキも活躍するが、村中や増渕竜義ら若手投手陣が伸びきらず充実とまではいかなかった。
前年から全体的に戦力が底上げされたことで夏場までは巨人と中日を追いかけていたが、後半戦で失速し、終盤は阪神・広島と低レベルな熾烈なCS争いに突入。どうにか2チームをかわし、借金1だったものの3位に滑り込んで初のCS進出を果たした。
CSでは1stステージで中日に敗れる。福地が2年連続の盗塁王を獲得。前半戦不振だった青木も最終的に3割まで巻き返してしっかり最高出塁率をさらっていった。オフには五十嵐亮太がFAでメジャーへ移籍。
2010年代
詳細
2010年(72勝68敗4分、4位) 監督:高田繁→小川淳司
川島慶三の故障により、阪神からFAで藤本敦士を獲得した程度で、戦力の入れ替えがほとんどなくシーズンを迎える。
開幕当初こそ順調なスタートを切ったがすぐに失速。中軸のデントナとガイエルをはじめ、青木、福地、田中浩康らレギュラー野手ほぼ全員が揃って不振に陥り、打線が完全に機能不全状態になる。みるみる借金はふくれあがり、交流戦に入った5月には9連敗などで借金19を抱え最下位独走状態になる。
どん底のチーム状態の中、高田繁監督がシーズン中に成績不振のため辞任。代行として小川淳司ヘッドコーチが指揮をとることになる。小川監督代行はすぐさま打線の再構築に着手。3番に回っていた青木を1番打者に戻し、7月には不振のデントナとガイエルを外して緊急獲得したジョシュ・ホワイトセルを4番に据え、福地を控えに回して畠山和洋をほとんど経験のないレフトに置いてスタメン起用するという大胆な策に出る。するとこれが見事にはまってチームは一気に上昇気流に乗る。8月には19あった借金を完済し、CSにこそ手が届かなかったものの、最終的に貯金4まで巻き返した。監督交代後の勝率は優勝した中日を上回り、その快進撃は「メークミルミル」とも呼ばれた。
由規と村中が2桁勝利を挙げ、増渕がセットアッパーとして奮闘。前述の畠山や川端慎吾らが台頭し、若い力で勝ち取ったどん底からの逆襲に、翌年への大きな期待と希望を残すシーズンになった。
オフ、代行である小川と、もともと次期監督が既定路線だった荒木大輔コーチとの間で翌年の監督の座をめぐるごたごたが発生したが、結局チームを立て直した手腕が評価されて小川の監督続投が決定。横浜の身売り騒動の中、某スポーツ紙で身売りの記事が出たが、結局誤報でありファンは胸をなで下ろした。
2011年(70勝59敗15分、2位) 監督:小川淳司
補強は新外国人としてウラディミール・バレンティンを獲得、戦力外から濱中治と宮出隆自を拾い上げる。移籍が懸念された林昌勇が無事残留、基本的には昨年とほぼ変わらない戦力で迎えた2011年。とはいえ前評判は「昨年の後半戦は確かに強かったが、層の薄さは否めない。主力に故障者が出なければワンチャン上位も」というところだった。
開幕前に不調だった畠山和洋を外し、濱中を3番に起用するオーダーで開幕を迎えるが3連敗とさっぱり当たらず。さらに川島慶三と村中恭兵が速攻で故障して姿を消す。結局、開幕5試合目で畠山が4番に戻ると、そこからいきなり引き分けを挟んで9連勝の快進撃で、チームは快調に滑り出した。バレンティンが打線に破壊力を加え、セットアッパーに転向したトニー・バーネットとルーキーの久古健太郎がリリーフでフル回転。昨年後半戦の快進撃のメンバーに新戦力が台頭し、充実の戦いぶりで首位ロードを快走した。
バレンティンが徐々に置物化、由規の離脱などがあったが、七條祐樹の台頭などで穴を埋め、7月の終わりにはセ・リーグの貯金を独占。2位以下に8ゲーム差をつける独走で、ほぼリーグの趨勢を決めたような状態だった。
しかし、誰かが不調になると全員不調になるのがヤクルトである。8月に入ると打線が急激に打てなくなり、川端を3番に回すなど試行錯誤しているうちにずるずると失速。みるみる貯金をすり減らし、8月の終わりには巨人に1.5ゲーム差まで迫られる。だが、逆に言えば調子が上がれば全員好調になるのもヤクルト。9月に入るとラストスパートとばかりに9連勝。再び2位以下との差を大きく広げ、今度こそ決まったと誰もが思った。
