北条義時(1163~1224)とは、平安時代末期から鎌倉時代にかけて活躍した武将である。
概要
源頼朝が平家に対して挙兵すると、頼朝に従った。大庭景親との石橋山の戦いで敗れると、兄・北条宗時と死別する一方、父・北条時政と甲斐方面に敗走。そのため頼朝より一足早く安房に渡り、同地で合流した。すでにこのころより三浦義澄、和田義茂、梶原景季、千葉胤正、葛西清重、下河辺行平、結城朝光ら頼朝の信頼する若い御家人の一人だったようだ。
1184年には平家追討のため、源範頼軍に参加。葦屋浦の戦いで原田種直父子を破る。1189年には藤原泰衡を討つ軍勢に参加しているが、戦いには名前が見えず、源頼朝のそば近くにいたようだ。
戦後には御所女房阿波局(義時の姉妹である阿野全成の妻とは別人)との息子・北条泰時が元服した一方、比企朝宗の娘・姫の前を妻に迎える。
1199年に源頼家に代替わりすると、側近を登用し政治を刷新しようとする頼家への反発のために設けられた、合議制を行う十三人の宿老に選ばれる。義時は頼家から信頼されていたが、比企氏の乱では北条泰時らとともに比企氏、頼家の息子・一幡らを滅ぼす役目を担った。その結果比企能員が守護を務めた信濃、比企党の島津忠久が守護を務めた大隅を与えられる。さらに1204年には相模守にもなる。
1205年の畠山重忠の乱では弟の北条時房とともに北条時政から離反。畠山重忠を討ったものの讒訴であることを報告する。その結果牧氏事件で、父・北条時政が失脚し、代わって執権に就任した。その結果駿河、伊豆などの守護職も得ることとなる。以後の幕政は義時、北条時房、大江広元、三善善信、伊賀朝光らによって運営された。
以後、義時は有力御家人を抑圧し、自身を他の御家人と一線を画す存在に高めようとしたが、北条政子らの反発で失敗する。しかし1213年に泉親衡の陰謀が発覚すると、それに和田義盛の一族が関与していたことから義盛を挑発。和田合戦の勝利で義盛を滅ぼし、侍所別当の地位も手に入れた。こうして以降北条氏は、政所別当と侍所別当を合わせた執権として栄えていくこととなる。そして1217年には陸奥守となり、父・北条時政の官位を超えることとなった。
1219年には源頼家の子供、公暁に源実朝が殺される。このとき、義時は急に病気になり、本来実朝のそばで供奉する予定だったのが、辞退されていることから、様々な陰謀説が唱えられていたが、真相は闇の中である。なにはともあれ、このために源頼朝以来の右大将家が断絶し、阿野時元、禅暁ら血筋が近しいものが次々に殺されていく。その結果義時や北条政子、北条時房は皇族将軍として冷泉宮頼仁親王を迎えようとするが、後鳥羽上皇の同意を得られず、摂家出身で後の九条頼経を新将軍として迎えることとなった。
こうして鎌倉と京の間に緊張関係が次第に増していくと、義時は伊賀光季を京都守護として向かわせるが、1221年に承久の乱が起きて光季は殺され、後鳥羽上皇から義時への追討の宣旨が発せられた。ところが、三浦義村以下多くの東国御家人が、北条政子の演説もあって幕府側へ着き、北条泰時、北条朝時、北条時房らが率いる幕府軍は勝利。義時は仲恭天皇を廃位させ、傍流の後堀河天皇を即位させ、戦後処理を行うが、1224年に病が重くなり、そのまま亡くなった。
関連項目
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