ところが優勝争いの経験がほとんど無いまま独走していたチームのスタミナは、ここで既に尽きていた。バーネットが骨折、久古が肺炎で戦線離脱しリリーフ陣が駒不足に陥ると、館山は血行障害に苦しみ、相川も骨折を押しての出場になるなど悪夢のようなレベルで故障者が続出。そして畠山、川端らが10月に入ると全く打てなくなり、チームは完全に機能不全状態となった。その失速を見計らっていたかのように、下からスパートをかけてきたのは中日。満身創痍のヤクルトにその猛追を振り切るだけの力は既になく、多数残っていたナゴヤドームでの直接対決でボコボコにされ万事休す。同じく追い上げてきた巨人はなんとか振り切って2位を確保、本拠地でのCS開催を実現したが、シーズンを通して戦いきるスタミナの不足と、最初から終盤を見据えていた中日との経験の差の前に膝を屈することになった。
クライマックスシリーズでは、1stステージで総力戦の末2勝1敗で巨人を撃破し、初めてファイナルステージへ進出。ファイナルステージでもなりふり構わない捨て身の采配で一時は2勝2敗のタイに持ち込むが、最後に力尽き2勝4敗で中日の前に敗れ去った。
オフ、青木がポスティングでメジャーへ移籍。そのほか川島亮(金銭)と橋本義隆(楠城祐介との交換)がトレードで楽天へ放出、ホワイトセルが退団となり、石井弘寿、濱中治、魔将ガイエルが引退した。
2012年(68勝65敗11分、3位) 監督:小川淳司
新戦力として、青木の抜けた外野に実力は十分だが問題児という評判のラスティングス・ミレッジと、投手では台湾で無双していたオーランド・ロマンを獲得。
蓋を開けてみれば、ミレッジは野球に対しては真摯でむしろ真面目な部類の性格でありレギュラーとして活躍、ロマンは調整の遅れた林昌勇を押しのけて先発ローテーション入りと、例年通りの外国人スカウト能力の高さを発揮した。前年攻略されたかに思われたバレンティンも復活して本塁打を量産、クローザーに配置転換されたバーネットも好投を見せ、序盤は快調な滑り出しを見せる。
しかし、前年優勝を逃す原因となった故障ラッシュはこの年も続いた。由規は右肩痛と左膝の骨折で、川島慶三も右肘靱帯の手術でシーズンを棒に振り、昨年フル回転した久古健太郎は血行障害の影響で出遅れる。開幕直後には松岡健一が右太もも痛で、相川亮二が自打球を当てて骨折し離脱。5月には村中恭兵と川端慎吾、武内晋一が戦線離脱し、交流戦に突入してすぐ悪夢の10連敗。おまけにバレンティンまで一時戦線離脱して、チームは交流戦最下位に沈んだ。
交流戦が開けてもまだまだ故障禍は終わらず、林昌勇は右肘を痛めてシーズン絶望となり、ポスト青木と期待された上田剛史は右肩痛で、チームの支柱である宮本慎也も骨折で離脱、バーネットも一時腰痛で離脱。7月頃から待望の和製大砲として台頭してきた松井淳も8月末に骨折で姿を消し、シーズン終盤には川本良平やミレッジも離脱と、いちいち挙げていたらキリが無いレベルで故障者が続出。シーズンを通して離脱せずに活躍したのが赤川克紀、日高亮、押本健彦、ロマン、田中浩康、中村悠平ぐらいという惨憺たる有様であった。
そんなチーム状態ながらも、赤川がローテーションを守って規定回数に到達し、山本哲哉はセットアッパーに定着して後半戦のリリーフ陣の救世主となる。日高が左の中継ぎとしてフル回転、独立リーグから拾ってきた正田樹もまずまずの働きを見せる。ポスト相川には中村悠平が台頭、外野では前述の松井や雄平が台頭し、内野では森岡良介がスーパーサブとして存在感を発揮、福地寿樹や宮出隆自といったベテランが穴を埋めるなど、必死のやりくりでチームは広島とのCS争いに踏みとどまる。最終的に直接対決で広島を蹴落とし、何とか貯金3で3位を確保した。
クライマックスシリーズではあと一歩まで中日ドラゴンズを追い詰めたが、最後にバーネットがトニ・ブランコに逆転満塁弾を浴び終戦した。
オフ、福地寿樹と宮出隆自が惜しまれつつ現役引退してコーチに転身。林昌勇が故障もあって退団。福川将和、小野寺力、一場靖弘などが戦力外となった。
2013年(57勝83敗4分、6位) 監督:小川淳司
前年外国人4人が揃って活躍したこともあってかオフの間に新外国人の獲得はなく、ドラフト以外の新戦力は戦力外から拾ってきた藤田太陽と岩村明憲、開幕直前に川本良平とのトレードで獲得した田中雅彦だけと、相変わらず補強らしい補強をしないまま迎えた2013年。前評判はさほど悪くもなく、怪我人と外国人次第という評価でシーズンを迎えたが、過去2年チームを苦しめた故障禍は収まるどころか、ますます猛威を振るうことになった。
川端慎吾とウラディミール・バレンティンが開幕に出遅れたのに始まり、4月18日までにエースの館山昌平、正捕手の相川亮二、外野で準レギュラー起用されていた雄平、中継ぎの日高亮・平井諒、そして抑えのトニー・バーネットが戦線離脱。館山昌平と雄平はシーズン絶望となり、開幕して一ヶ月も経たずにチームはヤ戦病院状態に。
それでも怪我人が多いだけならまだマシだったが、この年はそれに加えて、野手では田中浩康と畠山和洋が大不振。投手でも石川雅規がピリッとしないのに始まり、先発陣は赤川克紀や村中恭兵といった若手がボロボロで、中継ぎも松岡健一、押本健彦らのこれまでリリーフ陣を支えてきた面々が不振に陥る。頼みの外国人もバーネットはボロボロ、オーランド・ロマンもチーム事情に振り回されて先発と中継ぎを行ったり来たり、夏場にはラスティングス・ミレッジが戦線離脱でシーズン絶望という有様で、チームは投手、野手とも完全な火の車状態と化す。こんな状態で勝てるはずもなく、チームは低空飛行が続いた。
明るい話題が無かったかといえばそんなことはなく、ルーキー・小川泰弘が最多勝ペースで勝ちまくり、復帰してきたバレンティンは凄まじい勢いでホームランを量産する。結局、小川はなんとルーキーにして最多勝・最高勝率に輝き新人王を受賞、バレンティンに至ってはシーズン本塁打の日本記録・アジア記録を更新する前人未踏のシーズン60本塁打 という大記録をマーク。しかし野球がチームスポーツである以上、投手1人、野手1人が飛び抜けた成績を残してもどうにもならなかった。
結局、チームは浮上のきっかけも掴めないまま9月には最下位が定位置になり、そのまま6年ぶりの最下位でシーズンを終えた。開幕からほぼ1年間一軍に居たと言っていいのが、野手は宮本慎也と森岡良介と中村悠平、投手は小川泰弘と八木亮祐と山本哲哉の6人だけと言えば、いかにチームが火の車であったかが伺える。
山田哲人や上田剛史がレギュラーに定着、小川の影に隠れてしまったがルーキーの石山泰稚がセットアッパー・クローザーとして奮闘したなど、チーム状況がボロボロが故な部分はあれど若手の台頭があったことは付記しておきたい。一方で期待を裏切った若手も多かったわけだが…。
なお、バレンティンは史上初となる最下位チームからのMVPを受賞。最多勝投手と大記録を打ち立てた打者がいながら最下位という、前回の最下位であった2007年と妙に重なり合うシーズンであった。
オフ、小川監督は留任となり、荒木大輔コーチらが最下位の責任を取る形で退任となった。宮本慎也と藤本敦士が現役を引退、藤田太陽・正田樹などが戦力外となった。
2014年(60勝81敗3分、6位) 監督:小川淳司
詳細はプロ野球2014を参照
2015年(76勝65敗2分、1位) 監督:真中満
詳細はプロ野球2015を参照
14年ぶりのリーグ優勝を達成。日本シリーズでは1勝4敗でソフトバンクに敗れた。
2016年(64勝78敗1分、5位) 監督:真中満
詳細はプロ野球2016を参照。
2017年(45勝96敗2分、6位) 監督:真中満
詳細はプロ野球2017を参照。
2018年(75勝66敗2分、2位) 監督:小川淳司
詳細はプロ野球2018を参照。
2019年(59勝82敗2分、6位) 監督:小川淳司
詳細はプロ野球2019を参照。
2020年代
2020年(41勝69敗10分、6位) 監督:高津臣吾
詳細はプロ野球2020を参照。
2021年(73勝52敗18分、1位) 監督:高津臣吾
詳細はプロ野球2021 を参照。
2022年(80勝59敗4分、1位) 監督:高津臣吾
詳細はプロ野球2022 を参照。
2023年(57勝83敗3分、5位) 監督:高津臣吾
詳細はプロ野球2023 を参照。
2024年(62勝77敗4分、5位) 監督:高津臣吾
詳細はプロ野球2024 を参照。
年度別球団成績
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順位シーズン最高成績(チーム)シーズン最低成績(チーム) |
関連動画
商品検索
関連項目
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